#76
平成18年
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このページは、色々な方にご協力いただいて、
唐津のおみやげ話をお伝えするページです。
バックナンバーもご覧頂ければ幸いです。


#1 御挨拶
 
成瀬國晴画 唐津市東の浜


浜ものがたり


浜辺の歌
あした浜辺をさまよえば、
昔のことぞ忍
(しの)ばるる。
風の音よ、雲のさまよ、
寄する波も貝の色も。

ゆうべ浜辺をもとおれば、
昔の人ぞ、忍ばるる。
寄する波よ、返す波よ、
月の色も、星の影
(かげ)も。




 こんにちは。
 夏がまたやってきましたね。


 ここに古い新聞切り抜きがあります。1990年12月20日の佐賀新聞の「青信号」というコラム欄の「浜ものがたり」です。筆者は大河内はるみ、つまり、私です。 その頃、私はこのコラム欄の第一期のメンバーの一人で、月に二回順番が回ってきて、なんやらかんやら生意気なことを書いていたのですが、この記事はその一つなのです。 なぜこんな古いものを引っ張り出してきたかは、後から書きますので、まずは「浜ものがたり」をお読みください。



浜ものがたり
(1990.12.20佐賀新聞掲載)

 昔ある町に、朝浜、昼浜、夕浜という三つの美しい浜がありました。

 朝浜では人々は貝を掘って朝のおつゆに入れました。
 昼浜では子供たちが泳いだりボートをこいだりしました。
 夕浜では、夕陽が波を金色に染めるころ、桜貝がもっとバラ色に輝いたり、カニが小さな丸い砂のお団子をこさえたりして、子供たちはいつまでも遊んでいました。

 ある時町の偉い人が言いました。「朝浜を埋め立てて工場を作ろう」。
 工場ができると高い煙突は黒い煙をモクモクと吐き出しました。人々はせきをしながら見上げて言います。「なんと立派な煙突だ」。

 ところが間もなく隣の町に新式の工場ができました。もうこの町の煙突は煙をだしません。人々は役立たずの煙突と呼びました。

 さて、昼浜ですが、朝浜の埋め立てで潮の流れが変わったらしく、すっかり波が荒くなり、今では砂はなくなって、4本脚のコンクリートがたくさんならんでいるだけです。

 ある日一人の老人が煙突を見上げて言いました。
「そこから世界が良く見えるかね」。
「ハイ、自分で煙を出している時には見えなかった物が今は見えます」。
 老人はうなずきました。
「私も同じだ。ここを埋め立てた時には見えなかった浜が、目がかすんでから良く見える。ホラ、マテ貝だ。アサリもおるぞ。何と美しい浜だったか・・・」。

 それから老人は顔を上げて言いました。
「そこから夕浜は見えるかい。子供たちは元気かな」。

 煙突は答えます。
「いいえ、子供はおりません。埋め立てが始まったもようです」。
 そして煙突はまるで溜息のような白い煙をボワッとはきました。
                                                おわり
 
 この「浜ものがたり」を書いてからもう16年が経ってしまいました。今は三つの浜はどうなっているでしょうか。煙
突は?老人は・・・?
 これが今月のテーマです。

 まず、上の「浜ものがたり」はぼかして書いていますので、バージョンUとして2006年版を具体的に書きます。あたりさわりがあると思いますが、お許しください。



浜ものがたり U

 


 今から50年前くらいまで、唐津市(合併前)にはいくつかの美しい浜がありました。そのうちの三つ、二タ子(ふたご)の浜、西の浜、佐志の浜のことです。

遠浅の二タ子の浜で貝を掘る子供達
立っているのが私 1958年頃

島は鳥島、向こうの山脈の一番高い山は浮岳
 二タ子の浜では貝がよく採れて、早朝からたくさんの人々がアサリ堀りに来ていました。遠浅の、それはそれは穏やかな美しい浜でした。私はこの浜のすぐそば、縁側から砂続きで浜に出られるところで育ちました。

