釜山高女時代の母スミ子 (75年前) |
このページは、色々な方にご協力いただいて、 唐津のおみやげ話をお伝えするページです。 バックナンバーもご覧頂ければ幸いです。 #1 御挨拶 |
#94 平成20年1月 |
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夢の釜山へ ―幻の故郷― |
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明けましておめでとうございます。お元気で新年をおむかえになったこととお慶び申し上げます。 今年は洋々閣にとっては創立から115年になる年です。10月ごろ、記念を兼ねて中里隆先生の作陶展を開く予定でおります。お楽しみにお待ちくださいませ。 今月は「夢の釜山へ」と題しまして私事ですが、故郷の土地を踏んだ感慨を書かせていただきます。自分の記憶が新しいうちに事細かに書きますので長くなりますが、ご興味がおありになれば、お付き合いいただければ幸いです。 |
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ことの次第はこうです。 昨年10月に唐津で、「玄界灘海峡沿岸知事会議」というサミットが催されました。玄界灘を挟んで一衣帯水の関係にある佐賀県、長崎県、福岡県、山口県、韓国側ではチェジュ島、全羅南道、慶尚南道、それに釜山広域市から首長が集まって12年前からサミットが行われているものです。ホストは回りもちで昨年が佐賀県担当でした。佐賀県知事は、玄界灘に面した唐津を開催地にえらばれ、洋々閣ではサミット前夜の歓迎夕食会が催されました。 そのお席に女将としてご挨拶に出た私は、勉強中のつたない韓国語で各知事様にご挨拶を致しました。釜山の許南植(ホ・ナムシク)市長様とお話したとき、私が昭和19年(1944)に釜山で生まれたと申し上げると、笑顔で握手してくださって、「それでは故郷じゃないですか。ぜひ来なさいよ」とおっしゃってくださいました。「釜山へは何回か行きましたが、自分の生まれた場所やら、母の実家など、行って見たいのですが、わかりません」と申し上げましたら、市長様は「情報があれば、調べてあげますよ。見つかりますよ。ぜひ、いらっしゃい」と、おっしゃってくださいました。 実はこの2、3年、「故郷」へ行ってみたいという思いは私の中で急速に育っていたのです。一つには2年半前から韓国語教室へ行くようになって、韓国への興味が強くなっていたこともありますが、第一の理由は母でした。 今年92歳になる母は13年前に父を亡くして後一人で暮らしていましたが、10年ほど前に脳梗塞で倒れてリハビリの生活を送っています。昨年3月に再発して今度は麻痺がひどく、ほぼ寝たきりになりました。記憶は急速に衰え、現在と過去が混同されて不思議な時制に生きるようになっています。 たとえば、夜寝ていて突然、「次で降ります」と叫びます。「次って、どこ?」と聞くと、「ソウリョウよ」と。ソウリョウ?どこだっけ?聞いたような・・・。ああ、そうだ、韓国、釜山の草梁(チョリャン)だわ、母の実家のあったところ。母の実家はかなり
「ソウリョウで降りて、どこに行くの?」 「うちに帰るのよ」 「うちって?」 「冨田のうちよ、母さんが待ってるもの」 私は涙をこらえて、聞きます。「母さんて、誰?」 「ばかね、私の母さんよ。冨田リキ!」 そうか、ソウリョウでは、いまでもリキおばあちゃんが待っているのね。私の知っているリキおばあちゃんは40年も前に90歳で大分県の田舎で亡くなったんだけど。「そう?それなら、帰らなくちゃね。でも草梁まではまだ遠いから、もうしばらく寝てたほうがいいよ。着いたら起こしてあげるから」 「そんなら寝てるから、きっと起こしてね」母はそういってまた眠りに入ります。路面電車に乗ってるはずが、ベッドで寝ている矛盾なんか、母には関係ないのです。
それやこれやで、わたしの心の中に「幻の故郷」が育ち始め、一度は行かなきゃ、でも、どうしたらわかるのだろう、となかばあきらめに近い願望だったのです。市長様にお会いしたことでこの夢は手の届くところへ突然降りてきました。この機会を逃せば、一生見果てぬ夢になるでしょう。行かなくちゃ!
