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#1 御挨拶

#99
平成20年6


チャンドックンの屋根の下で雨宿り  


♪オルマナ ウロットンガ トンベクアガシ♪
(どれだけ泣いたか 椿娘よ)

ソウル 2008年5月


 
 李 美子ってごぞんじでしょうか?イ・ミージャと読みます。韓国の美空ひばりといわれる国民的演歌歌手です。今回お会いしにソウルに行ってきました。お読みいただければうれしいです。

    
 
イ・ミージャさんは今年67歳。チョ・ヨンピルやナフナと同世代かむしろその前からの大歌手で、来年芸能生活50年になられます。主人が初めてイ・ミージャさんにお会いしたのは、15年前のことです。当時全日空の機内誌『翼の王国』に「Sketch of Japan」というエッセイを連載中だった佐藤隆介先生から、「今度スペシャルヴァージョンのSketch of Asiaで韓国の演歌歌手を取材したいが、デンサンは韓国通だから、誰か推薦してくれないか」というお話がありました。デンサンというのは主人のニックネームです。デンサンは張り切って「それなら韓国の美空ひばりといわれるイ・ミージャが一番でしょう」と答えました。「会えるかな?」「手を尽くしてみましょう」ということで、デンサンがイ・ミージャさんにアポイントを取ることになりましたが、これが簡単なことではなかったのです。2度ソウルに下調べに行き、福岡におられる、以前イ・ミージャさんと接触のあったテレビ局のプロデューサーさんのアドバイスもあって、ようやくインタビューが決定し、佐藤先生と編集スタッフ、カメラマンをデンサンが案内してソウルで首尾よく取材ができました。
 イ・ミージャさんはとても控え目な上品なかただったと、デンサンは印象を語りました。
 その後、イ・ミージャさんのコンサートが大阪で行われた時にデンサンは飛んでいって、ご夫妻にお会いしました。それからは長いこと機会がなかったのですが、今回、最近お友達になった、チェ・イソプ氏(プロデューサー)、奥様のキム・ソンヨンさん(ドラマ作家)というお二人がデンサンのイ・ミージャ好きを知って、5月8日に行われる「イ・ミージャ オボイナル コンサート」というショーに招待してくださったのです。オボイナルは父母の日という意味で、さすが韓国は日本と比べようもないくらいに熱心です。

 ひと月前からソワソワしたあげくに、わざわざ新調した服は思いがけない寒さのために合わなくなり、雨風のソウルへジーンズでいく羽目になりました。5月も半ば近いというのに、セーターがいる寒さでした。
それでは、私たちのソウル旅行のフォトジャーナルをどうぞ。





5月7日昼ごろソウルに着いて、まずWestin Chosun Hotelにチェックイン。ここは歴史のあるホテルで、さすがにサービスがすばらしい。ここで息子のキム・デヨン(若い時にうちにホームステイして10年近くいた青年、今は結婚してソウルにいる)と、その妻シン・ヨンヒと待ち合わせて、ソウル観光に出かける。デンサンは何度も来ているが、出不精の私は初めて。有名なマンドチブで巨大な蒸し餃子を食べて、最初に世界遺産、昌徳宮(チャンドックン)へ。日本語ガイドさんに従って歩き始めたらすぐに大雨が降り出して雷まで鳴る始末。傘はないし、寒いし・・・。

         昌徳宮
  

楽善斎
               
1時間半のコースを20分で離脱して出口に勝手に向かう。途中で構内にある李朝最後の皇太子の妃、李 方子様(まさこ様、韓国名イ・パンジャ様)がお住まいになった楽善斎(ナクソンジェ)を見たかったのだけれど、公開してなくて遠望だけ。方子様の数奇な運命に関心があるので、いつかきっと見たいと思う。ソンヨンさんにパンジャ様の生涯をドラマに書いてと頼んだら、すでに有名作家が名乗りをあげておられるそうで、2、3年後には見られることでしょう。
  
夕食はインサドンの「智異山」(ちりさん)で。
写真は、シン・ヨンヒとキム・デヨン。真ん中のハルモニ(おばあさん)は誰かって? 知らん人よ。

ここでは辛いものが苦手な私のために、いろいろ頼んでくれて、結構食べました。ダイエット中だってこと、ころっと忘れとりました。

          「智異山」の前で
  

トンギョン、ウンジョン、トンヨン
   
「智異山」には娘キム・ウンジョン(うちに前にホームステイで1年いた女の子、今は結婚して二児の母)も呼んだ。夫は夜勤で来られなくて、ウンジョンの母親が付き添って二人の子、トンギョンとトンヨンを連れてきてくれた。二人とも元気ないい子だ。二次会のノレバンではトンギョンのワンマンショーだった。5歳ですでに番長をはっている。母親の血だな、と感心する。歌い疲れて眠り込んだトンギョンはいくら揺すっても起きず、ハルモニの背中におぶわれて帰って行った。
  