 唐津城の下、西側の西の浜では、夏場は大賑わいで、海の家や貸しボート屋が軒をつらね、桟橋や飛び込み台もいくつかあり、やはり遠浅で最高の海水浴場でした。私の高校はこの浜のそばにありました。クラスをさぼって浜に逃げたりしていました。自宅に帰る時も通学路を通らずに、この浜の波打際を西へ歩いて二タ子の浜へ出ました。足元の乾いた白砂や、波打際の濡れた砂のきしむ感触を今も覚えています。

 もっと西へ行くと、佐志川の河口にひろがる佐志浜がありました。こじんまりとした浜でしたが、水鳥が渡ってきて、生態系上、貴重な浜でした。子供たちがよく遊んでいました。小さい子にも安全な浜でしたから。私の中学校(今はもうない、唐津市立第二中学校)は、佐志浜の近くでした。

 
1962年 バックに埋め立てが始まった様子が見える
その後は大島
ある時、45年くらい前でしょうか、九州電力の火力発電所を誘致するために二タ子の浜は埋め立てられました。なんでも「百年の大計」だったようです。
遠浅の浜はなくなり、二タ子と大島の中間の、もともとだいぶ浅くなっていて、大潮の干潮時には海の上を人が歩いて渡れるくらいだったところが埋め立てられて発電所になりました。巨大な煙突が2本立って、赤白の横縞に塗られました。どこから見ても目立ち、市民はその威容を自慢しました。
 高度成長期にむかう日本ではそのころ列島改造という言葉に沸いていたのです。唐津は石炭積み出しで栄えた町でしたから、ここに石炭や重油を燃やして発電する発電所ができることは願ってもないことと、唐津市民はカネやタイコで歓迎したようでした。

 発電所の操業が始まって高い煙突から黒い煙が吐き出されるようになるとすぐに色々な問題が出始めました。
 まず、ミカンに黒い斑点がつきました。亜硫酸ガスかなにかの公害でした。九電側の努力によりガスは中和されて排出されるようになり、みかんの問題は何年かで解決しましたが、これだけではなかったようなのです。
埋め立て工事中の現・九電唐津発電所敷地
近所の子供を集めて遊んでいた高校3年の私

 埋め立てとの因果関係は証明できないと行政はいっていましたが、唐津城下の西の浜が急激に様子がかわりました。大島と高島の間に入ってきた潮流はゆるやかに唐津湾内を反時計周りに回っていたと思いますが、その湾の西の部分がかなり大きく埋め立てられたためか、潮流は大島と高島の間からまっすぐにいきなり西の浜に突き当たり、砂を奪っていったのです。わずか数年で砂浜は無くなり、海の家の足元まで波がきました。波打際から急な角度で深くなり、子供が泳ぐのさえ怖いくらいの浜になりました。波打際はコンクリートの階段になりました。波が砂をさらうのを防ぐためにと、沖合いに離岸提がつくられ、唐津城の真下あたりにはテトラポッドがゴロゴロと置かれました。

 離岸提のおかげで潮流はドーンとぶつからなくなりましたが、堤の内側がどろどろヌルヌルとヘドロ化してきました。 西の浜は死にました。ようやく数年前に
人工海浜になった西の浜
佐賀県は養浜事業を何億円かかけて実施し、人工の浜ができました。昔とはちがう砂の感触、色合い、そして、生態系です。昔の賑わいはまだ完全には戻っていません。

 さて、火力発電所ですが、二号機ができてから僅か4〜5年後の1975年にはすぐ近くの玄海町に原子力発電所の一号機が操業を開始しました。火力発電所のほうは3号機まで建設されましたが、原発のほうはつぎつぎに4号機まで建設され、九州一の発電所に成長しました。今年はプルサーマルの問題で町が揺れています。火力発電所のほうは時々試験的に煙をだすことがあるくらいで、予備的な発電所になってしまったようでした。