大阪府の高槻市に住む母方の従兄の羽生田一穂さん(79歳)は、半年ほど前に母に会いに来てくださって、その時「釜山に行くなら、今ならまだ案内できるかもしれない、様子が変わってると思うから、確信はもてないけど」ということでしたので、今回一緒に行くことにしました。釜山市が提供してくださる情報に一穂さんの記憶が重なれば、鬼に金棒ですから。一穂さんは、戦前の釜山の地図(日本語、日本地名、建物名入り)を持っていて、これぞ1級資料です。 韓国語のユン・ミギョン先生は、釜山出身です。釜山市の大きな地図帳を下さったり、インターネットで色々情報を取り出してくださいましたし、市長様に差し上げる韓国語の手紙を添削してくださいました。 2007年12月3日(月)午後4時近く、私と姉、一穂さん、それに、「韓国は慣れているから俺が連れて行く」と勝手に宣言してツアーリーダーとなった主人の4名は釜山の金海空港で釜山市・国際協力課のファン・ジュソプさんと、ファン・ジョンエさんに出迎えられました。お二人とも知事サミットの時の随行員でしたから、再会でした。すぐにジュソプさん運転の車に乗り込んで、幻の故郷を訪ねる旅に出発しました。 日程の関係で、まず遠いところを今日は抑えるとの計画で、釜山広域市を抜け出て、昌寧郡霊山面(チャンニョングン・ヨンサンミョン)に向いました。高速道路をつっぱしりながら、私の心は落ち着きません。父は1936年から1940年までの4年間、この霊山の尋常小学校の校長として赴任していて、その時代に結婚し、長男がここで生まれているのです。父が時々話してくれた霊山の思い出は、生徒が12、3人の小さな日本人学校で、校長と言っても他には先生が一人もいずに、音楽も絵画も全教科を教えたこと、女子のお裁縫だけは新婚の母が教えていたこと、運動場にはブタや鶏が入り込んできて、おばさんがターク、タク、タクと鶏を探していたよ・・・などなど。
すでに真っ暗になったグランドを通り抜けて、コ校長と教頭先生に手をふりながら私達の車は釜山に戻りました。 「もう一度、来なくちゃ」 私は思いました。母が一番幸せだったのは、ここだったはずです。霊山での4年のうち、はじめの1年半は父と二人っきりの新婚時代、あとの2年は先で亡くすことになるとは知らない長男と3人の穏やかな生活だったでしょう。霊山時代の写真は生徒達と一緒に渓谷や山や、あちこちピクニックに行って楽しそうなものばかりです。 釜山市西面(ソミョン)のロッテホテルに到着したのは午後8時に近くなっていました。夕食に誘ったけど、二人のファンさんはまだ仕事が残っているとかで、明日の迎えを約束してくださって、別れました。
通りに面した一番広い部分はナムドジャン・ホテルという名の温泉マークのついた旅館になっていました。温泉マークは日本と同じものです。ホテルの右に石段があって、登ると中段の地所に3、4軒の韓国式の小ぶりの家が並んでいて、さらに石段は上へ登ります。上段に登ってみると
次に龍頭山の東裾にあたる旧・第七小学校に行きました。ここは、日本人学校でしたが、終戦後韓国人学校になり、ちかくにあった第一小学校と併合されて、今は光一(クァンイル)初等学校となっています。ここでも校長のソン・ヨンスプ先生と行政室長のパク先生が待っていてくださいました。ここにも立派な歴史室があり、古い校舎の写真などを眺めて帰ってきました。母は小学
ファン・ジュソプさんが、運転をしながらしきりに携帯電話で話しています。今どこを通過中、あと5分で市庁に到着予定、などと、まるで、VIPさながら。市庁に着くと国際協力課・国際交流Team長のチョ・ビョンスさんが出迎えて下さいました。11時20分から10分間、ホ・ナムシク市長様が会ってくださるのです。
