#75
平成18年6月



このページは、色々な方にご協力いただいて、
唐津のおみやげ話をお伝えするページです。
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#1 御挨拶


呼子名産 松浦漬

玄海の捕鯨業
どんとどんとどんと波乗り越えて




 こんにちは。6月です。

 なんですねえ、このごろ度々海の交通事故がおきますねえ。玄界灘を走る高速船が何かにゴッツンして、乗客が倒れてけがをしたり・・・・。何かとはどうもクジラさんらしいのです。クジラさんのほうもたんこぶが出来たり、切り傷、スリ傷、痛かったろうね。致命傷を受けたのもいるかも・・・。これって、特に最近の現象で、もしかして、クジラ界は過密になってきたのではないでしょうか。
 捕鯨に対しては、Moby DickやWillyが好きな私としてはあんまりいい感じをもてないんですが、同時に、程よく捕鯨をやっていた昔のほうが生態系が保たれていたと言う説を聞くとなるほどと思ってしまうのです。賛否はともかくとして、歴史的には、唐津市呼子町はクジラ捕りで鳴らした港でした。私の実家の山口家(名護屋)も鯨組の一つだったようです。今月は、30年近く前に故・山崎猛夫先生が書かれた「玄海の捕鯨業」をご紹介します。写真は私がこのたび取材に回ったものと、資料からです。
 「鉾をおさめ〜て〜」と藤原義江ばりに歌いながら読んでいただければ、クジラさんも喜ぶ・・・・わけないか。怒るはずだよね、「ボォーン、ボォーン、ウィップ、ウィップ
(『世紀末鯨鯢記』)」って泣いて・・・。ごめんね。





玄海の捕鯨業
                                        山崎 猛夫


                     
 玄海の捕鯨は奥州の金華山沖、紀州の熊野沖とともに古くから日本三大捕鯨地として知られていたが、その起源は必ずしも明らかではない。『松浦拾風土記』によれば、寺澤志摩守が唐津藩主になった時、紀州熊野の太地浦から多くの捕鯨漁夫を雇い入れて、呼子、名護屋沿岸の漁夫に習わしめたことから始まったという。当時の捕鯨方は銛(もり)で突き刺す刺突(しとつ)法であったが、享保年間(1716〜1735)か
小川島
ら網を用いるようになった。そしてこの捕鯨場は呼子を本拠地として小川島を中心とする中尾氏によって行われた。初代中尾甚六は波多氏の家臣の後裔といい、漁業を始め初歩的捕鯨業も始めたらしいが、二代甚六の時代から本格的に捕鯨業に力をそそぎ、大いに漁場を拡張して宝暦の頃(1751〜1763)には既に五島魚の目と有川の両所に進出し、更に壱岐や平戸にまでも乗り出し、藩主土井利里から士分格を与えられている。

 この頃になると生月の益富、大村の深沢、有川の江口の各氏の鯨組も大いに栄えて、玄海や五島の鯨を追って互いに入り組みながら捕鯨にしのぎをけずった。中でも壱岐の土肥市兵衛は宝暦十三年(1762)から明和八年(1771)までの九年と、寛政四年(1792)の1年を小川島の捕鯨に乗り出し、また生月の益富又右衛門も宝暦十二年(1762)から十四年まで3年をこの島で鯨を捕っている。

魚見場
 唐津藩主水野忠任の家臣木崎攸々軒入道盛標の著作になる『肥前国産物図考』に書かれた捕鯨の説明文によれば、当時は小川島の西端の小山に「魚見場」(鯨の見張所)があり、二本の竿が立ててあった。付近を遊泳する鯨(セミ、ザトウ、ナガス、マッコウ、イワシ)を発見するとその竿にとま(竹で編んだむしろ様のもの)が揚げられた。その揚げ方によって鯨の位置や種類が知らされた。セミ鯨の場合は特にかがり火もたかれた。

 捕鯨船団の構成は追船、双海船、付船、ちろり船、持双船など総計四十艘で、これにたずさわる人数は羽差(はざし)(波座士)、加子、水主その他納屋での作業人夫など総計四百八十六名、他に鯨揚場にも数十人の日雇人夫がいた。(これらの船数、人数は時によって違い、多いときに八百人、臨時雇三百人という時もあった。)

