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#1 御挨拶

#97
平成20年
4月



唐津 桜馬場遺跡
―考古学者 正圓寺十一世 龍渓顕亮師―


 桜の遅い春ですね。皆様いかがお過ごしですか。3月にはひどい黄砂に悩まされましたが、ようやく青い空になりました。青い空を背景にしてこそ桜は美しいですね。
今月は唐津市の桜馬場と言う名の町に発見された古代の遺跡にちなんで、ある考古学者をご紹介します。
まずは、唐津市の先覚者として顕彰された人々の記録の中から、引き写します。
 

『末盧の文化財』に先鞭   郷土の先覚者 龍渓 顕亮



 柏崎(かしわざき)遺跡、桜馬場(さくらばば)遺跡などの唐津、東松浦地方の考古学調査の草分けとなった人物が、龍渓顕亮(たつたにけんりょう)です。
 
正圓寺
 龍渓顕亮は明治二十一年(1888)唐津新町の正圓寺(しょうえんじ)に生まれました。
 顕亮の生家正圓寺は、浄土真宗本願寺派の寺であり、名護屋六坊(ろくぼう)の一つとして、慶長元年(1596)の創建といわれる古刹でした。顕亮は龍谷中学(現在の龍谷高枚)に進み、京都の大学に入ります。
 卒業後、正圓寺住職となった顕亮は、明治四十一年(1908)の浜玉町谷口古墳の発掘、明治四十三午(1910)の唐津島田塚(しまだづか)の開口といった地方の古代史熱を沸き上げた出来事に触発され、次第に考古学の世界に魅入られていきます。
 大正八年(1919)に結婚、住職のかたわら、考古学に熱中し、連日深夜に及ぶまで裏二階の部屋で勉学研究に没頭し、中央の学会会員となり、会誌などの研究誌を取り寄せ、研究者としての道を歩み始めます。
 
 大正末期には、呼子町加部島の瓢塚(ひきごづか)古墳、浜玉町横田下(よこたしも)古墳の発掘など、研究史上注目すべき発見が相次ぎ、こうした郷土研究の熱気の中で、昭和二年(1927)には、松浦地方の歴史研究を標榜する松浦史談会を結成し、吉村茂三郎、渡辺賢助とともに副会長に推されます。
 昭和初期には、紳集島の元寇碇石の発見、字木汲田(うきくんでん)遺跡での銅剣、銅矛の発見、島田塚の再発掘など、戦前の研究史の輝くべき時代でした。この間、顕亮は史談会の中心的存在として活躍し、特に考古学の分野で目覚ましい発見に立合うことになります。
 
 昭和三年(1928)唐津市柏崎石蔵(かしわざきいしくら)で発見した貝塚は、その後二回に渡り、三角伊之吉(みすみいのきち)、佐藤林賀(さとうりんが)らとともに自ら発掘調査に当たり、また、字木汲田貝塚も昭和五年(1930)から三回発掘を実施し、調査による検証を試みました。こうした研究の姿勢は、松浦地方を訪れた多くの学者達との接触によって生まれたものでした。
 
 昭和十九年(1944)唐津市桜馬場の隣保班長より顕亮に連絡があり、同所の西岡氏宅の庭の防空壕の掘削中に甕棺が発見され銅鏡二、巴型銅器二、有鈎銅釧(ゆうこうどうくしろ)二十六などの出土が知らされるや、現場にかけつけ、詳細な見取図を作成し、記録に努めています。こうした真摯な学究の立場は単なる地方の好古趣味に終わった前代の収集家の域を越えた学問の徒たる面目をいかんなく発揮した事績といえるものです。

 この後、桜馬場の出土品は、九州大学鏡山猛教授の目に触れ、京都大学梅原末治の知る所となり、昭和二十三年(1948)奈良国立博物館で開催された戦後初めての展示会「日本考古展」に出展されました。また、昭和二十五年(1950)に結成された弥生式文化特別委員会の調査では、顕亮らの発掘した柏崎遺跡の出土土器が注目され、最も新しい縄文式土器=柏崎(かしわざき)式(現在夜臼(やうす)式と呼ぶもの)の名が与えられました。
 
桜馬場遺跡発掘の記録(昭和19年)

