永井加賀 90歳 |
このページは、色々な方にご協力いただいて、 唐津のおみやげ話をお伝えするページです。 バックナンバーもご覧頂ければ幸いです。 #1 御挨拶 |
#93 平成19年12月 |
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ひたひたと岸壁洗う上げ汐の忍び寄るごと足許に鳴る 呼子 自宅裏にて 永井加賀 |
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今年も残り少なくなってきました。寒い夜には、やさしいおばあちゃんの昔語りでもいかがですか。 主人(洋々閣 社長 大河内明彦)の義理の叔母にあたる唐津市呼子町在住の永井加賀さんは、今年90歳。ほっそりとした体の背筋をスッと伸ばして頭脳明晰の美しい老婦人です。おりに触れて語ってくださる昔語りに耳を傾けるのは、奈良に住む孫娘加菜さんとその夫・山室雅史さん。ムコ殿は歴史が好きで、おばあちゃんの話にあいづちを打つのも上手。年に何回か里帰りしては、おばあちゃんの話を書き留めています。 そのノートを借りまして、今回ここに載せました。ほっこりしてくださいね。 |
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加賀おばあちゃんの昔語り 山室雅史 |
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私は初めて呼子の港を見た時、寅さんのワンシーンのような光景にひきつけられた。きらきら輝く海に勢揃いしたイカ釣り漁船、小川島、加唐島、松島、馬渡島(ま
その朝市の通りの先に妻の実家である酒屋「つしま屋 永井酒店」がある。妻の祖母・永井加賀おばあちゃんは時折懐かしそうに「今まで色々あったねえ」と、思い出話を語ってくれるのであった。 ◎対馬(つしま)屋の屋号
「これは永井熊右衛門敏行という先祖が、対馬の漁師さんたちの会計を任されていたことが書かれているのよ」 そうか、何かと対馬とのつながりが深いから『対馬屋』なんだなあ。なるほど。 ◎小川丸 「対馬屋は小川宿とも呼ばれ、かっては家の裏側が小川島からの連絡船『小川丸』の船着場でね。そこの土間は船着場への通路になっていて、小川島へ渡るお客さんがいっぱい並んどらしたとよ」
「当時、小川丸は朝9時に呼子に着いて、午後3時に小川島に帰る、一往復だけだったとよ。船長は朝呼子に着いたら帰りの便が出るまでどこかで飲んできてへべれけに酔っ払って一人では歩けないもんだから両脇を抱えられるようにして船に乗り込んでいたねえ」 へえ、今では信じられないようなのんびりした時代だったんだなあ。
「いつも呼子へ来ると対馬屋に寄って焼酎を飲むんじゃ。ごくり。うまか。ここのおばあさんには可愛がってもらったなあ。元気にしとらすかい?ワシより6つも年が上だったから、雲の上の存在だったばい。ははぁ〜。(と云って頭を下げる)」 「ワシは西瓜作りの名人ばってん、今年は一つもならんだった。水をやっても根が焼けてしまう。暑かったなあ。おかしな具合になりよるぞ〜。さて、これから馬渡島に帰るんじゃ。くれぐれもオバアサンのことをよろしく頼むばい。大事にしてくれんかい」 ああ、この人が船長を抱えて船に乗り込んでいた人だったのかあ。 ◎戦争 「弁天島に米軍の焼夷弾が落とされたときはその音の大きさにびっくりして思わず耳をふさいだよ。今まで聞いたことのない耳をつんざくばかりの音だった。小川丸を待つお客が土間に3,4人いたけれど、皆とっさに土間にはいつくばっていたもんね」 「空襲警報が鳴るとみな防空壕へ避難していたけど、私は一度も行かなかった。主人も含めて姑の息子6人が徴兵されて、ショックのあまり姑が寝込んでいて行けなかったから。姑は『私はいいから防空壕に行きなさい』と言ってくれたけど、置き去りにするわけにはいかなかったから、一緒に残っていたよ」。 ふ〜ん、そうかあ。おばあちゃんと、ひいおばあちゃん、心細かったろうなあ。怖かったろうなあ。 ◎鯨
へえ〜、想像するだけでも興奮するなあ。クジラ一頭取れたら七浦がうるおうと云ったそうだ。あ、そうだ、それで、呼子の名物はクジラの蕪骨の粕漬、松浦漬なんだなあ。熱い御飯にのせて食べたくなった。お〜い、御飯まだ? ◎占い 「占いは全部は信じないけど、7割くらいは信じるよ。一度占い師がこの家を見て、『表通りから海岸までの通路が一直線で通りから海が見えるのは良くない』っていうもんだから、台所を通路に移して通りから海が見えないようにしたのよ。そんなこと云われたら、気持ち悪かもんねえ。なかでも驚いたことは、昔洋々閣に占い師が来たとき、この家の後継ぎは三男だと言われたこと。本当にそのとおりになったもんね。長男、次男がいるのにそんなこと云われたミツ代義姉さんの驚いた顔は未だに覚えているよ」 そんなことがあるのかなあ。ミツ代さんというのは今の洋々閣の社長、明彦伯父さんのお母さんで、伯父さんが少年の頃に亡くなっているのだから、まだ小さいときに伯父さんは洋々閣を継ぐことを予言されていたのだなんて。不思議、不思議。 ◎学校 「唐津女学校」に通っていた頃、途中に有礼坂(ゆうれいざか)という坂道があってね。唐津中学の男子学生とすれちがうとお互いに顔を背けて視線が合わないようにして歩いたものよ。当時は恋愛なんて考えられない。みんな見合い結婚があたりまえだった」
今でも美人のおばあちゃんは女学生の時どんなだったろう。どんな制服を着てこの坂を上がっていったろう。すれちがう男子学生の胸のときめきが聞こえる気がするなあ。 おばあちゃんの小学校は厳木(きゅうらぎ)のうつぼ木小学校で、就学前から3つ年上の姉が学校に行くのをうらやましがって、ついていって運動場で遊んでいたという勉強好きのおばあちゃん。今でも短歌を作ったりして、頭が冴えてるおばあちゃん。 縁あって呼子の対馬屋に嫁いで来て、およそ70年。親に仕え、酒屋を守って、殆どよそに旅行に行ったことがなく、静かに静かに呼子に暮らしてきたおばあちゃん。 「いろいろあったねえ。時代がこんな風にかわるなんて思いもしなかったよ。どうして私が呼子に縁づいてきたのか、未だによくわからないけど・・・だけど、呼子はよかところよ」 おばあちゃんはもの静かに語る。けれども呼子への思いはとても深い。いつまでも元気でいて欲しい。 |
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奥の部屋では、きっとおばあちゃんが折鶴を折りながら、ニコニコしていますよ。健康のためには手先を動かさなくちゃと、包装紙で美しい鶴を折って、もう三千羽にはなりました。 加賀おばあちゃんは何を祈りながら千羽鶴を折っていらっしゃるのでしょうか。 それでは、よいお年をお迎えください。来年もいい年でありますように。 |
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