#67
平成17年10月


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    #1 御挨拶


お若けぇの お待ちなせぇやし
人は一代 名は末代
―松浦党の恨みの仇花 幡随院長兵衛―






長兵衛 

  阿波座がらすハ浪花がたや鶯は京そだち吉原すずめを羽がひにつけ
  江戸で男と立てられた男の中のをとこ一ぴき
  いつでも尋ねて御ぜいやし蔭膳据て待っておりやす

小唄江戸紫 中田治三郎(昭和23)より



 「オヤ、こいつは、粋だねぇ。どうしたんだい、今月号は?」、なんて、おまえさん、思ってるでしょ?
エ、思ってない? フン、なにさ、ヤボテン。

 「テヤンデエ、長兵衛がどうした、唐津と関係でもあんのか」、なんて、トンガラないの、サボテンさん。

 花のお江戸の男伊達と人気の高かった「町奴」の親分、ま、侠客のハシリだそうですが、歌舞伎や浄瑠璃、講談、浪曲、演歌にお芝居ともてはやされた幡随院長兵衛は、実は唐津藩の生まれなのです。
 私は、「極付幡随長兵衛」(きわめつき ばんずい ちょうべい *歌舞伎では、ばんずいというらしい)を若いときに舞台で見ていると思うのですが、記憶がはっきりしません。「お若けぇの お待ちなせぇやし」と、白井権八を呼び止める「御存知鈴ケ森」(ごぞんじ すずがもり) のシーンは、テレビで何度か見たのでしょう、思い浮かびます。その程度の知識で知ったかぶりをするのが、私のえらいところですね。で、今月はイキにいきましょう。コレ、そこのお若いの、お待ちなせえ、逃げないで最後まで読みなせえ。 せっかく、唐津市相知町の郷土史家、祭城一子先生にお原稿をいただいたのですから。

 祭城先生、ありがとうございました。

 それでは、松浦党の無念の土壌に芽生えた仇花、男意気の長兵衛の唐津とのかかわりを、ごいっとうさん、お楽しみくだせえ。


幡随院長兵衛の生い立ちについて
祭城一子


 

 幡随院長兵衛の生い立ちをお話致します前に、九州西部で有名な「松浦党」についてお話しなければ、話が繋がりませんので、ちょっと寄り道をいたします。
 
 松浦党とは平安時代末期から中世末期にかけて数百年にわたり九州西部の肥前国松浦の郡、現在の佐賀県の北部と長崎県の五島、壱岐を含む地域で活動した武士の集団です。上松浦党と下松浦党に分かれています。

 その発祥は1019年(寛仁3) 刀伊賊(中国の女真族)が攻めてきた時、これを撃退した前肥前守源知とされ、嵯峨源氏で歴代一字いみ名を用いています。蒙古来襲にも武名をあげた武士がたくさんいます。この地方は昔から宋や高麗との貿易中継地で、海外貿易で富を成した豪族がいますが、正規の貿易のほかに、倭寇として東支那海沿岸から高麗(韓国)を荒らし恐れられていたと言われます。これには多々問題もありますが、ここでは割愛いたします。

 以来、この上松浦党を束ねてきたのが波多氏で、戦国時代末期の党首に波多三河守親(はた みかわのかみ ちかし)がいます。親は源頼光の四天王の一人渡辺綱(大江山の酒顛童子や羅生門の鬼退治をした)を祖先とする源久の17代の後裔です。松浦党の発祥に源知と源久の二説があるのですが、親の祖先は久とされています。

久保から見上げた岸岳東端
 この親が幡随院長兵衛の父塚本伊織と繋がって参ります。

 波多氏の居城があった岸岳は、標高320メートルの男山で、現在は唐津市相知町の西を限る山ですが、頂上からは遠く玄界灘を望み、四方がよく見渡せます。頂上とその周辺には中世および近世当初の山城の石組みが今も残っていて、佐賀県の史跡に指定されています。

 この山の東の麓に近い集落を「久保」といいますが、ここで幡随院長兵衛こと塚本伊太郎は生まれました。

 ここ久保から南に8キロくらいのところ、現伊万里市大川野に波多氏の重臣である鶴田因幡守の日在城があり、その砦が久保にありました。長兵衛の父を塚本伊織と言いますが、この鶴田氏の家臣であり、久保に住んでいました。母も因幡守の家臣で、のち出家した建福寺の僧、田代可休の娘です。(養女)
 没年から逆算して、長兵衛は元和元年(1615)に生まれたことになります。