 このように顕亮の業績は高く評価され、自宅へも中央の学者達が訪れました。この中には伊都国の調査を続けた原田大六の姿もありました。同じ在野の研究者として顕亮は世に受け入れられないこの熱情の歴史家を精神的に支持し続けました。顕亮の学問への姿勢は、郷土の文化財を保護啓発する形へと結実して行き、史談会会誌「松浦潟」の発刊執筆や多くの著述活動を通して実現されて行きました。
 
 昭和三十年(1955)の唐津市二ノ門堀の埋め立て反対運動では「私憤ではなく公憤である」と熱弁し「先祖の遺産を残すべし」と運動の先頭に立つ情熱を示しました。
 
 郷土考古学の先駆者というべき龍渓顕亮は遺跡発見の輝く足跡を残して昭和三十六年永眠します。
(龍渓は、通称として考古学者間では「りゅうけい」と呼ばれていますが、本来は「たつたに」であり、正式に呼称しました。)
 
 
 
 平成14年に出された『正圓寺四百年のあゆみ』には「正圓寺中興」と尊称された十一世住職の顕亮師のことを12ページに渡って詳しく書いてありますが、それによると十世の時代は幕末から維新のころで寺は困窮を極めていましたが、十一世顕亮は15歳で父を亡くし、ご門徒有志の支えを受けて大学を卒業し、すぐに唐津に戻り正圓寺を継ぎます。その後熱心に布教活動を続けて法灯を守り、本堂の建て直しや庫裏の建設をやりとげ、その多忙の中でも考古学に打ち込み、数々の発見をなしとげ、郷土の文化を守ることに大いに貢献されたそうです。
 その業績の中に「桜馬場遺跡」の発見がありますが、昭和19年に発見されたこの遺跡が63年後の今再び脚光をあびることになったのです。

 では、2007年11月22日佐賀新聞の報道と23日の論説を御覧下さい。


唐津・桜馬場遺跡、末盧国の王墓と特定

掲載日2007年11月22日

〈唐津・桜馬場遺跡、末盧国の王墓と特定〉

 国指定重文の後漢鏡などが出土し、中国の史書「魏志倭人伝」に記述がある「末盧国(まつろこく)」の王墓があると推定されていた唐津市の桜馬場遺跡で、王墓の位置を特定する弥生後期前半(一世紀後半―二世紀前半)の甕棺(かめかん)墓の遺構が確認された。魏志倭人伝に記されたクニを治めた王墓クラスの位置が判明したのは全国三例目。同遺跡は戦時中、防空壕(ごう)を掘る際に偶然発見されたが、出土状況を示す記録が残るだけで墓域は特定できず、副葬品からの推定にとどまっていたが、六十三年ぶりに学術的に裏付けられた。(28面に関連記事)
 
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 唐津市教委は「唐津が末盧国の中心であったことを証明、邪馬台国研究にも貴重な情報を提供する発見」と注目している。
 墓の遺構は遺跡南端の防空壕跡で発見。地中約一bに直径約一b、深さ約二十aの円形状の形で存在した。周辺からは甕棺の破片などとともに銅片(長さ約一・五a、幅約一a)を確認。これが一九四四年に出土し国重文になっている「流雲文縁方格規矩(きく)四神鏡」の欠けた部分と合致した。別の銅片(一・三a×〇・七a)も既出の巴形銅器の欠落部分と合致した。
 こうした発掘状況に加え、以前に見つかった多数の副葬品などを勘案し、「末盧国」の王墓と特定した。弥生時代の王墓クラスの位置が確認されたのは、福岡県前原市の三雲南小路遺跡、平原遺跡に次いで三例目。
 このほか、今回の調査で四四年に見つかった鉄刀片と合致するとみられる素環頭大刀の破片四個やガラス小玉二千百個、五七年出土の内行花文鏡の欠落部と合致する銅片二個なども出土。別の防空壕跡からは、王墓の甕棺本体部分の八割近い破片や巴形銅器一個も新たに確認した。
 今回の成果を受け、同市教委は「当時としては最高の副葬品を備えた墓で、被葬者の地位はこれまでの想像以上に高い」と話す。桜馬場遺跡は、宅地開発の事前調査で、唐津市教委が六月から約三百五十平方bを調査していた。(北島)

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 ■桜馬場遺跡 弥生時代後期前半(紀元1世紀後半から2世紀前半)の甕棺墓地。1944年に住民が防空壕を掘る中で偶然、後漢鏡「流雲文縁方格規矩四神鏡」「素縁方格規矩渦文鏡」や有鉤銅釧(腕輪)26個、巴形銅器3個などが発見され、国の重要文化財に指定され、末盧国の最高首長の墓と評価されてきた。当時出土した甕棺を記録した図面は、国内甕棺研究における指標の一つになっている。

