#71
平成18年2月


このページは、色々な方にご協力いただいて、
唐津のおみやげ話をお伝えするページです。
バックナンバーもご覧頂ければ幸いです。


#1 御挨拶


前川佐一作、蒔絵見本より(部分)


前川観水・『松浦潟百詠』のこと
(漆芸家・前川佐一氏)



 はや、2月。1月は大雪で、被害が続出しましたね。お見舞い申し上げます。
 唐津にも珍しく12月に雪が降り、1月は断続的にびっくりするような寒い日がありました。私はこたつにもぐりこみ、鍋焼きうどんを食べて、テレビばかり見ておりました。昼間にうとうとするせいか、夜間は眼がさえて、来し方をしみじみと回顧したりしました。

 それで、今月のこのページは、モードとしては過去志向です。おつきあいください。
お話したいことは、前川観水という人のことです。唐津にはこんな人がいたのだよ、という、自慢でございます。

 私が観水氏に興味を持ったのは、もう40年も前、親戚のK邸で、ある屏風を見たことに始まります。
その屏風は、条幅一枚ずつ六曲になった小ぶりなものです。漢字がたくさん整然と並んでいて、なにもわからない私にさえ、えらく立派なものに見えました。とぼしい知識で拾い読みをしたら、漢詩が100並べてあって、いずれも松浦潟を詠んであるようでした。ひとつ一つを勉強してみたい、と思ったのですが、難しい!!
田代萬里書 前川観水・『松浦潟百詠』
屏風の一部
最後の部分を読むと、「前川観水先生が昭和24年に松浦潟百詠の詩作を完成なさった記念に、田代萬里が昭和25年にこの書を書いた」というものだったのです。K氏に尋ねても、この屏風の由来はお母様が誰かから買ったということしかわからないということでした。

 それから何年もたって、『末盧国』(唐津の郷土史誌)を読むようになったとき、バックナンバーに「前川観水松浦潟百詠」と題して、ところどころに出ているのに気がつきました。「すると、あの屏風は、これが完成したときにまとめて書かれた貴重なものだ、もしかして、その百詠は、出版されたのだろうか、解説つきで、出てないだろうか、読みたい」と、私の中に願いが生まれたのです。

 4年ほど前、わたくしどもで110周年を祝ったときに、私はK氏にお願いして、くだんの屏風を借り受けました。広間の飾りの中心にすえました。洋々閣が最盛期だった時代の唐津の様子を詠んだ詩は、その日の飾りにもっともふさわしいと思ったからです。

 その時に、謡をなさるお客様が興味を示されて、この詩を全部書き写せと言われたのですが、なかなか作業が進みません。『末盧国』から拾ってきても、順序や数がぜんぜんそろわないのです。「ああ、どこかに、これを全部まとめてある本がないかしら」と、またもや強く私は願ったのでした。

 それから数ヶ月、まだ、未練がましく屏風を時々眺めていたころです。東京の前川というかたが訪ねてみえて、なんと、前川観水の孫だと名のられました。祖父・佐一の法事に帰郷した、帰ってくる前に、なんとなくインターネットで祖父の名を検索したら、漆工芸家・前川佐一は出てきた。観水では出ないだろうと思いつつためしに検索したら、洋々閣のページに「満島」の詩を引用して前川観水作と書いてあるのにヒットした、これは、祖父の詩にまちがいないが、なぜ洋々閣女将が前川観水の詩を知っていたのか、という疑問をただすために、法事の終了後に私を訪ねたということでした。

 私は早速かの屏風を抱えてきて、前川様にお見せしました。とても喜んでくださって、これは母が大事に保存している祖父の資料だとおっしゃって、いくつかのものを見せてくださいました。その中にあったのです。非売品ながら、また、当時の情勢として、簡素な手刷りながら、『松浦潟百詠』が!

