岡田時太郎


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#1 御挨拶

#95
平成20年
2月



岡田時太郎
唐津が生んだもう一人の建築家


 「岡田時太郎に逢いたい」 
 いつの頃よりかこう願うようになりました。
 辰野金吾、曽禰達蔵、村野藤吾を生んだ唐津に、もう一人の建築家がいたのです。

 岡田時太郎。
辰野金吾より6年遅い安政6年(1859)生まれ、生家も辰野の生家・姫松家の向側。明治になって唐津藩が高橋是清を招聘して耐恒寮を作り英学を奨励したときに13歳で入学しています。後に27歳からは辰野の元で働き、日銀本店建設時の技師として腕をふるい、その後満州大連に渡りいくつかの建設をし、またいくつかの事業をして大正15年にその地で果てています。
旧・三笠ホテル

 満州に渡る前に岡田が設計して明治38年に完成した旧・三笠ホテルは国の重要文化財として美しい姿をとどめています。唐津市民として嬉しい限りです。                           

 私が岡田時太郎を知りたいのは、今は国の重要文化財になっている唐津の『高取邸』の建設に、岡田時太郎と、もしかしたら、その師・辰野金吾がかかわったのではないかと、思っているからです。
今は、関わった、という証拠がありません。遠からず解明されることを望んでいます。

 私がそう考える理由は、いくつかあります。一つが「唐津小学校」です。
現在唐津市役所になっているところは元唐津小学校があったところです。そ
岡田家、辰野家、姫松家位置
の唐津小学校は辰野金吾の設計により、棟梁吉田吉次郎が建てているのですが、その資金として多額の寄付をしたのが高取伊好なのです。唐津小学校の完成の2年後に高取邸が完成していますが、同じ棟梁・吉田吉次郎の名が棟札にあります。吉田棟梁と辰野博士は、これまた生家がすぐそばにあって、幼馴染、一緒に色々仕事をしていますので、「高取邸」だけ辰野博士が関わってないとは思えないのです。
唐津小学校(解体された)
当時高取伊好は炭鉱王、辰野博士は日本の建築界の最高峰。接点もあるのですから、設計の話もあってしかるべき、と私は思うのです。

私が高取邸に辰野博士が関わったと思うもう一つの理由は、岡田時太郎にあります。そのことはあとで書きますから、まずは『東京駅と辰野金吾展』の時に出版された『東京駅と辰野金吾』(1991)という本から引き写して「パートナーとなった建築家たち」をお読みください。


パートナーとなった建築家たち

岡田時太郎と長野宇平治

  “辰野金吾の代表作を挙げよ“と言われば東京駅と並んで、誰しも日本銀行の建物を挙げるであろう。これは辰野金吾ばかりか、日本にとっての国家事業のひとつであり、その建設に当たって、辰野の元で手足となり活躍した2人の建築家が岡田時太郎と長野宇平治である。明治21年(1888)から、辰野金吾を建築顧問として開始される一連の日銀建設計画の中で、岡田は本館工事(明治21−26年)に携わる前半部分を、長野宇平治は日本銀行、門司支店・明治31年(1898)を始めとする後半部分の付帯工事を受け持っている。この2人の活躍によって実質的に日銀の計画は完成されたと言っても良いだろう。それでは、辰野のパートナーとして活躍した岡田時太郎と長野宇平治とはどのような人物なのか。最初に岡田時太郎の方から見ていこう。

   岡田時太郎は辰野金吾と同じ郷里の佐賀県東松浦郡唐津町の出身で、安政6年(1859)に唐津藩士岡田(旧姓岩井)紋二郎の子として生まれた。生家は辰野の里方に当たる姫松家と向かいにあり、辰野とは子供の頃より兄弟同然に育ったという。たとえば、悪童の岡田が悪戯をして母親に叱られると、辰野の家に駆け込んで来て、“姫松のおばさん助けてくれ”と助けを求め、辰野の母にはかわいがられたという。そのようなこともあって、6つ年上の辰野は、岡田にとって兄のような存在でもあった。岡田は後年辰野の元で、最初の建築助手を務めることになるが、2人は師弟というより、時として兄弟のような親しさを見せたという。謹厳実直で人を寄せ付けることの少ない辰野に、岡田は心を打ち解けて話をできる唯一のパートナーであったのかも知れない。

