「平和との共存」を
サラエボの桜に託して
イピルイピルの会 伊藤登志子
私とボスニア・ヘルツェゴビナ国との出会いは1996年に遡り、振り返れば十年の歳月が経ちました。ボスニア紛争と呼ばれる内戦の後、アメリカでデントン合意が結ばれ、内戦に終止符を打ちましたがピースアグリーメントと言う表現とは裏腹にイスラム、クロアチア、セルビアの三民族間の感情的な衝突はなお続いており、日本のように桜の下で集い、飲み、心打ち解け、共に楽しみを分かちあう事など考えられない状況でした。政府要人の多くが日本を訪れており、主人の仕事の関係上、我が家での接待が個人的に重ねられお互いの信頼関係を築きました。母国の再建への熱い思いがその度に語られ、NGO活動を長年続けてきた私にも協力の要請がありました。幸い、私の主宰するボランティア会は小さい為に小回りが効くという利点がありましたので直ぐに出来ることから始めました。
1998年に脳性麻痺身体障害者協会へ協会の活動を支えるために不足していた移動用の乗用車を寄贈いたしました。既にドイツのカリタス修道会より寄贈されていた車が古くなっており、非常に喜ばれました。この寄贈式に出席する為、サラエボの空港に降り立ちましたが、内戦の爪あとが残る空港ビルは破れたガラス窓に机が一つとロープで仕切られた入管手続きの場所。この光景に30年前、赴任したカトマンズの空港を思い出していました。贈呈後、ボスニア全土を回ってみましたがそこで目にしたものは内戦により破壊され尽くした町並み、生々しい弾痕のビル群の無残な姿、至る所に埋設された地雷源、破壊された主要道路や交通機関でした。
首都サラエボに戻り、内戦で戦没した人達が埋葬されたお墓のあるゼトラ公園墓地を訪ねました。そこからは繁栄を極めた旧ユーゴ時代の1984年に開催されたサラエボ冬季オリンピック会場のアイスアリーナが望めます。このあたりはサラエボ・オリンピックを記念し、スポーツ施設が沢山あるゼトラ運動公園です。その一つのサッカー競技場が内戦で墓地に変わっておりました。フレームだけの無残な姿になったアイスアリーナ、現状と繁栄した時代が目の前で重なります。
戦争ほど人々に貧困と精神的疲弊をもたらし、全てを破壊尽くすものは無いとの思いが強く平和の尊さを感じました。三民族が日本のように桜の下で集い、飲み、心打ち解け共に楽しみを分かち合う事が出来ないものだろうか。サラエボ市に桜を贈り、三民族の共同墓地となっているゼトラ公園墓地に桜を植え、共に花を愛でる日が来る事を祈り、「平和と希望と国家の再建を願おう!」ゼトラとは皆の集る所という意味がある事を後に知りましたが、ここは宗教団体連合の共同管轄下にあり、団体から植樹の許可が必要で交渉が難航している時に、アメリカで9.11テロ事件が起こり「平和」を求める機運が世界的に高まっておりました。私は、この計画を是非とも実現せねばならないと決意を新たにし、募金活動を行い、サラエボへ空輸する代金捻出のために趣旨に賛同された方々とボランティア・ツアーを組、これまでに900本の桜をサラエボ市に、50本の桜をツヅラ市に寄贈しました。
一回目の寄贈式典は春の大雪となり記念植樹と挨拶のみとなりましたが思い出深いものとなりました。三民族の融和を願い、三民族の共同墓地であるゼトラ公園墓地とハスタハナに紅豊を、オリンピック村跡地のモイミロ地区に大山桜をすでに植え、市民の憩いの場であるミリヤッカ川の河川敷に養生中の紅笠、花笠を今春に植樹します。
しかし、残念ながら、桜に対する感じ方の違いと土壌の悪さのために半数の桜しか生育しておりません。今回、念願が叶い桜の樹木医を派遣してもらうことが出来、一本でも多くの桜を成長させたいと願っております。三民族平等にと言う考えの下に今年はセルビアのバニャルカ市にカンザンを、クロアチア、モスリムのモスタル市にカワズザクラを、サラエボ市には補充用の桜フクロクジュを贈る運びとなり、3月15日に400本の桜を持ってボスニア・ヘルツェゴビナ国を訪れます。桜に平和を託し、次ぎの世代を担う子供達と植樹を続けております。桜は日本の国花であり、戦争を体験した国民として平和を桜に託し、桜が咲く度に「戦争の愚かさと平和の大切さ」を思い起こして貰い、紛争の地から世界へ平和を訴えて欲しいとの願いを込め活動を続けております。この桜がワシントンの桜やベルリンの桜と共に人々の心を和ませ、桜のもとに集い民族の壁を越え人々の交流が盛んに行われる日が来ることを桜に託して!
|