翌日は午前中にまたインサドンに行って仏教関係の店の面白いところをいろいろ回り、ちょっとしたものを買って楽しんだ。近くのお寺を参拝したが、釈迦生誕の旧暦4月8日が近いので提灯がたくさん飾られ、出店が並んで、お祭り気分で楽しかった。昼食はテヨンと3人で日本人の行かない、韓国のサラリーンマンであふれた店で魚を食べたけど、ここのテンジャンチゲが最高においしかった。「コーウンニム(美しい人)」という名の店だった。Chosun Hotelの近くの横丁。
夕方、グランド・インターコンチネンタルホテルで、招待してくださったキム・ソンヨンさんとチェ・イソプさんに会ってホテル内のコンサート会場へ連れて行っていただいた。右の写真の、演歌歌手みたいに派手な着物を着ている太めのコーウンニムは誰か知らん人。

       ソンヨン夫妻
  

イ・ミージャさん
       
イ・ミージャさんの熱唱に感激する。67歳とは思えない声の張り。高い金色のハイヒールで2時間。
観衆はオボイナルとあって、孝行息子・娘が両親をつれてきているという感じが多く、その両親がイ・ミージャ世代のためか、大いに盛り上がる。私もCDのイ・ミージャ全集で予習していたおかげで、大部分の歌を知っていたし、意味もある程度調べていたので、完璧に溶け込んだ。写真はアンコール曲の「椿娘」を熱唱するイ・ミージャさん。
    
コンサート終了後、楽屋でイ・ミージャさんにお会いできた。デンサンは3度目、わたしは「チョウムペッケスムニダ」(初めまして)。デンサンを覚えていてくださって、感激。
椿の柄のコーヒーカップセットをお土産に渡してお別れした。来年日本に来られるそうで、その時またお会いしましょう。
ソンヨンさんのおかげで、最高の贅沢をさせていただきました。カムサハムニダ、ソンヨンシ。

      イ・ミージャさんと記念撮影
  

このビルは6階まで骨董品屋がびっしり
コンサートの興奮さめやらず、ハンガン(漢江)の見事な夜景をみわたせる高台のホテルに席を変えてワイン。飲めない私は、いちばん高そうなケーキをたのんで、これがおいしいことったら。ただし、巨大だったので、泣く泣く少し残した。12時半ごろインターコンチネンタルに戻って爆睡。
翌朝ソンヨンさんが迎えにきてくださって、骨董品の街チャンアンドン(長安洞)に連れて行っていただく。面白くて時間が足りない。民画や朝鮮時代の家具が好きなデンサンは動かない。私は翡翠などの玉を買いたいけど、デンサンが見てるので、ヘソクリを出せない。あきらめた。また一人で来よう。デンサンは虎とカチガラスの民画を買った。虎は悪鬼を払いカチガラスは幸運を運ぶという。
  
昼食は高級な街の洒落た韓式料理の店で。日本女性が4人来ていた。言葉で困っておられたので、でしゃばりの私が通訳してあげた。スゴイでしょ。たった一言ですけどね。そのあと、雨で見られなかった昌徳宮の代わりに、景福宮(キョンボックン)に立ち寄る。衛兵たちが赤い着物を着てじっと立っている。一番ハンサムな脊高ノッポさんと並んで写してもらった一枚が、ぼやけてる!残念。それでこの写真を。宮殿の後ろに見えるのはプッカン山。
          景福宮で
  

王様と王妃様のお散歩 
    
ちょうど良く、王様と王妃様のおなり。階段の上にいたので失礼ながらそのまま見下ろす。首を切られるかと思ったが、黙って通り過ぎられた。韓国の時代劇を結構見ているので、「あれがサングン、あれがネーシ」などと、わかったふりしていい気持ち。「チョーナー(殿下)」と呼びかけたかったが、我慢した。ファンテジャ(皇太子)は居なかった。今日は金曜日だから学校へ行ったんだろうね。
  
プッカン山の下には大統領官邸・青瓦台がある。写真では青い瓦の建物が陰になって見えないが、通り過ぎる時に肉眼では見えた。ここを過ぎ、一路インチョン空港へ送ってもらって、私たちのソウルの旅は終わった。「トンベクアガシ」(椿娘)や「ソムマウルソンセンニム」(島の村の先生)をくちずさみつつ空路は追い風で1時間で福岡空港着。
あまりにも短いソウルの旅だった。

