#84
平成19年
3月

このページは、色々な方にご協力いただいて、
唐津のおみやげ話をお伝えするページです。
バックナンバーもご覧頂ければ幸いです。


#1 御挨拶

高取邸洋間の暖炉 高取日出子画


いよいよオープン!
国指定重要文化財・旧高取家住宅



 皆様、こんにちは。春の日差が心を浮き立たせてくれますね。
いよいよ唐津市に残る美しい近代和風建築、国の重要文化財、旧高取家住宅(通称高取邸)のグランドオープンが近まりました。
 私は「高取邸を考える会」の事務局として10年以上高取邸に関わってきましたが、その間、高取邸を守るために高取家の皆様がどれほどの苦労をなさったかを、つぶさに見てまいりました。高取家の方々の高い見識と自己犠牲のお気持ちがなかったならば、高取邸の今日はなかったと断言できます。ですから、オープンを目前にした今月号に、高取日出子様の原稿をいただいてこのページに載せることを何年も前から計画していました。 いよいよその時期が来ましたのを大変うれしく思います。また快く執筆を引き受けてくださいました日出子様に厚くお礼申し上げるとともに、ご母堂様、お姉上ご一家さまおそろいでご健勝、ご多幸であられますようにお祈りいたします。

 皆様にはご精読いただければありがたいことでございます。




旧高取家住宅 受け継ぎ、残す心
高取日出子

 唐津市にある「旧高取家住宅」は、祖父伊好(これよし)が炭鉱事業を拡大しつつあった明治三十年代に本邸として構えた家です。舞鶴城址を望む唐津の海辺に、敷地約二千三百坪、建坪約三百坪の規模で、殆ど当初のま
高取伊好
まの姿を今もとどめています。平成九年五月に佐賀県の重要文化財に、その翌年には国の重要文化財に指定されました。私ども家族は県の文化財指定を機に、屋敷と庭園を唐津市に寄贈し、家を去りました。

 明治、大正、昭和、平成と四つの時代を、祖父の家族から、伊好の長男である父九郎(くろう)の家族である私たちへと高取邸を住み継いできました。伊好は、この家の向かい側の敷地の一角にも大正時代に家を建て、父の妹の婿の盛(さかえ)に住まいとして与えましたので、父の家を本宅、盛の家を新宅と呼んで、一つの家族のように暮らしていたそうです。盛の子供たちの代になって、新宅の家族は家を九州電力に売却し、それぞれ余所の土地に移りましたが、このたび、高取邸が文化財として残ることになったのを我が事のように喜んでくれています。

 昭和三十四年に父九郎が亡くなり、母紀子(のりこ)が佐賀市の高取合資会社(大正六年高取伊好により設立)と唐津のこの家を受け継ぎました。この頃、昭和三十年代は石炭産業が急速な衰退の道を辿った時期にあたり、祖父の興した杵島炭鉱もその後まもなく歴史の幕を降ろしました。

 以来三十数年、母一人で守ってきた古い家は、少しずつの修理を其処此処とするくらいで大過なく建っておりましたが、平成三年の打ち続いた台風直撃で屋根に著しい損傷を受けました。また、強風で海側の防風林の松が折れたり、弱ったりして、百本ほど伐らねばならず、家屋は海風から殆ど無防備の状態になりました。

 早急に屋根を補修し、家屋を補強する必要が生じてきました。しかし、家の屋根の瓦は今の規格とは大きさも材質も違うので特注になりますし、屋根の面積は三百有余坪ですから、修復には莫大な費用が掛かります。それまでも大きな家の維持費は頭の痛い問題でした。この際、老朽家屋と割り切って、普通の家族が日常生活を送るのにふさわしい規模の家に立て替えるというのが、一番現実的な決断だったかも知れません。

 そうは言いましても、石炭産業が盛んで活気のあった頃の唐津の歴史をその身に刻んでいる家を壊すのは忍びがたいことでした。いろいろな方にご相談してみましたが、古い家を残す意義という点ではそれぞれに貴重なご意見をいただきましたが、経済的事情も絡みますので自分自身で決断すべきことだと悟りました。