『肥前国産物図考』 獲鯨図
 鯨に近付くと追船が船端を叩きながら双海船の張った網の中へ鯨を追い込み、網の中に入ったところを一斉に銛を打ち込む。この銛を打ち込む漁師を羽差という。しばらく人間と鯨との死闘が続く。鯨の弱ったところをみて二人の羽差が海にとびこみ死物狂いの鯨によじ上り鼻を切って綱を通すと、別の一人は鯨の潮吹きの所にのって穴をあけ綱を通し、いよいよ弱った半死半生の鯨の中央部と腰部に綱をかけ、持双船がその左右に二艘でかかえるようにして付く。最後に心臓部を剣で突き刺してとどめをさせば、附近一帯は真紅の血で真っ赤な海となったという。こうして捕らえた鯨は持双船によって小川島鯨解体場に運ばれるのである。

 当時鯨一本捕れば「七浦うるおう」といわれたとおり、捕鯨は唐津藩にとっては得がたい貴重な藩財源であり、小笠原時代には藩の直営にしたこともあった。

 
『肥前国産物図考』 小川島納屋図
三代甚六は水野藩主から無限の漁場を許され、更に板部柏の浦、黄島、黒瀬および小値賀島、宇久島、(ずべて長崎県)まで漁場を広げた。また彼は宝暦五年(1755)鯨一本の代価をもって呼子に石上山竜昌院を建立して中尾家の菩提寺とし、そこで鯨の供養をしたという「鯨鯢供養塔」が二基残されている。このような中尾氏の豪奢振りは藩主とても及ばなかったといい、
 「中尾様にはおよびもないが、せめてなりたや殿様に」という俚謡(りよう)さえ残されているほどである。また捕鯨時には遠近からの見物客と商人で、呼子一帯は時ならぬ雑踏をきわめて大いに賑わったという。

 しかし明治になりようやく藩庁からの保護を失うと漁獲は眼に見えて減少し、その上不漁の年が続いて、さしも栄えた捕鯨業も明治十年(1877)八代中尾甚六に至って廃業せざるを得なかった。元禄三年(1690)初代中尾甚六が始めて以来凡そ百九十年間、中尾氏による捕鯨業は姿を消した。因みに藩政末期(弘化四年〜安政六年)八年間の小川島付近を通った鯨は年平均二百十八頭となっており、それに対して捕獲したものは三十頭から四十頭の平均となって
『肥前国産物図考』 羽指踊り図 
いる。また明治九年は事業者なく0頭、最後の十年は中尾氏と他氏との共同で「獲鯨大小僅か二十四頭にして未曾有の不漁なり」と書かれている。

 中尾捕鯨組が衰退して呼子の漁場から姿を消すことを惜しんで、明治十一長崎県令北島秀朝および同後任の内藤忠勝は、この衰亡にひんした捕鯨業の復興を奨励し、資本金の一部として千五百円を貸与し、大いに保護する方針をとったため、先代組長坂本経M(つねよし)は佐賀、唐津、武雄、呼子の有志十六人とはかり各氏の出資金等四万三千円をもって七月「小川島捕鯨組」を組織し、廃絶せんとする捕鯨業を復興した。その後同二十一年に「小川島捕鯨会社」と改称し、同三十二年株式組織として「小川島捕鯨株式会社」と改めた。当時社員十四名、羽差三十二名、水主総員四百八十六名で本社を呼子に置き、もっぱらナガス、ザトウ鯨の捕獲に当たった。

中尾家屋敷 
 しかし捕獲頭数は藩政時代にくらべると著しく減少し、明治十一年から大正三年までの総捕獲頭数は五百八十三頭で、一年平均僅か十七頭前後であった。明治三十六年二月から三月にかけて玄界灘において海軍の大演習が行われ、砲声に驚いた鯨は泳路をかえて全く姿をかくし、明治十一年会社創立以来かってない大不漁にみまわれ、一万七千五百円の損害を被った。さらに明治三十七年二月日露戦争が始まり、早速四月旅順港閉塞用に捕鯨網は全部佐世保鎮守府から徴発されて、以後捕鯨は全く出来なくなった。その後一時平戸式銃殺法を始めたが失敗をした。明治四十一年大日本捕鯨株式会社らと提携して、ノルウェー式捕鯨法を始めるようになってからやや活気を取り戻した。明治四十年頃男の賃金は捕鯨時が一日鯨肉七斤(4200グラム)と米二合半(0,45リットル) (約24銭5厘)、女は十二時間労働で6銭であったという。