         青瓦台の正面



ここで特別サービスで、1993年8月号の『翼の王国』から、佐藤隆介先生の書かれたものをお見せします。
お楽しみください。


李美子(イミジャ)の、
歌はわが生命。


佐藤隆介 文
鈴木勝 撮影
大河内明彦 コーデネイト



 ソウルのタクシーには、色が淡いブルーの相乗り型と、焦茶色に金を配した貸切り型の二種類がある。後者は日本のタクシーと同じだが、相乗り型は行先が同じ方向の客を次々に拾って乗せる。当然、こちらは基本料金も安く、いわば小型乗合バスの感じだ。
 四日間ソウルに滞在し、それぞれのタクシーに何度も乗った。運転手氏が車内に流す音楽が対照的で面白い。貸切り型では
もっぱら西洋音楽だが、大衆用相乗りタクシーでは圧倒的に歌謡曲である。それも日本でいうところの演歌だ。不勉強にしてことばはわからないが、そのメロディーといいリズムといい、こぶしのきかせかたといい、まさに演歌そのものである。
 だから、カラオケがまったくだめな私のような人間でも、次に歌がどうなって行くか予測がつき、つい一緒にハミングしてしまったりする。外国の知らない歌を初めて聴くという気がしないのだ。日本の演歌のルーツは韓国にあるとする説がある。そんなバカなことはあり得ないとむきになって否定する説がある。どちらが正しいのか門外漢にはわからないが、韓国のタクシーの中で聴いた歌に少しも異和感を持たなかったのは事実だ。

 一夕、南山公園の北麓にあるホテルパシフイツクの「ホリデイインソウル」へ生の歌を聴きに行った。小さな映画舘ぐらいの広さがあるライブスポットで、飲んだり食べたりしながら歌や声色を楽しむことができ、ミニマムチャージが約四千円である。一生このまま舌がしびれっ放しかと思うほど激辛の鍋料理(味も一生忘れられないうまさだったが・・・・・)を鱈腹つめこんだあとだったので、ビールで口中を冷やしながらショウの開幕を待った。
 歌が始まるとたちまちビールを飲むことを忘れてしまった。数人の歌手が何曲ずつかを歌うが、思わず居ずまいを正すほどの迫力がある。一曲ごとに全身全霊を籠め、文字通りの熱唱で、次の歌手にマイクを渡すときには滝のような汗だ。ちょっと顔が可愛いぐらいで歌手になれるどこかの国と違い、この国では歌の持つカだけがものをいう。それだけに彼らは歌にすべてを賭けて歌う。ろくに歌詞がわかりもしないのに、何故か聴いていて胸の底が熱くなったのは、その真摯さゆえだったろう。

 何年か前までソウルにはこういうキヤバレーが随分たくさんあったそうだが、いまはウォーカーヒルにもう一軒あるだけである。歌手の地位が上がり、ギャラも高くなったからでしょうね・・・・と、案内役がちょっぴり寂しそうな口調でつぶやいた。いまや一流歌手の歌を生で聴こうと思ったら、コンサートの切符を手に入れるか、高価なディナーショウへ行くしかない。ましてや、李美子ともなれば、ライブで聴くなど夢のまた夢。実に三十余年の長きにわたり″韓国歌謡の女王″として君臨し続ける史上空前のスーパースターなのだ。
 日本で李美子の名を出すときには、決まったように″韓国の美空ひばり″というキャッチフレーズが冠される。そして、さまざまな″伝説″がまことしやかにささやかれる。極貧の裡に育ち、行商人の父に従って各地を流浪したんだってね・・・まだ四つ五つの頃から乗合バスの中で歌っては小銭を稼いだそうだよ・・・まともに学校へ行くひまがなく、もちろん正規の音楽教育も受けていないから、楽譜も読めないという話だ・・・その代わり、どんなむずかしい新曲でもピアノで二度旋律を聞けばもう歌いこなせるんだって・・・。