 一方で、家を壊して新しい家を建てたいので敷地を買いたい、という申し入れもありました。

 
松に守られていた頃。
今この松はない。

(写真 三苫正勝)
壊す、修復して残す、そのまま放置する等々、毎日決定が目まぐるしく変わりました。決心がつかないまま、とにかく、家の記録を写真で残しておこうと思い立ち、カメラマンの三苫正勝(みとままさかつ)氏に撮影を依頼しました。家の写真集「高取家写真集 丹(たん)」は平成五年に完成し、この写真集が世に出たことによって、家自体の価値が認められるようになり、文化財の指定に結びつく動きが起こってきたのでした。

 日本の場合、エネルギーの供給源が石炭から石油に一気に転換しました。石炭産業に拠っていた地元の経済的基盤は他の産業―観光業などに取って変わられました。新しい王のもと、旧い王を語るのは無意味なことでしたでしょう。石炭産業はその隆盛の度合いと期間を考えると、不思議に思える程の速さで忘れ去られていきました。高取邸も幾重にも枝を差し交わす松に守られて、時の流れの底でひっそりと眠りについていました。

 写真集をご覧になって、多くの方がこの家が残されていたのを喜んで下さり、同時に石炭産業は一つの産業としてきちんと評価されなければならないと仰言って下さいました。

 建築の価値としても、明治期の和風建築はそれまでは文化財として認識されていなかったのですが、バブル経済の時期にそれまで残っていた物のかなりの数が壊されてしまい、残すためには文化財として再評価しなければいけない時期に来ていました。世の中の動きも加勢したと言えることでしょう。

 写真集でその存在が知られるようになり、建築、美術、歴史などの分野の研究者が以前にも増して、調査に来られるようになり、平成九年に唐津で開催された日本建築学会のシンポジウムでは、「近代和風建築―高取家住宅」がメインテーマになり、あわせて見学会もありました。市民の文化団体からも要望があり、何回か見学会を開催しました。更に、文化財指定の話が起こってからは、文化庁や文化財審議委員会の方もいらしゃいました。

 その一方で家の屋根は強風の度に傷んでいくばかりでしたが、多くの方の応援が精神的支えとなったのと家に来られる方をお迎えする準備に忙しくなったのとで、思い煩うほうは一旦休止して、非常臨戦体制に入りました。

茂山千作師 狂言「福の神
平成六年の一月に、写真集製作者とのご縁で、梅若六郎師、茂山千作(当時千五郎)師、山本東次郎師ご一行を家の能舞台にお迎えして、能狂言の内輪の会を催すことになりましたが、その時の準備は以下に記した通りです。

 前準備―座敷の掃除 五名 二日
    植木の手入れ 三名 二日
    敷物、床の飾り、湯呑み、皿類、火鉢の用意、
    火鉢の灰のための藁の手配、灰作り(藁燃やし)、
    電気のチェック、障子貼り
    能舞台、能舞台座敷、控えの間、見物衆控えの間のしつらえ
 当日手伝い人員の手配―茶汲み、案内、受付、電話番、台所・座敷・場内整理、下足番、雨戸開け
 当日の片づけ―火の始末、食器の片づけ、雨戸閉め
 後日―用意したもの全ての片づけ、礼状書き

 
中尾陸美ソプラノコンサート
「白秋を聞く会」
この夜の演目は、舞囃子「羽衣」と狂言「福の神」でしたが、久し振りに、それも一流の演者の方々が舞台を踏まれたことで、家も魂を呼びもどされたのでしょうか。この演能の集まりを皮切りに、見学会、調査、講演会、コンサート、お能の会等がそれぞれ数回ありましたが、大体この様な次第でした。本来の家の手入れ、整え方からすると本当に一夜漬けのようなことでした。