 約三百五十年の伝統を誇る玄海捕鯨も昭和二十七年の国際捕鯨条約の加入により、漁場、漁期の制限のため戦時中から小川島を基地に玄海捕鯨に特異な存在であった大洋漁業も三十一年から捕鯨をやめたため、現在では当地方の名産「松浦漬」のレッテルに往時をしのぶのみとなった。

(昭和54年 『まつら』唐津・上場の歴史散歩 九州電力発行)
 


 
鯨供養塔
いかがでしたか。捕鯨に関しては、たくさんの郷土史家さんが書いておられますが、資料が多すぎると私のページには重すぎますので、上の山崎先生のものを写させていただきました。捕鯨に対しては江戸時代にも『小川島鯨鯢合戦』(天保11年 豊秋亭里遊著)の中に「焼野の雉や夜の鶴のように子を思わぬものはないが、とりわけ鯨はことのほか子を思い、ザトウ鯨の子持ちなどは子が捕まると自分は逃げていても引きかえし子ゆえに命を落とす、おまけに臨終の際には浄土のある西を向いて死ぬなど、人間のほうが恥ずかしいくらいで、この鯨を捕って食うなどとはもってのほかだという人があるが、鯨捕りは無益の殺生にあらず、鯨は身を捨てて何千人もの口に入りて命をやしなうのだから大きな功徳だ、と答える人もいる」というようなことが書いてあり、昔から痛みを感じながら、供養をしながら捕鯨をやってきたのだとわかります。5月のある雨の日、私は呼子町の竜昌院を訪れました。鯨の供養塔におまいりをするためです。鯨供養の石塔はこのほか神集島や唐房にもあるようです。

 では、特別付録として、小川島に伝わるクジラを引き揚げる時のロクロ巻き唄と鯨骨きり唄をどうぞ。




 鯨ロクロ巻き唄
 

納屋のロクロに綱くりかけて ヨイヨーイ
鯨巻くのにゃ ソラ ひまもない
アラ ヨーイヨーイ ヨーイヤナ
ドッート エンヤー エンヤー

長須前には いかりはいらぬ ヨーイヨイ
一丈五尺の ソラ 櫓がいかる

ドーンと打ったか 烏帽子(島の名)の前で ヨーイヨイ
汝が打った鯨は ソラ 白長須よ

この唄は鯨が捕れて陸へ揚げるとき唄われる。直径4メートルもある腕木に男達が何人もとりついてくるくると円を描いて綱を巻き上げる。かたわらには太鼓をたたいて音頭をとる連中がいて、この合図で力を一つに結集して唄を唱和しながら巻き上げると、鯨の体が海中から上がってくる。唄の中の「ドーンと打ったか」は、ノルウエー式の捕鯨砲のこと。

(加部島の地搗き唄に転化したもの)
つつじ椿は 野山を照らす
背美の子持ちは ソラ 納屋照らす

今日は日のよか 石つきはじめ
搗いておさむる 大黒柱
 福岡博著『佐賀の民謡』より
  

鯨骨切り唄

明日はよい凪 ソライ 沖まじゃやらぬ
磯の藻ぎわで ソライ 子持(子持ち鯨)取るよ
はあ、よう切る よう切る
(自分の恋しい人は危険な沖までは出したくない。磯の近くで簡単に取れる子持ち鯨を取らせたい)

親父船から万崎(小川島北側の地名)沖で
ざい(采配)を振り上げみと(網)招くよ

みとは三重がわそのわきゃ二重
背美(セミ鯨)の子持は逃がしゃせぬ

沖じゃ鯨取る浜ではさばく(解体する)
納屋の手代さんな(手代さんは)金はかる

名護屋儀八さんな じゃけんな人よ
小鹿(長崎県の地名)お母やんばほろほろ泣かす

この唄は鯨が解体されて肉が取られたあと、鯨の骨を小さく切って油をとる仕事に百人もの女が並んで座り太鼓と音頭にあわせて鉈を振るうときに歌われた。一日13時間、何日も働き続け、明治25年ごろの給金が日当6銭だった。
唐津市小川島ではこの唄を保存しようと努力しておられます。

福岡博著『佐賀の民謡』より
 

 今月もまたおつきあいいただきありがとうございました。玄界灘を渡られるときには、くじらさんにお気をつけて。



今月もこのページにお越しくださって
ありがとうございました。
また来月もお待ちしています。


洋々閣 女将
   大河内はるみ


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