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〈王墓の全容解明〉

 ▽西谷正・九州大名誉教授(考古学)の話 末盧国の王墓を学術的調査によりピンポイントで示した意義は大きく、全国的にも重要な発見。豊富な副葬品は最高権力者の証しで、破片を確認した「素環頭大刀」は銅鏡とともに、当時の中国から王位を認められ、授かった可能性もある。末盧国の王墓の全容がほぼ解明できる内容だ。
  


論説
末盧国の王墓特定

掲載日2007年11月23日


〈卑弥呼へ一歩近づく〉

 邪馬台国に関連する久しぶりの大きな話題である。「魏志倭人伝」に記されている「末盧(まつろ)国」の王墓の位置が、唐津市の桜馬場遺跡であることが、発掘状況や副葬品などから特定された。伝説の女王卑弥呼≠ヨの道のりがまた一歩確実になった。

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 「魏志倭人伝」は中国で三世紀後半に書かれた歴史書「三国志」の「魏書」の一部分だ。日本の歴史書には「末盧国」の記述はなく、八世紀前半の「古事記」には「末羅」、「日本書紀」には「松浦」と書かれていることから、発音が「マツロ」→「マツラ」→「マツウラ」と変化していったと思われる。
菜畑遺跡集落のイメージ(末盧館ジオラマ)
 「倭人伝」の末盧国の描写は短いものだ。「(壱岐国から)海を渡り千余里で末盧国にいたる。四千余戸あり。山が海に迫り、草木が茂って、前を行く人も見えない。好んで魚介類をとり、水の浅い深いにかかわらず、海に潜ってとる」。これだけである。
 前を行く人も見えないほど草木が茂っていたというのは、浅瀬から内陸部までアシなどが生い茂っていたのかもしれない。この時代は弥生後期に当たるが、縄文時代晩期の菜畑遺跡からは炭化した米や農具も出土している。魚介類をとるだけでなく、水田で米も作っていたようだ。
 末盧国が唐津市付近であることは分かっていたが、その中心がどこなのかは特定できていなかった。唐津には弥生時代のたくさんの遺跡がある。菜畑、宇木汲田(くんでん)、柏崎、中原、久里大牟田、千々賀、桜馬場などだ。どれもが重要な遺物を出土している。
 その中で今回、桜馬場遺跡が末盧国の王墓と特定されたのは、多くの副葬品と甕棺(かめかん)墓の遺構が確認されたからだ。副葬品としては、最高権力者の証しである素環頭大刀の一部やガラス小玉二千百個、内行花文鏡などが出てきた。
 桜馬場遺跡は最近発見された遺跡ではない。戦時中の一九四四年に、住民が防空壕(ごう)を掘っていて偶然発見した。非常時だったために、甕棺の中から青銅器などを取り出して、埋め戻した。出土した「流雲文縁方格規矩(きく)四神鏡」などの青銅器は一括して五七年に国の重要文化財に指定された。

■銅鏡の破片を確認

 埋め戻した後、何度か再調査を試みたが、畑に変わっていたりして、正確な場所が分からず遺構を見つけることができなかった。今回は唐津市教委が、宅地開発の事前調査として六月から約三百五十平方bを発掘調査。開始から一カ月後に銅鏡の破片を確認。六十三年ぶりに王の甕棺を埋めた穴にたどり着いた
 末盧国の王墓の確認は、邪馬台国時代のクニの形を解明する上で重要な手がかりとなる。豊富な副葬品からは、中国や朝鮮との関係が浮かび上がりそうだ。ゴボウラ貝のブレスレット風に作られた青銅器の腕輪は南方との交流も想像させる。
今は埋め戻されてフェンスで囲まれている
 重要な遺跡であることは間違いないが、遺跡は私有地で住宅地の中にある。保存、活用は唐津市、県、国が住民の意向を十分にくみ取って、検討していく必要がある。
 一時は全国民を巻き込んだかに見えた邪馬台国論争も、最近はかつてほどの勢いはない。神の手≠ニ称された藤村新一氏の旧石器発掘が、捏造(ねつぞう)と発覚したことも影響しているだろう。
 しかし、来年一月一日からは県立博物館・美術館で日韓特別企画展「吉野ケ里遺跡と古代韓半島―2000年の時空を超えて」が開催されるなど盛り上がりの兆しはある。今回の王墓特定が再び、古代のロマンに火を付けることになればいい。
(園田 寛)