 皆様、念じれば通じるものですね。私は唐津市図書館長におはなしして、学芸員さんが前川家に行かれて、その本のコピーをとられました。そのコピーのコピーが私の手元にあります。これで、やっと、屏風の前に座って、読み下し文を見ながら、鑑賞することが出来ます。あ〜、良かった。

 
 では、この本のはしがきと序文をどうぞ。
 その下のほうは、前川観水作『松浦潟百詠』より2編と、このたび、前川家のご好意で、画帳を撮影させていただいた、観水氏本人の画です。おかげさまでこんな貴重な資料を載せたページができました。百詠の全編を知りたい方は、唐津市近代図書館にお出向きください。
 ごゆっくりどうぞ。

            
                   『松浦潟百詠』
  著者       唐津市満島宮の町 前川観水
  發行所      唐津市西寺町 長得寺内 唐津書道會
  印刷所印刷人 唐津市桜馬場四丁目1306−1 彩光社 (萬里) 田代一郎





はしがき

 余少年の頃より漢詩を嗜み、幾度か作詩に志したけれども遂に成らず、偶々齢、耳順に達した折、何とかして華甲自祝の詩を作って見たいものだと考へ平仄を檢し韻を捜りて二十八字を並べ、これを先覺に示し教を請うたのが抑も余が作詩を試みた初めで、所謂八十の手習とはこれを云うのであらう。
 爾後時に觸れ、物に感じその抑さへ難き感懐を二十八字に表はすことを試み獨り自ら怡しみとして來たり、其の間辱知植村雲C先生と翰墨E酬の縁を結び益を受くること少からず今日に至ってゐるが、曩に官を退き居を唐津満島の海濱に移し、悠々自適の日月を送る折から、朝夕松浦潟の大自然に親しみ、常に山紫水色の景観に接し、自ら詩思禁ずる能はず、敲句探韻二十八字の詩を試み、其の都度、雲C先生の講評を得たるもの遂に一百首となったのであるが、機に臨み、これを吾が書道條幅揮毫題材の資に充てゝいた折しも、今年臘月、我が唐津の舊記に因む佐用姫祭りの行事が催さるゝに際し、吾が唐津書道は佐用姫及、これに關連せる拙詠を書幅の題材として揮洒し之を展覧し、洽く大衆の批判を仰ぐことになったが、この際吾が同人相謀りて、一は拙稿を空しく筺底に秘するを憾とし、一はこれを観光紹介の一助たらしめんとの趣旨から、これを印刷に附し、一小冊子となし、同好者に頒つことにしやうとの熱心な勧奨に格調措辞共に不備とは知りながらも、敢て之を辞せず應諾した次第である。
 冀くば大方の諸彦が忌憚なき斧正を賜りて更に完璧な松浦潟百詠と化成して頂きたいと思ふ。

        昭和二十四年十一月               七十三叟  観水記す



序文
 先生は佐賀縣伊萬里町の出身。観水と号す。古稀を越ゆる既に三歳今尚矍鑠たり、温厚、實徳の師、世間の思慕又大なり。幼にして藝術に志し、東京美術学校を卒へさせられ、以来各學校其他技術の教職、講師として諸方面轉々、其の技の薀奥を極められ、夙に書道、漢書、詩文等の研鑽に餘念なく、今日に至る。唐津在住當時松浦の風光に着目せられ、日夜作詩に專念、遂に港湾の風光、名所旧蹟餘す處なく之を壱百の詩文中に穫められる。各所の實景一讀して其の眞美を表顯せらる。是れ一つに先生の薀蓄の然らしむる處。観光の地としてまた豊富なる舊蹟、由来に於て其の山海、河川の麗美筆紙に盡し難きを卓絶する先生獨特の識見を以て、名文美句に乗せられ以て一冊子を編纂せらる。誠に後學の指教として絶讀を惜しまず。
 先生は初代唐津書道會の會長、現に名誉會長として後進の指導に勤めらる篤學の人也。
 今や書道同好の士相集い、先生の作詩を慕ひ、研鑽に勉め以て松浦佐用媛揮毫展覧會
出品の為、右一詩を書冩展して以て普く諸賢の展覧に供せんと企畫す。庶くば先生の名作に對し、大方の御玩讀を乞ふて以て序となす。

        昭和二十四年十一月       唐津書道會長  海岳  小川幾三郎


 

虹之松原

霓林景勝絶無倫
沙白松青遠世塵
相伴群G臨碧海
清游一日足怡神
 
   
  虹の松原

 霓林(げいりん、虹の林)の景勝絶えて倫(たぐい)なし
 沙(すな)白く松青く世塵(せじん)を遠ざく
 群鴎(ぐんおう)を相伴(とも)とし碧海(へきかい)に臨(のぞ)
 清游(せいゆう)一日神(しん)を怡(い)するに足る
 