 ここで、伊織と長兵衛の親子が江戸へ向う話になりますが、その発端となったのは、かの太閤秀吉の朝鮮出兵(文禄の役)と、岸岳城主波多三河守親の関わりです。肥前名護屋に城を築いた太閤はここに出張って、20万ともいう朝鮮出兵の指揮をとりました。この戦に三河守親は佐賀の鍋島氏の旗本として、兵750騎をひきつれ朝鮮に出陣しましたが、いわれなき讒言によって改易、お家取り潰しとなりました。それは、「三河守は朝鮮において病気を口実に、釜山に近い熊川の港に隠れて、鍋島の軍と合流せず、卑怯であった」と三人の武将からの告げ口によるものです。親が動かなかったのは、理由があるのですが、問答無用とばかりに、釈明も聞かれませんでした。親はこの戦に部下の半数以上も失っています。

今も残る岸岳城の石組み
 親は文禄2年2月9日(1593)太閤の勘気を蒙り改易となりました。親はこの処分状を朝鮮からの帰途名護屋沖で受け取りました。故郷の山野を遠く海上から眺めたのみで、上陸もかなわず福岡の黒田長政に預けられました。その後、主従4人で常陸の国筑波山の麓に流されました。藩主佐竹侯のお預かりです。
 親と一緒に豊後の大友義統・薩摩の島津又太郎が改易されています。これらは士気を高めるための見せしめでしかありませんでした。

 この改易によって松浦党は崩壊し、武士たちは百姓となりました。藩政時代になると寺沢氏は懐柔策として、庄屋に取り立てました。

 ところで、告げ口をした3人は誰々だったでしょうか。その周辺に寺沢志摩守がちらつきます。また志摩守は岸岳城の家臣を手馴づけ、城中に火をかけ岸岳城を焼き払ってもいます。

 太閤秀吉と親はそもそも馬が合いませんでした。天正15年秀吉が島津征伐に九州に下向したとき、福岡への挨拶に遅刻、島津征伐の際には一兵も出さず非協力、また名護屋を前線基地にする事に反対したなどなどがありました。しかも、太閤はもっと以前から、海外貿易の旨味がある波多氏の領土を狙っていました。このことを、折から在日中のキリスト教の宣教師ルイス・フロイスが「日本史」の中に記しています。

 フロイスは述べています。
 「実家の島原日野江城主ドン・プロタジオ(有馬晴信の洗礼名)の長兄にあたる
名護屋城図屏風
波多殿は(親は島原の有馬から養子に入った人です)肥前国にその領土を持っていたが、同領内の名護屋という港に、関白殿が宮殿と城と町を造営したことは先に述べた通りである。
 ところが波多殿は高麗に渡ると、病気であると偽って熊川から先に進まなかった。彼はこのため三人の武将から告訴され、彼らは高麗から(この件)を関白に報告した。波多に与えた俸祿と領地を没収するために、なんらかの口実を見出し小細工を弄しようと企てていた関白は、この訴えを耳にして満悦し、ただちに彼を追放処分に付し、わずか八名の家来を伴わせ、身柄を黒田長政に預け、一方波多領地を寺沢氏に与えた」
 と書かれています。 「取り潰し」を早くから考えていたことを、外人の目にも明らかに映っていたことが、これでよくわかります。

 取り潰しの今一つの原因として、世に広く知られているのが、三河守の出陣中に、名護屋城中に呼び出された親の奥方秀の前が、城中懐剣を落としたことを咎めたと。秀吉の好色が話題ですが、このとき秀の前は46歳、当時としてはいかに美人でも、おばあさんです。誰が脚色したお話でしょうか。

 史実としては、この戦に際して九州の大名たちの妻子は、人質として大坂に集められていました。これは証拠の古文書が残っています。

 さらに、塚本伊織は私的なことでも寺沢氏を恨んでいました。それは妻の父田代可休が寺沢によって処刑されたからです。しかも、首・胴・脚部とそれぞれ別のところに葬られるという惨殺です。処刑には三つの理由がいわれています。

 一級河川の松浦川が、可休の住んでいた大川野から相知を経て唐津湾に注いでいますが、唐津藩主寺沢志摩守は田地を潤すため、この川に井堰を拵えましたが、洪水の度ごとに破壊されます。ここで、可休が中島を作って水を二分し、一方に導水口を作ることを進言しました。これを、志摩守は干渉されたと腹を立てたのです。結局は可休の死後そのように作り上げたのです。以後洪水にはびくともせず、今も残っています。

大川野の井堰横の寺沢と田代の石碑。
セイタカアワダチソウに半ば埋もれ、
逆光で写真では見えないが、
肉眼では対岸からでもはっきり
字が読めた。敵同士二つの碑は
今何を語らうのか。