 さて、文中に「埋め戻した」とあり、今回の調査で「甕棺を埋めた穴にたどり着いた」とありますね。その「たどり着」くために大きな手がかりとなり、また証拠となったのが、故・龍渓顕亮師が書き残した詳細なスケッチなのです。
 私はその大切なスケッチの実物を拝見させていただきました。虫食いもあり、最初の部分が欠けてはいますが、墨の色もあざやかに、余白の取り方もうつくしい書き物(巻物)は、昭和二十三年に奈良で展示された現物です。
 「父も喜んでいるでしょう」と、龍渓顕雄師(正圓寺十三世)は、うれしそうにおっしゃいました。
 私はこの十三世と茶道裏千家の関係で長い間近しくしていただいていますので、お目にかかったことはなかった十一世顕亮師もなつかしく親しく感じます。「ごいんげさま、よかったですね」と、お内仏に掌をあわせさせていただきました。

 考古学が好きなかたのために、以下に佐賀新聞の1月8日の追加記事と、唐津市教育委員会が遺跡の説明会の時に配布した資料を引き写します。お楽しみください。


唐津・桜馬場遺跡、別の有力者埋葬か

                     佐賀新聞掲載日2008年01月08日



〈唐津・桜馬場遺跡、別の有力者埋葬か〉

 昨年、甕棺墓(かめかんぼ)の遺構が六十三年ぶりに見つかり、中国の史書「魏志倭人伝」に記述がある「末盧(まつろ)国」の王墓と特定された唐津市の桜馬場遺跡で、別の有力者が埋葬されたとみられる甕棺片が確認された。「王」か王の近親者の可能性が高く、唐津市教委は「末盧国の首長墓の変遷を考える上で貴重な資料になる」と注目している。

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 新たに確認された甕棺は合口式で、昨年の市教委調査で遺跡南西部の防空壕(ごう)跡から、王墓の甕棺片と混在し出土。形状から、ほぼ同時期の弥生時代後期前半(一世紀後半―二世紀前半)のものとみられる。本来の埋設位置はわかっていない。
 同じ調査では南東部の防空壕跡に位置する王墓の遺構から、中国製の内行花文鏡の破片が出土。この銅鏡片は、一九四四年に初めて遺跡を発見した際の出土品記録にはなかった。
 このため市教委は、新たに確認された甕棺に内行花文鏡が副葬された可能性もあると推定。王墓から見つかった方格規矩(きく)四神鏡は内行花文鏡より製作時期が古いとされており、同市教委は「極めて近い区域に、時代が異なる有力者二人の墓が存在すると思われる」とみている。
 一方、二つの鏡は製作期間が重なる時期もあることから、佐賀女子短大の高島忠平学長(考古学)は、「当時は政治を司る男性とシャーマン(呪術(じゅじゅつ)者)を務める女性の二重政治体制≠セった見方もでき、高貴な二人を死後も一緒の場所に葬ったかもしれない」と話す。(北島)

  

        桜馬場遺跡 発掘調査の成果  (唐津市教育委員会資料)    


◎宝器内蔵甕棺基(桜馬場甕棺) 63年ぶり再発見          
  枚馬場甕棺は、中国鏡をはじめとする多くの青銅器が副葬されていたことから、未盧国の最高首長墓と評価されてきた。戦時中の防空壕堀削中(昭和19年11月) に発見されたため、青銅器類は取り上げられたものの、甕棺自体は、その直後に敷 地内に埋め戻されることとなった。この甕棺に関する記録は、当時出土状況を示した龍渓
龍渓顕亮の記録した甕棺図
顛亮(たつたにけんりょう)氏の図面が唯一の記録であり(資料4)、ここに示された図面は、国内甕棺研究における指標の一つとなっている。今回蛮棺そのものが再斉見されたことにより、蛮棺研究はもとより、副葬されていた青銅器(有鈎銅釧、巴形銅器)の成立についても、さらなる研究の深化が期待される。
  また終戦後この敷地内に住宅が建設されたことにより、出土地点も不明となっていた。今回この甕棺墓の痕跡と思われる掘り込みを、防空壕跡(sx−01)の床面から確認し、桜馬場遺跡における宝器内蔵甕棺の埋葬位置をほぼ特定することができた。
  (※)「末ろ国」は中国史書『魏志倭人伝』に耶馬台国とともに登場する国のひとつ。「末盧国」は
  唐津地域とされている。『魏志倭人伝』は弥生後期の日本のことを著している。 


