このページは、色々な方にご協力いただいて、 唐津のおみやげ話をお伝えするページです。 バックナンバーもご覧頂ければ幸いです。 #1 御挨拶 |
#63 平成17年6月 |
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水無月の田毎に鷺を点じけり 長谷川かな女 |
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みなさま、こんにちは。六月は私の好きな月です。あじさいが咲くし、鷺が水辺に降り立ちます。浮かれていた五月とちがって、しみじみとした景色に深い内省の時が訪れます。雨に降り込められて退屈な午後を、古いアルバムをめくって見たりして人と人の絆のことなど考えれば、梅雨もまたたのしいひとときとなります。 今回は、唐津市にアシスタント外国語教師として昨年から来ているベン・スガ君を紹介します。彼が自分の中に流れる日本人の血の絆をたしかめた感動の体験をお読みください。 |
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美しい絆 Ben Thomas Suga |
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アメリカで育って、僕はいつも僕の中に遺っている日本的なものの不思議さに惹かれてきました。西欧と日本との文化のちがいはとても強いものでした。それは、僕が祖父や父の目の中に見、食事に味わい、うちに飾る日本の美術のテキスチャーや情緒の中に感じるものでした。 けれども僕が子供のころから持ち続けていた不思議な気持ちを言葉にしたり行動に表したりし始めたのは、祖父の死後、大学に入ってからのことでした。大学2年の時に僕は川崎市の専修大学で1学期間学びました。その期間にそれまで存在さえ知らなかった知識や経験に近ずくことになったのです。それ以後、僕は日本語を学び、日本の美術に新しい興味を開拓しはじめました。そして、なぜ、どのようにして、僕の日本の祖先たちは西への冒険に踏み出したのか知りたいという気持ちを抱くようになったのです。 約一年前、JETプログラムの一員として唐津市教育委員会のALTとして働くために僕は唐津にやってきました。僕が唐津を選んだのは、海辺の町だからではなく、田園的で素朴な感じを残しながら不思議な美を保つ陶器を創るという驚くべき伝統を持つ町だからです。いつか唐津焼を勉強したいというのが僕の夢でした。遠い親戚に会うなんてことは野望というか、作り話の中のとっぴょうしもない筋書きのようなものでした。 唐津に到着して一週間ほどして、僕は週一回開かれる英会話クラスで教えることが出来るようになりました。このクラスを通じて、僕は、日本で出会った最も親切な人々との関係を築くことが出来たのです。特に、牧山氏は僕をとても親切に遇してくれて、おかげで知らないことの多い土地と文化の中で暖かく歓迎されていると感じられたのです。僕はそれからまもなく自分の日本の遠い親戚を探す可能性について真剣に考えはじめました。僕はワシントン州シアトルに居る遠い親戚に連絡を取って、その親戚はたまたま曽祖父が日本に来た当時の状況を簡単に記した一枚の書類を持っていたのです。信じられないようなことですが、そのたいして重要そうでもない紙切れが曽祖父の生地が唐津から車で3時間ほどの大分県杵築市であることを教えてくれたのです。曽祖父の故郷のこんなに近くとは信じられないような目が出たものだな、と僕は思いました。僕の家族の起源にこんなに近く僕を導いたのは、単なる偶然以上の、もっと霊的なもののように思えました。 牧山氏は色々なコネを使って、杵築市役所に連絡してくれました。おどろいたことに、僕の問い合わせは迷惑がられるどころか、逆に僕が解明を頼んだ謎を解決しようという熱意と親切で迎えられたのです。ほどなく僕たちは新しい情報を受け取り始めました。毎週、英会話の教室に行くたびに、牧山氏は必ず新しい情報を、具体的な名前と年代、それらに基ずく解明の筋道を伝えてくれました。1週間が2週間になり、2週間が2ヶ月になるころ、僕の家族の祖父側の家系図が大まかに書けるほどに十分な資料が集まってきたのです。信じられないようなことでした。僕の目の前で、僕の家族の5代前までが遡って追跡されたのです。 4月はじめの木曜日の早朝、僕の母モーリーン、父ボブ、妹エリンと僕は牧山氏の車に乗り込んで杵築市をめざしました。3時間もかからずに杵築市役所につきました。そこで僕らは僕の家族のルーツ探しに協力してたくさんの時間と労力を費やしてくださった親切な人々に会うことが出来ました。しばらく話をしてお礼をいい、アメリカからのちょっとしたお土産を渡しました。 直接にあえてお礼がいえたことは、うれしいことでした。
市役所から、曽祖父が生まれた家に向かいました。僕たちは、そこで2,3人の人に会えるのか、それともたくさんの家族の再会になるのか、わかりませんでした。結果は、10人以上の、とても気持ちのいい集まりとなりました。歓迎の笑顔と、お寿司や、スープ、デザートなどの大ごちそうに迎えられました。ひとわたりお互いを紹介しあって、早速、僕らがどのような親戚関係かを語り合いはじめました。ある1瞬をとってみれば、部屋の中に6通りの会話が同時進行していたことになります。2つは日本語で、2つは英語で、あと2つはチャンポンで。
しばらくすると、母が祖父の妻から渡されていた数枚の写真をとりだしました。驚いたことに、数分後にはあちらのほうから全く同じ写真が出されたのです。この瞬間、僕らのつながりの現実性が完全に具体的になったのです。もはや、観念的な言葉や名前や、年代だけでなく、具体的に触れて、見比べられる実体となったのです。僕は、僕が自分自身を越えてもっと大きな存在、歴史の産物というか、形成途中の歴史の一部となったような気がしたのです。ぼくはそのように感動的な体験をすることが出来たのを幸運に感じます。僕は四月のその日生まれたすばらしい絆を保つために、大分にまた行くつもりです。 多くの友人や家族が「何をみつけたんだって?」と聞いてきます。僕にとっては、これは難しい質問です。もちろん彼等が予期するような簡単な答えを出すことは出来ます。「遠い祖先の生まれた土地へ行ってきて、すてきなひとたちに会い、僕がどうやって生まれたかがもっとわかるようになったのさ」と。けれども、それは安易な答えです。それは始まりに過ぎないからです。今日になってもまだ、僕はあの日の出来事から学び続けているのです。一番大切なことは、僕が毎日語りかけることのできる、母、父、二人の妹という家族の大切さを悟ったということです。僕の遠い過去がまだぼんやりと未解明のままであるように、家族の他のメンバーにもおなじだけの謎とかたられるべきストーリーがあります。その日のおかげで、僕はもっと熱心に、もっと知りたいと思って聞くようになるでしょう。その日があってこそ、僕は僕らの絆の美しさをもっとはっきり理解することができるでしょう。
いかがでしたか?私は、ベン君の体験のすばらしさもさることながら、そこから家族の大切さや、自分自身の存在の重みを感じ取るベン君の感受性に感動します。このような若者が、世界のあちこちで日本人の血を大切に思ってくれれば、民族の誇りを保ってくれれば、うれしいと思うものです。 |
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