このあと、ファン・ジュソプさんはドバイに出張のためにお別れし、引き続き彼の車で今度はイ・テウさんが運転してくださって、次のコースに出発しました。ファン・ジョンエさんも、パクさんという青年も一緒で7人連れです。テウさんはジュソプさんから引き継いで、ジュソプさんの調べてくださった資料を元に案内してくださるのです。パクさんは、大きなからだを小さくして車の後ろに乗り込み、「人間ナビゲーション」だといいながら、入り組んだ街中を近道を抜けたりしながら、指示をだします。 次に着いた学校は、「釜山高女」のあとだと説明を受けましたが、一穂さんが、首を横にふります。ここはちがう、と。おそらく当時「釜山港高女」と呼ばれていた女学校じゃないかと。校長室で白髪交じりのはっきりした印象の女性校長と男性の教頭、また、女性の先生などが待っていてくださいました。色々話していると、やはりこちらは戦前からあって、「港高女」だったほうの、韓国人女子の高校でした。校長先生が目の前でお母様に電話して聞いてくださいました。母と同
次に父が霊山小学校の次に赴任した「釜山高等小学校」に向かいました。この学校は今は慶南中学校という男子中学になっているという話で、こちらではどなたにもお会いするわけでなく、見せていただく許可だけとってある、ということでした。ところがその前まで来たら一穂さんが、「これが釜山高女だ」と言い出しました。「え?釜山高等
通りみちのチャガルチ市場を5分ほど覗いて、次に向ったのは、父が終戦前の最後の4年間働いた釜山商工会議所の跡地です。ここは戦前外地に大きく展開していた三中井財閥の「みなかいデパート釜山店」があったところです。戦後は釜山市庁として使われていましたが、釜山が広域市として戦前
父がなぜ学校の先生でなく、商工会議所につとめたのか、聞いていませんでしたが、釜山府全体の珠算検定試験などを主催していた経歴をほこらしげに話したことがありますので、必ずしも失意の勤め先ではなかったのではないでしょうか。工事現場の写真を撮っていたらとがめられそうになって、私達はあわててその場を離れました。 最後に向ったのが、父が商工会議所に行く前の1年だけ勤めた「朝鮮総督府釜山高等水産学校」です。1年間だけだったし、ここの話は父の思い出話にでてこなかったから行かなくてもいいとも思ったのですが、せっかく調べてくださったので、連れて行って頂きました。行ってよかった。感激でした。
父は大学に行けずに多分通信教育で小学校訓導の資格を朝鮮総督府から受け、校長試験は佐賀県で通っていますけれども、国立の高等学校(つまり今の大学程度)で教える資格はあるはずもなく、事務かなにかで働いたのでしょうが、時期が創立の最初の年度にあたるのです。どういうわけでここに赴任したか判りませんが、新しい高等教育機関の創立時に立ち会えたのは、父の誇りではなかったでしょうか。私も誇りを感じながらここを後にしました。 父は1945年の終戦も近い6月になって徴兵され、死を覚悟してテグの工兵隊に入営したようですが、すでに戦地へ行くこともできず終戦を迎えました。9月に復員後しばらく釜山商工会議所内に設置された「引揚委員会」に勤め、そののち母と子供達が先に引き揚げていた唐津に戻っています。弟も唐津で生まれ、いつしか私達は釜山を語らなくなっていたのです。
翌日は10:30の便ですから朝から空港へ行くだけですのでお見送りを固辞したのですが、チョ・ビョンスTeam長様とテウさんが車で連れて行ってくださいました。何から何まで大変お世話になりました。 こうして、私の「幻の故郷」の旅は終わりました。釜山市長様のご配慮と国際協力課の皆様のご親切なご努力がなかったならば、こんなにスムースに昔を訪ねることはできなかったでしょう。釜山の冬の風は冷たかったけど、私の心は熱い思いで一杯になっていました。 帰って母に話しました。「草梁の家に行ってきたのよ。石段を登ったの。今度連れて行ってあげるからね」 母は目をつぶったままうなずきました。 釜山広域市 許南植市長様と国際協力課の皆様に心よりお礼申し上げます。 これをお読みくださった皆様にも厚く御礼申し上げます。 お風邪を召しませんように。また来月お目にかかりましょう。 |
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