◎副葬品接合                              
  昭和19年の宝器内蔵甕棺発見の契機は防空壕掘削であったが、中国後漢鏡の方格規矩鏡2、有釣銅釧26、巴形銅器3、ガラス小玉1、鉄刀片1が副葬されていたことが確認されている。これらはその内容、質より国重要文化財に指定されているが、このうち以下の2点と、今回発見された出土品が接合し、防空壕Nol(SXOl)が宝器内蔵甕棺の位置であることが明らかになった。
 ・流雲文縁方格規矩四禅鏡          
 ・巴形銅器           
このほか今回発見した内行花文鏡片も昭和32年に発見された鏡片と接合した。

◎新たな副葬品発見
 こまでこの宝器内蔵甕棺墓の副葬品は、国重要文化財に指定されている資料がすべてと考えられてきた。今回新たに以下のような多種多様な副葬品が加わり、この被葬者が末盧国では特に高い位の首長であったことが再認識された。
・内行花文鏡片 2点 (昭和32年出土内行花文鏡と接合)
・鏡片 1点 (昭和19年出土流雲文縁方格規矩四神鏡と接合)
・巴形銅器片 1点 (昭和19年出土巴型銅器と接合)
・素環頭大刀片 4点 (昭和19年出土鉄器と同一固体か)
・ガラス小玉 2,500点超
・勾玉(硬玉製)3点
・管玉 13点
・ガラス管玉 13点
・巴形銅器 2点

 ◎確認された弥生時代の王墓としては3例日  
  中国史書『魏志倭人伝』には、邪馬台国を始めいくつものクニグニが記録されている。しかしその位置がほぼ特定できるのは.対馬国(長崎県対馬市)、一支国(長崎県壱岐市)、未盧国(唐津市)、伊都国(福岡県前原市)、奴国(福岡県春日市)の5箇所のみである。これらのクニのうち、王墓と評価されている遺跡は「三雲南小路遺跡」「井原鑓溝遺跡」・「平原遺跡」(伊都国)・「須玖岡本遭跡」(奴国)の4箇所である。このうち「井原鑓溝遺跡」は江戸時代の発見で、以後、発見位置がわからなくなっている。「須玖岡本遺跡」も住宅建築の際の発見で、放置は特定できるが現在も個人住宅があり、王墓の痕跡は未だ確認されていない。つまり桜馬場遺跡は、埋葬位置が確認された弥生時代の王墓クラスの厚葬墓としては「三雲南小路遺跡」「平原遺跡」についで3例目となる。

1  桜馬場遺跡の概要    

(1)現 状                              
 @ 種 別  周知の埋蔵文化財包蕨地
 A 所在地  佐賀県唐津市桜馬場1285−3    
 B 貌 状  住宅密集地                  
                                                  
(2)環境         
 桜馬場遺跡は唐津湾に臨んで発達する砂丘上の南側に位置する。昭和19年の遺跡併発見時は南側の水田面と比べて一段高い箇所に位置していたが、今日では周辺が開発され高低差がなくなり、発掘当初と比較し、周辺環境は一変している。

(3)調査の経緯
 桜馬湯遺跡は昭和19年11月、防空壕の工事中に偶然発見され、襲棺には、大陸との交流を示す中国後漢時代の鏡や国産の巴形銅器、有鈎銅釧等が副葬されていた.昭和30年には、日本考古学協会による桜馬場遺跡の再調査が実施された。このとき、甕棺を出土したとされる防空壕跡上にはすでに民家が建っていたため、その周辺において調査がおこなわれた。その結果、2基の新たな甕棺を検出し、この一帯に甕棺墓群が存在することが判明した。その成果は、『日本農耕文化の生成』にまとめられている。                          
 平成6年、当該地が駐車場に造成する際に確認調査を実施したが、遺構は確認できず、遺跡は湮滅したとみられていた。その後、最近まで当該地は、駐車場として利用されてきた。       