 この手の伝説がふくらんで行けば行くほど李美子の天賦の才能が神格化され、聴き手は歌の一つ一つに彼女の「不幸な生い立ち」を勝手に思い重ねて瞼を熱くすることになる。業界の常套手段だ。しかし、そんなことはまるで知らない人間が初めて聴いても、李美子が切々と歌い上げる「胸が痛む(カスマプゲ)」には、やっばり胸が痛む。まさに歌のカというものだろう。
 「カスマプゲ」の作曲者であり、韓国歌謡界の大御所的存在であり、みずから巨星レコードのオーナーであり、李美子とコンビを組んで二十八年になるというヒットメーカ朴椿石(パクチュンソク)のオフィスを訪ね、偉大な歌姫と高名な作曲家に会った。この二人が組んで作った歌はこれまでに約七百曲。大変な数だが、そのほとんどすべてがヒット曲というのが凄い。
 作曲家は風貌もいでたちもいかにも作曲家らしい感じだったが、初めて会う大歌手はおよそ歌手らしくなく、ごく地味な洗練された装いはまるで「これから父母会に出席する主婦」といった雰囲気だった。話しかたも控えめで「雲の上の人」を思わせるエラソウなところがまったくない。
 「十九歳までは変哲もない歌好きの娘で、放送局の素人のど自慢大会の常連でしたのよ。出ればいつも最高賞で、あるとき会場でプロの作曲家に見出されて……」
と、淡々とした調子で李美子は語り始めた。最初はテンゴリズム(タンゴ調の歌)やスイング調で、およそ演歌とは無縁のスタートだった。一九六四年、白映湖(ペクヨンホ)作曲の「椿娘」が空前の大ヒットとなり、トンベクアガシ(椿娘)がそのまま李美子の代名詞になったときから、彼女の人生は大きく方向転換する。
 翌年、朴椿石と出会ったことが「女王」への道を決定的にした。六六年発表の「島の独身先生」、六七年の「雁の父さん」、いずれも記録的な大ヒットの連続である。
「一番好きな歌は」と尋かれると、李美子はいつも「雁の父さん」を挙げる。

 山には朝鮮つつじ
 野にはれんぎょう
 山鳥も悲しげに鳴く夕暮の里に
 母さん雲子ども雲
 仲むつまじく流れて行くのに
 父さん雲はどこへ行った ああ・・・・・
 私たちは寂しい兄弟
 道を見失った雁

 「朝鮮動乱を背景に離散家族の悲しみを歌った作品なんですがね。その前の椿娘や島の独身先生と同様に、たちまち放送禁止になり、大衆の前で歌えなくなり、最後にはレコード製作も禁止になった」と作曲家はいい、「マイナーで倭色歌謡だからいかんというのが表向きの理由だったが、要はあまりにも売れ過ぎたからですよ」と付け加えた。三曲が解禁になったのはようやく一九八六年になってからのことである。
 
 日本でいう演歌は韓国ではボンチャックあるいはトロットと呼ばれ、当節の若い世代や知識層からは、やや軽侮の目で見られているという(これは日本でも同じことだ)。ちなみにトロットとはフォックストロットから来た略称で、われわれがブンチャッチャと形容する演歌調の大衆歌謡を指す。
 「それでも私は、この国で低俗とバカにされるトロットを歌い続けます。誇りを持って。私はフォスターからスコットランド民謡までレパートリーに持っていますが、東洋人がいくら上手く歌っても西洋の歌は結局まねに過ぎません。その代わり、私が私の風土に根づいている歌を歌う限り、外国人には負けない」と、静かな、だが毅然たる口調で李美子はいった。

 童顔でいまも少女のような瞳の輝きを持つ実にチャーミングな女性だが、一九四一年生まれと聞き、頭の中でお齢を計算して仰天した。とても信じられない。作曲家のいうところによれば「非常に家庭的な人で料理も上手だよ。ご主人はKBSの局長で、息子さんは東京で慶応大学に在学中。娘二人はどちらも嫁いで、孫も一人ある」そうな。
 それならキムチもご自分で漬けていらっしゃるのでしょうかと愚問を発すると、韓国歌謡の女王はにっこり笑っていった。
 「もちろんよ。キムチは何より大事な味の基本。主婦の腕の見せどころですからね」

『歌はわが生命』  金媛卿 訳 

果しなく遠い、遠い道をたどって、
振り返ってみれば孤独な道。
雨に濡れ、険しい道を越えて、
今、私はここにいる。
終わりなく長い長い道をたどって、
夢を探して歩いてきた過ぎし歳月。
苦しいことも悲しみの涙も胸におさめ、
私と共に歩いていく歌だけが、私の生命。
いつまでも、私の歌。
愛する貴方がいるから
いつまでも、私の歌。
大切にしてくれる貴方がいるから・・・。

 李美子のデビュー30周年を記念して朴椿石が作詞作曲した歌である。
                


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洋々閣 女将
   大河内はるみ


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