満島歸帆

雲遠波平満島灣
磯邊曝網夕陽閑
蘆洲荻渚沙禽戯
一路風帆蹴浪還


  満島帰帆

 雲遠く波平らかなり満島(みつしま)
 磯辺(きへん)網を曝し夕陽(せきよう)(しずか)なり
 蘆洲荻渚(ろしゅうてきしゃ)沙禽(しゃきん)(たわむ)
 一路風帆(ふうはん)浪を蹴って還(かえ)


      *(女将註:満島は、洋々閣のある東唐津の旧地名です)


 

 以下に、私が作成した前川佐一・観水氏の年表を書きます。参考資料は、『末盧国』第95号〜103号(昭和63年〜平成2年)と、前川家からの聞き取りです。
まちがいがあれば、ご指摘くだされば幸いです。

明治10年 佐賀県伊万里町甲585番地にて父大助、母キチの長男として誕生。
明治22年 尋常科を優等で卒業。
明治25年 高等小学校卒業。学業と品行により表彰を受ける。
明治28年4月 上京。東京美術学校にて横山大観より面接を受ける。その推薦で東京共立美術学館に入学。横山大観、宮本右年、板谷波山の指導を受け、絵画、彫刻、また、歴史、地理、数学などを学ぶ。
同 7月 東京美術学校に無試験で合格。森G外より美学史、久米桂一郎より西洋美術史、川端玉章より絵画などを学ぶ。
明治30年 学業と品行の優秀により、特待生となり、授業料を免除される。夜間に英語学校で英語を学ぶ。
明治31年9月 蒔絵科(後日漆工科と改称)に編入される。六角紫水、川之辺一郎、金井清吉の教えを受ける。
明治33年7月 漆工科を終了。日本美術院依頼の古社寺宝物修繕に従事。
明治34年11月 熊本県工業徒弟学校正教員。飽託郡立工業徒弟学校教諭、校長事務取扱となる
明治35年3月
 前川佐一卒業制作・『秋草手箱』

東京美術学校卒業制作の『秋草手箱』が天覧に供せられるために宮内省に買い上げられる。

この作品、及び、美術学校がのちに佐一に依頼して同じものを作らせたもの両方とも、戦禍を被って消失した。
以後
佐一の制作した蒔絵の見本

宮崎、有田、金沢工業学校漆工科に奉職。富山県高岡、長崎商品陳列所、山口県工業試験所長を最後に官を辞す。(有田時代の教え子に、後の人間国宝、唐津焼の中里太郎右衛門がいる)
昭和15年4月 夫人の里である唐津に居を移す。唐津市長の委嘱により、経済課の充実をはかり、青年学校の木工、地場産業の指導をする。
昭和16年 唐津工業高校嘱託教員。その後は地域社会において、書道や藝術の発展のために努力し、作詩にいそしむ。高潔な人格により、多くの人に慕われる。
昭和31年 金沢時代の教え子・松田権六氏(芸大漆工芸科主任教授、人間国宝、文化勲章受章者、国の重要文化財審議委員)が来唐の折、曳山14台を供覧し、文化財に指定されるように動く。また、曳山取締役会や唐津神社宮司と面談し、曳山保存の重要性を説く。
昭和32年
松田権六氏と前川佐一氏


松田権六氏が病床の師を見舞う。

観水、長男清氏に回顧録を口述する。
同年2月20日 唐津市にて逝去。

 いかがでしたか。漆工芸家、前川佐一の作品『朝妻船図絵盆』は、現在東京藝術大学美術館にあるそうです。もっと、どこからか発見されればいいですね。でも、作品そのものよりも、彼が教育者として指導した漆工芸伝承の弟子、孫弟子、曾孫弟子たちが、最もすばらしい前川佐一氏の作品なのでしょうね。
 では、みなさま、さようなら。また、来月。春まで、お気をつけて。
   



          前川家の皆様にお礼を申し上げます。
今月もこのページにお越しくださって
ありがとうございました。
また来月もお待ちしています。


洋々閣 女将
   大河内はるみ


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