   郷里を離れてからの2人の関係は、建築家として全く対照的な境遇に置かれることになる。辰野は建築家として順調な道を歩み始めるが、岡田が建築を始めるのは鉄道省で大坂梅田停車場建築課詰に配属されてからで、それも上京してから5年経って後のことである。西沢泰彦が作製した『岡田時太郎の経歴』(1985)によれば、彼が最初に出て行くのは大坂で、英語を学ぶためであったという。明治8年に郷里を離れ、明治9年からの4年間を大坂境造幣寮付属日進学校に通っている。その傍ら、大坂造幣寮で文書課詰、貯蔵掛などをして働いており、なかなか苦学した様子を見せている。
 また、日進学校卒業後試験を受けて就職した鉄道省では最初に汽車掛に配属され、イギリス人のヘンリー・フ
スターから汽車火炊き運転術の手ほどきを受けており、色々な仕事をさせられていることが分かる。そうしたこともあってか、ここでの仕事はそう長く続いていない。勤務期間は僅か5年で、明治18年11月に依願解雇の形で退職させられている。そして向かうのが山口半六の元である。山口半六は当時文部省技師として東京理科大学の新築工事を手掛けており、忙しい盛りであった。岡田はそこですんなりと東京理科大学の雇員として採用され、化学実験場の工事現場の助手に就くのである。岡田と山口の関係については定かでないが、鉄道省の退職から数えてわずか2日後のことであり、これには事前に山口から依頼があったとも考えられる。
 さて、そこでの辰野と岡田の再会についてである。これにはちょっとしたエピソードが残されている。そもそもこの再会は、岡田が工事現場で辰野の仕事の下手ぶりを茶化したのが始まりである。当時辰野は理科大学の隣の敷地で工科大学の仕事を請け負っており、この工事を見ていた岡田が辰野の縄張りがなかなか決まらないのを見て、「3日も4日も掛かって出来ないじゃありませんか」と仕掛けると、
辰野:貴様は何をして居る。
岡田:僕は東京大学に居つて理科大学の科学実験場の仕事をしてる。
辰野:俺の方に加勢に来ぬか。
岡田:山口さんの許可を得なければ分かりませぬ。(白鳥省吾編『工学博士辰野金吾伝』・1926)
と言うやり取りが生まれ、これを知った山口半六が「同藩だから行け」と許したのが発端である。岡田にとってラッキーな出会いであり、これによりかれは辰野事務所の第1号所員となることができた。それからの彼は以下の通りで、順風万帆の歩みを示している。
日本銀行本店

・明治21年(1888)日本銀行建築調査のため辰野金吾に同行して洋行、そのままロンドン大学に1年間留学する。
・明治22年(1889)帰国。
・明治23年(1890)日本銀行建築技師となり、工事主任を務める。
・明治26年(1893)日本銀行本館完成。

日銀本館を終えると実質的に辰野とたもとを分ち、独立して岡田工務所を設立する。そして、牛久シャトー・明治36年(1903)、三笠ホテル・明治39年(1906)などの名作を残して、明治38年に大連に渡るのである。大連では大連土木建築株式会社を起こすなど事業家として活躍し、そのまま大正15年に同地で没している。晩年は事業家として成功するが、その人生は辰野と比べて屈折したものであったことが窺える。

 一方、長野宇平治は最後まで建築家としての道をまっとうすることになる。彼は慶応3年新潟県高田町に生まれ、生家は高田きっての旧家である。最も維新の頃は、父親の放蕩が過ぎてだいぶ落ちぶれていたという。
 長野は辰野と比べると13歳も年下であり、日銀本館の建設工事の頃は「帝国大学の学生であって、僅かに(話を)伺っただけ」で終わっている。その彼が日銀の技師として招かれるようになるのは、辰野金吾に様式建築家としての抜群の腕を見込まれてのことである。長野は明治26年(1893)に工科大学を卒業後、妻木頼黄の紹介で奈良県嘱託に就職した。しかし、そこでの仕事は奈良県庁及び県会議事堂の設計以外、デザイナー志望の彼には余りなじめないものであったらしく明治29年に依願退職を果している。そして辰野の伝てを頼って日銀の再就職の道を探すのである。日銀時代には大坂支店を初めとした数々の支店工事を手掛けている。そして大正12年に独立するが、事務所独立後も多くの銀行建築を手掛け、保存運動が展開されながら取り壊された横浜正金銀行東京支店・昭和2年(1927)などの名作を残している。また昭和13年に増築された本館東側の第3期工事は、記念碑的意味を含めて、辰野の旧館をそのまま写すことに努めた作品として知られている。
 長野宇平治は辰野金吾を越えようとしながら、その実、辰野の意志を最も忠実に受け縦いだ建築家と言えよう。大正6年(1917)には日本建築会々長に就任し、辰野が果たせなかった建築家としての職能確立の夢に尽力を尽くしている。長野が編纂委員として、辰野の没後に企画された『日本銀行建築譜』(昭和3年)は、彼の辰野に対する思いをそのまま示すものである。      [藤谷陽悦]







 さあ、岡田時太郎がどういう人だったかはだいたいお分かりいただけましたね。ご興味があられるかたは、『住宅建築』という雑誌の平成14年6月号に森まゆみさんが詳しく書いておられますからお読みください。また、小説ですが、東秀紀著『東京駅の建築家辰野金吾伝』にも時太郎が出てきます。