 以前は家で働く人の人数も多く、毎日の家の内外の掃除は勿論のことですから手入れも行き届いておりましたし、お客様や催しごとの折には書生や親戚のものも手伝いに加わり、家の主婦の司令のもと、それぞれが巨大な生物の一部のように動いて、三百十六畳、二十八部屋の家が機能していたのです。母が受け継いでからの日常の手入れは、植木屋に夏期の樹木の剪定を頼み、盆暮れに草取りの人夫を雇っていました。家の掃除は、週に二回、通いの人を頼んで母屋の掃除を主に、奥の掃除も場所を分けてやってもらっていました。大広間は多人数のお客様の時にのみ使うようになりましたが、そういう折は先程述べましたような支度をしておりました。宗偏流のお家元を何度かお迎えしたり、大寄せの茶会も催していましたが、この時のように間をおかずにいろいろな方がいらしたことはありませんでした。

 私たちが何とか体裁を整えて皆様をお迎えできたのは、ひとえにお手伝いくださった方々のご協力によるものでしたでしょう。この方たちが主なメンバーとなって、「高取邸を考える会」という会が発足しましたのも有り難いことと思っております。

 こうやって駈けずり回っている間にも、屋根のことを放ってはおけません。文化財指定の審議が進む間、屋根の修復のことを県の文化財課に相談しましたが、修復は文化財にふさわしい仕様でしないとかえって建物の価値を減ずるとのことでした。しかし、工事の着手は指定を受けて後に予算が下りるのを待たねばなりません。それまでの間、少しでも家の傷みが進まないように、自費で屋根をすっぽり覆う特注のシートを掛けて持ちこたえることにしました。トラックの幌用の厚地ビニールを縫い合わせた巨大なシートでした。あの三、四年は本当に多くの台風が発生し、幸い直撃は免れたものの、強風をはらんで上下するシートが屋根全体を揺らしたり、風向きによっては大量の雨が漏ったりして気の休まるときはありませんでした。何度か、風で破れたシートや、軒先に雨水が溜まって膨れ上がった箇所を張り直すといった手当てもしました。台風の塩害で防風林の松が傷んで伐りましたので、風の当たりも格段に強くなりました。植木屋に相談しましたら松よりも槙が丈夫ですという意見で槙を百本植えましたがたちまち枯死しました。また、台風前に美術専門の運送員を呼んで杉戸を梱包して避難させたこともありまし
シートで屋根を覆う作業(新聞写真)
た。杉戸には京都丸山四条派の絵師水野香圃(みずのこうほ)により様々な絵が描かれています。手で触れただけでも絵は傷みますから、傷めないように細心の注意を払いました。杉戸絵は三十種類、四十六枚あり、能舞台には鏡板の老松や能の人物、伊好の書斎周りには中国の山水というふうに、部屋の用途、雰囲気に合わせた画題になっています。

 平成十年、NHKテレビ人間大学「建築探偵・近代日本の洋館をさぐる」第六回で高取邸が紹介されましたが、講師の藤森照信東京大学教授は杉戸絵についても言及しておられます。襖絵、杉戸絵は戦前の本格的な和館に於て、大広間などの格式ある空間に描かれていたという事ですが、現存するものはきわめて珍しく、東京の旧岩崎久弥邸と京都の旧三井本邸の杉戸が調査、保存されているくらいだそうです。国の重要文化財の岩崎久弥邸の物は一時期の管理不足により一枚の杉戸を除いて傷みが激しく、また、現在、一部が「江戸東京たてもの園」に移築されている旧三井本邸の物は建物自体が移築を重ねて、現在は小さいスケールの所に窮屈そうにはめ込まれている状態だということです。それに比べ、高取邸の杉戸絵は当初の場所に非常に良好な状態で保存されている点が素晴らしいと高く評価されています。

 新聞記事などで「旧高取家住宅」は「贅を凝らして建てられた」などと表現されることが多いのですが、、杉戸絵や欄間等が場の雰囲気にマッチして配置されていることが、そういう印象を与えるものだろうと思います。