流雲文縁方格規矩四神鏡
(4)過去の出土品
 昭和19年
 ・流雲文縁方格規矩四神鏡 1面
 ・素縁方格規矩渦文鏡 1面
 ・有鈎銅釧 26点
 ・巴形銅器 3点
 ・鉄刀片 1点
 ・ガラス小玉 1点

   以上 国指定重要文化財 (昭和32年2月19日指定)

 昭和32年
 ・内行花文鏡片  1点 未指定

         以上 佐賀県立博物館所蔵

2.平成19年度調査の概要

(1)調査期間:平成19年6月5日〜 平成20年1月25日
(2)面  積:349.94u
(3)調査の概要:            
桜馬場遺跡の評価はすなわち1基の甕棺の評価に集約される。この甕棺は昭和19年の防空壕掘削中の発見により世に知られるようになったのだが、不時発見であったことから学術的調査はされず、甕棺自体も発見地点近くに埋められたと伝えられていた。このため次の点を留意し調査をおこなった。
1)昭和19年に発見された厚葬墓の位置の特定
2)昭和19年に発見された厚葬墓甕棺の破片の発見
3)王墓とされる厚葬墓以外の甕棺の有無

◎防空壕No1(SX−01)  
 厚葬墓の出土地点は、発見後まもなくこの厚葬墓を記録した龍渓顕亮氏と、実地を踏査した岡崎敬氏らの記録(資料4)より、調査地東南であることが推定された。調査着手後すぐに、平面プランが4・0×2・2mの遺構を検出した。丁寧な精査を実施したところ、深さ約1・Omに平坦面があり、この平坦面から柱穴状の掘り込み7個と平面プランが約1・2×1・Omの楕円形となる掘り込みを検出した。特に楕円形の掘り込みは深さが約0・2mあり、そこから壌棺片が出土した。振り込み西側は、緩やかに傾斜してい。
 出土遺物としては、遺構上層より内行花文鏡片を検出した。また遺構内部の土を篩いにかけたところ、昭和19年に発見され、現在国重要文化財に指定されている、流雲文縁方格規矩四神鏡に接合する鏡片と、巴形銅器と接合する青銅器片が出土した。さらに、硬玉製勾玉や素環頭大刀と考えられる鉄製品のほか、ガラス小玉も2,100点以上出土している。       

◎防空壕No1(SX−02)
 SX−01の北西側に約5.0×6.Omの大型の遺構を検出した。深さ1・3mを測り、床面には林皮と推測される有機質が床面と側面を区画するように残存していた。遺構西側には緩やかな傾斜が見られ、階段状のものが設置されていたようである。              
 遺構南側からは、大量の近代瓦や陶磁器に混じり、弥生期の甕棺破片が数多く出土した。一括して南側から廃棄したものと考えられる。この廃棄物集中域内からは、その他に巴形銅器やガラス小玉も出土している。またこの集中域以外からも、勾玉、ガラス管玉、ガラス小玉が出土している。

◎甕棺墓群
 調査区北側では、東西方向に列状の甕棺墓7基を検出した。上面の遺構確認でとどめているため詳細は不明だが、時期の主体は立岩段階になり、1基が若干時期の古い須玖段階になる。

(4) 平成19年の出土品(平成19年11月21日現在)      
・内行花文鏡片 2点 (SX-01)
         *** 昭和32年出土内行花文鏡と接合
・鏡片 1点 (SX-01)
         ** 昭和19年出土流雲縁方格規矩四神鏡と接合

・巴形銅器片  1点 (SX-01)
         ** 昭和19年出土巴形銅器と接合
・素環頭大刀片 4片 (SX-01)
・ガラス小玉  2,500点超 (ほぼSX-01)、ほかSX-02)
・勾玉(硬玉製) 3点 (SX-01 2, SX-02 1)
・管玉   13点 (SX-01 10、3号甕棺 2、表採 1)
・ガラス管玉 13点 (SX-01 10、SX-02  3)
・巴形銅器 2点(sx−01)           




長いものをお読みいただきありがとうございました。
唐津は「唐」への「津」、すなわち外国への港だと司馬遼太郎先生から直接うかがったのは30年近く前のことでした。唐津は「過去都市」だと私は思っています。過去のものをこわしてしまったら、唐津のレゾン・デートルはなくなります。
唐津市民のみなさん、そして、市民以外のかたも、唐津が過去を守り抜くように応援してください。
ではまた来月。


今月もこのページにお越しくださって
ありがとうございました。
また来月もお待ちしています。


洋々閣 女将
   大河内はるみ


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