 さて、高取邸と岡田時太郎の謎です。
今は高取邸の構内になっている土地の一部分、(西側)が、明治35年8月に岡田エイ(時太郎の母の名)で登記され、明治38年11月に岡田時太郎に名義が変わり、大正15年に高取伊好に登記が移っています。
この調書には地図もついている。
また、大正11年に西の浜官営土地の民間への売却の願い出があったときに願い出人の名や何処を何坪欲しがっているかなど書いた地図が唐津図書館に残っていますが、その願い出人の中に高取伊好や岡田時太郎の名が並んであり、地所も並んでいたことを示しています。(この情報はメル友・タマトリさんから頂きました。)
岡田は明治38年に三笠ホテルを完成して、そのあとには満州に渡っていますので、唐津に地所を増やす理由があったのでしょうか。母エイが西の浜にいたのでしょうか。それとも高取家のために名義を貸したのでしょうか。高取家で「執事の家」と呼んでおられた、かなり前に解体された西側の家は、元は岡田家だったのでしょうか?その地所は岡田家から一時登記が北村家に移り、その後高取家になっていますが、当時の高取家の執事も北村という人だったと聞いています。その家に使ってあったという陶器の便器は山水画の描かれた立派な焼物だったそうで、高取家令嬢も、「執事さんもずいぶんぜいたくだったのね」と笑っておられましたが。棟梁の吉田吉次郎の名前でも高取邸の前の道路の部分が明治43年に取得され、わずか12日後に高取伊好に登記が移っています。高取邸が完成した明治37年には、底地の部分は色々の他人の名義だったことになります。今の敷地がすっかり高取家のものになっていくのはそのあと20年ほども後のことです。

 岡田と高取家が親しかったのならば、高取邸の建設に岡田がかかわらないわけはないでしょうし、岡田が関わったのなら、辰野博士が関わった可能性もあると思うのです。旧・唐津銀行は辰野金吾監修ですが、設計は清水建設の技師・田中実がしています。国の建築界のトップとして忙しい辰野博士が高取邸建設の仕事をすでに独立していた岡田に回したという可能性はないでしょうか。岡田は明治32年に独立して岡田工務所を開いていますが、辰野のもとを離れたのはなぜだろうと疑問は感じます。辰野の死後、辰野葛西事務所から発行された白鳥省吾編の『工学博士辰野金吾伝』(1926)を読むと、最後のかなりのページ数を使って岡田が博士のロンドン視察に随行した時の模様を詳細に語ったことが書いてありますし、また、辰野博士が「武士気質でありましたことは皆様ご承知の通りであります。過失をして人を一旦は激怒されても直に其人に武士の情を発揮されて懇々教訓を与えられたことは枚挙に遑あらずであります」とも言っていて、これから察しても岡田は辰野博士と軋轢があったようにも思えませんので、高取家、岡田、辰野と3者には何らかのつながりがあったと思いたいのです。辰野博士はその大分前に、確か東京の鍋島邸建築にも関わっておられますし、明治28年には唐津に帰省したという新聞記事があり、そのほかにも帰省はあったかもしれませんので、このあたりに接触がなかったのでしょうか。当時の戸籍や不動産の登記をたどっていけば判るものがあるはずとは思いますが、私が個人で騒いでも見せてはもらえないでしょうから、しかるべき方が調査してくださったらと願っています。

 岡田時太郎は大正十五年六月五日、大連で脳溢血のために急逝しました。六十六歳でした。曽禰達蔵は追悼文の中に岡田が能く企業すれども之を遂ぐる能わず、と書き、「君が数奇波瀾の生涯は蓋し之に基く。其闊達澹泊の資生は人をして一度交れば自ら親近せしめたり、美徳と云ふべし」 と続けています。

 高取邸は今のところ設計者が特定されていないわけですが、この謎に挑戦して解明してくださる建築史マニアの出現を待っています。辰野博士の設計であればうれしいし、岡田時太郎であっても、それなら岡田は旧・三笠ホテルと旧・高取家住宅と、二つの国の文化財を残したことになりますので、いっそう彼の評価が高まるでしょうから、それでも嬉しいのです。唐津市民にもう一度岡田時太郎の名を思い出してもらえたら、草葉の陰で一番喜ぶのは、時太郎の母・エイさんと、辰野金吾の実母であり、近所のワンパク時太郎少年を可愛がった姫松のおばさん・マツさんではないでしょうか。唐津市坊主町を通るバスが走る道路あたりが姫松家や岡田家のあったところです。その角にたたずみ、「岡田時太郎さんに逢いたい」と、強く思ったのが、最初に書いた思いです。

 
では、また来月お会いしましょう。
お元気で。



今月もこのページにお越しくださって
ありがとうございました。
また来月もお待ちしています。


洋々閣 女将
   大河内はるみ


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