納涼茶会 (昭和42年)
 この家を建てた頃、伊好の仕事も一気に軌道に乗ったのですが、それによって得た富を贅沢にのみ使ったのではないことを覚えていてくださる方も沢山いらっしゃいます。私邸も高取家の迎賓だけのためでなく、町の人々の文化の交流の場として使われることも多く、能や謡、お茶などの趣味の会を通して唐津の文化に貢献しています。

 伊好の後継ぎの九郎は、古唐津の再興をした中里無庵をパトロネージしたり、営利目的ではなく将来の唐津の観光発展のために、私費を投じて鏡山登山道を開き、馬場野に唐津ゴルフ倶楽部を作りました。これもまた、九郎が唐津と唐津の文化を愛する心を父母から受け継いだためでしょう。

 最先端の学問を身に付けた技術者として石炭産業の近代化を推進した伊好ですが、同時に多久の儒者の家に生まれた者として身に付けた儒学の思想が伊好の人格のバックボーンとなって社会的貢献をなしたのだと思います。伊好は、人生の目標を、労働と社会貢献―額に汗して働いてその結果財をなし、それを自らのために積むだけでなく、教育、医療、産業振興等に寄付して、社会に還元する―に置いておりました。

 その伊好の意志を生かすためにも、また、家の保存に向けて力を貸してくださった方たちのお気持ちに少しでも報いるためにも、私どもは家を唐津市に寄贈しようと思うようになりました。嫁して静岡におります姉ヱリ子にも相談しましたところ、快く賛成してくれましたので、家族が心を揃えて大事が決まりました。

 家の保存、活用を考えてみても、非力な私どもが私邸として所有していくよりも、行政の手に委ねた方がより篤い保護を受けられることと思いました。とりわけ古代からの文化的遺産を多く有する唐津市ですから、万全の保護が期待できるでしょうし、また、文化財として意義のある活用をしていただけることと思っております。

 
修復された洋間の天井
高取邸は平成十八年に五年にわたる修復、補強工事を終えました。工事完成後の元の我が家を眺めますと、見事に揃った大瓦の列、当時の技法で塗り直した洋間の外壁や天井、古い写真をもとに復元された母屋に、工事に携わった皆様の御苦労が偲ばれます。ただ、長年家屋を護ってくれていた庭木が工事や建物保存上の都合で大分伐られてしまいましたのが心細い思いです。しかし、工事の途中、平成十七年二回にわたって九州北部を襲った大地震で家屋が大きな被害をうけ、再び工事関係者の皆様が知恵を絞り、労をつくして修理してくださったことを思うと、これからは皆様の熱意が家をまもってくれることと信じております。家は「旧高取家住宅」として今年四月に公開されることとなりました。

 この家自体は、いわば「もの」にすぎません。しかし、この家の過してきた時間が九州の歴史の語りべとなるだろうと思います。「旧高取家住宅」をご覧になる方々が、現在日本では終焉を迎えた石炭産業やそれと同時期に隆盛期にあった鉄工などの重工業、さらにそれによって活況を呈していた時代の九州に、祖父伊好の足跡と共に関心を向けていただければ、と願っております。

                               (高取合資会社役員)



 いかがでしたか。私も読み進むうちに色々なことを思い出しました。台風でうねるシートが屋根を叩く轟音に奥様が震えておられたことや、私たちの会が勝手に計画するコンサートや講演会の度に黙ってたくさんの人を雇ってお掃除をさせてくださっていたこと、何かあるたびにお茶室に釜を掛けてくださったことなど、思えば簡単にできることではなかったのです。これだけの苦労をしてくださったからこそ、これほど良好な状態で家が保存され、国指定の重要文化財になったのです。平成18年には、近代化遺産としての石炭産業の別の地域の施設と共に世界遺産に申請されました。
 「受け継ぎ、残す心」、それこそが、破壊の世紀だった20世紀のあとの今世紀に肝に銘ずべきことではないでしょうか。

 お読みいただきありがとうございました。ぜひ高取邸を御覧においで下さい。お待ちしています。



今月もこのページにお越しくださって
ありがとうございました。
また来月もお待ちしています。


洋々閣 女将
   大河内はるみ


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