 いま一つの説として、波多氏再興の計画の集まりを建福寺で度々開いていたというのです。また、建福寺に国禁のマリア様が祭られていたとも言われています。

 面白いことにいま、この井堰の傍らに、寺沢志摩守と田代可休の碑が建っています。

 伊織親子が故郷を捨てたとき、伊太郎は13〜4歳だったといいますが、いわゆる敵討ちの謀議と、さきの可休の罪に連座したのかも分かりません。身の危険を感じたのでしょう。いずれにしても旅に出たわけです。

 ところが、父伊織が下関(広島とも)で病死いたします。伊太郎は父の遺言により江戸は浅草の幡随院に白導和尚を訪ねます。幡随院は京都知恩院の末寺で浄土宗、正式には神田山幡随院新知恩寺といいます。では、九州の片田舎と江戸との縁は何処で生まれたのでしょうか。

 この白導和尚は幕府の命を受けて長崎に赴き、ヤソ教徒の教誨に勤めていました。伊太郎の母方の祖父は僧職の田代可休です。また、可休の叔父に塚本三徹(サントス)という人が長崎におり、この人は海外貿易をしていて、波多三河守に中国から牡丹の苗を持ってきて献上しています。今もこの牡丹は大きく根を張って奇麗な花を咲かせています。長崎で白導に縁があったのかもわかりません。『日本歴史大辞典』では向導和尚となっていますが、白導が正しいと思います。向と白は行書の字が似ています。

長兵衛の死
 岸岳城主波多三河守は、太閤の死後許されて帰国の途につきますが、広島県牛窓の港で病死いたします。また寺沢家は二代で断絶、敵を失い、目的を失った伊太郎は、その後歌舞伎や講談などで皆様ご存じのように、江戸で口入屋を営みました。「強きを挫き弱きを助ける」町奴・侠客として庶民の人気を博し、敵対する旗本奴の水野十郎左衛門の奸計にあい、水野邸の風呂場で殺されました。

過去帳
 過去帳によりますと、死亡年月日は慶安3年4月13日、(1650)。徳川実記によりますと、7年後の明暦3年7月29日となっています。この過去帳は大津市にお住まいの塚本三徹の後裔と思われる方によるものですが5代前まで長崎にお住まいだった由。長崎の皓台寺に明治41年に照会されたもの。
 法名は善誉道散勇士です。善き道に散った勇士、大変いいご法名です。
 
 久保地区ではいまも命日に近い日曜日に「長兵衛祭り」が行われています。長兵衛の墓は浅草北清島町(町名変更あり)源空寺にあり、この墓の碑銘は蜀山人が書いています。幡随院は以前に武蔵野の郊外に移転されたと聞いています。



 なるほど、なるほど。そうでしたか。長兵衛の生誕地・久保は、肥前唐津領内でした。今又、合併で唐津市に入っ
鉄橋の向こうは久保の集落
ています。わたしは、このたび初めて長兵衛生誕地記念碑を訪れて、記念に小唄を一ふし、口ずさんできました。
 昔、一時期、春日の小唄のおっしょさんが洋々閣で旦那衆に教えておられたことがあって、主人も実は名取なのです。(これでも名取?とびっくり
久保にある生誕地記念碑
昭和5年建立
当時3万円かかった。
碑銘揮毫は小笠原長生公
竿石廿一尺(三万斤)
台石七尺(八万斤)
根がため七尺
玉垣四十尺四方
平成17年春の地震でも
びくともしなかった。
するくらいヘタですけどね。場所を借りてるので、やむをえず、名取になさったと、わたしゃあにらんでいますがねえ。あるとき主人が友人の前で一曲披露したら、「ホー、小唄とはいいもんだなあ、すぐ終わるから」と、ほめられたくらいです。)わたしは門前の小僧で、でたらめに真似をします。月謝を払ってないので、ないしょですよ。今度会ったときに、一曲歌え、なんて、いいなさんなよ。

 それでも、ぜひ聞きたい?しょうがないねえ、では、一曲。
 「鈴ケ森」は、三下がりで。

 チントンシャン、ハァ、早助をおどす和尚や五月闇、その他大勢雲助が〜、チチチチ、ハッ、(中略)、ほんにこの世は三すくみ、ばったり見得も下手から、幡随院の長兵衛が、出てくるまでの、鈴ケ森。チン。
 
 おそまつ。また、来月。

(長兵衛生誕地や、幡随院とのかかわり、没年などに関しましては、異説もいくつかあるようです。ご意見や情報をおよせくださいましたら、祭城先生にお取次ぎします)

 
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今月もこのページにお越しくださって
ありがとうございました。
また来月もお待ちしています。


洋々閣 女将
   大河内はるみ


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