 原発ができてからは、市民に火力発電所の悪口をいう人が増えてきました。あの煙突は目障りだとさえ言い出しました。

 火力発電所ができて30年くらいたった頃、海の唐津を発展させようというシンポジウムがあり、私もパネリストの一人として招ばれました。その中である人が「火力発電所が邪魔になるし、煙突が目障りだから撤退してもらって、そ
埋立地にたっている火力発電所と煙突
後に見える山が大島
こを鳥島まで続けて埋め立てて大きなレジャーランドをつくればいい。これこそ百年の計だ」とおっしゃいました。リゾート法とかが華やかに打ち出されていたころのことです。私は、「ちょっとお尋ねしますが、30年前に鳴り物入りで誘致した発電所を今はいらないと言っている、そんなに、30年先も見えなかった眼で百年先がどうして見えるのですか」と言いました。拍手がきて、他のパネリストたちは憮然としておられましたね。折角のシンポジウムをぶち壊して、主催者には悪かったのですが、言わずにはいられなかったのです。

 鳥島までの埋め立てはされませんでした。市民からの要望か、紅白の煙突は塗り替えられて優しい水色に変わりましたが、東のほうから唐津城を見ると相変わらずお城の向こうに煙突2本が突き出していて、景観を損なっています。最近になって、この発電所がなくなるようなことも噂で聞きますが、真偽はわかりません。


 
 「浜ものがたり」の三つ目の浜は佐志浜です。佐賀県は市民の反対運動や訴訟にもかかわらず埋め立てを強
佐志浜の埋め立て地
 右奥は海をへだてた大島のLPガス基地
行しました。その埋立地は結果的には当初の目的と説明されたような利用には至らず、荒地として放置されて15年ほどが過ぎてしまいました。ごく最近、西側の一画に公民館ができましたが、あとはまだ手つかずです。子供達の姿は消え、水鳥も消え、魚影も見えません。このそばを通るたびに悲しみが心をよぎります。

 私の浜ものがたりUは、これでおしまいです。

(記憶ちがいの思い込みや常識に欠ける間違いがあるかも知れません。ご指摘をお待ちします。)


 
 
 ところで、「浜ものがたり」の老人はどうなったでしょうか。
 そのモデルである、唐津市民が尊敬する長老がおられました。名門の会社の、当時は社長で、商工会議所の会頭も長くされ、発電所の誘致時にも関わったかたです。私どもはごひいきをいただき、何かとご指導を受けました。あるときしみじみとおっしゃったことがあります。海を埋めたのは間違いだった、できることならあの浜をとりもどしたい、と。「人は目がかすんできてからよく見えるようになるものだ。アサリもマテ貝も今なら見える」と仰ったのは、事実に基きます。私の心に深く刻まれた言葉です。 そして、16年前の「浜ものがたり」をここに引っ張り出してきた本当のわけは、そのご老人を喪ったからです。
 
 平成18年2月25日、突然のご逝去でした。前日まで会合に出ておられたそうで、95年のまことにご立派な生涯でした。T翁を偲んで、このページを書きました。このようなかたはもう出ないだろうと寂しく思います。 

 今私が住んでいる洋々閣は東の浜のそばにありますが、やっぱりこの浜もおかしくなっているのです。 唐津市の他の美しい浜が全部壊れてしまう前に、唐津の人々の目がよく見えるようになりますように、七夕さまに願いましょう。
 
   来月もお越しください。





2009年8月26日追加
西の浜の水野旅館さんから古い写真をお借りしました。昭和初期にはこの浜がこんなに遠浅だったのです。埋め立てがあるまでは、ずっとそうでした。水野様に感謝。


今月もこのページにお越しくださって
ありがとうございました。
また来月もお待ちしています。


洋々閣 女将
   大河内はるみ


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