#61
平成17年4月


おかげさまで
このページも
6年目にはいりました。


このページは、色々な方にご協力いただいて、
唐津のおみやげ話をお伝えするページです。
バックナンバーもご覧頂ければ幸いです。


#1 御挨拶

洋々閣の古い琵琶に
源平の椿をかざって。


ただ春の夜の夢のごとし

―壇ノ浦の松浦党―


祇園精舎の鐘のこゑ
諸行無常のひびきあり
沙羅双樹の花の色
盛者必衰のことわりをあらはす
おごれる者も久しからず
ただ春の夜の夢のごとし
たけき者もつひには滅びぬ
ひとへに風のまへのちりにおなじ




 みなさま、こんにちは。この「女将ご挨拶」のページがもう61回目となりまして、6年目にはいります。粗末なページですが、このおかげでたくさんの出会い、めぐり合いがございまして、ホント、もう、インターネットってすごいなあ、と実感できるページなのです。”検索”という便利なものに引っかかるらしく、何年も前に書いたものに、質問や、ご注意や、感想が寄せられます。詳しい情報も届きます。ありがたいことでございます。先月末には、前に書いた悲劇の公子・小笠原胖之助の実兄の玄孫にあたるかたから「胸を締め付けられる思い」で読んだとメールが参りました。思いがけず胖之助を悼んでくださるかたが見つかって、私もうれしかったです。
 そんな風で、6年目も、ネジリハチマキ、たすき掛け、こめかみに梅干貼って、がんばりますたい!
  

 今回は、洋々閣でございました『琵琶上演会』によせまして、壇ノ浦での松浦党のことを考えます。

 2月21日と22日の二日間、池田智鏡さま(福岡県、普光寺の住職様)による、筑前琵琶の上演会は、予定オーバーの117名の参加で、”春の夜の夢”のような宵でございました。主催者は「唐津はこのまんまde委員会!?」という若いかたがた。演目は『壇ノ浦』、『敦盛』、『舞扇鶴ヶ岡』。暗くしたへやに琵琶の音が響いて、建礼門院の入水など、女性の声での語りはまことに切ないものでございました。

 私は若いころは、義経が好きでしたから、源氏びいきでしたが、年とともに平家の悲運にこころを寄せるようになりました。その中で気にかかるのが、わが「松浦党」の動きです。松浦党は最初は三百余艘を引き連れて平家方で戦いますが、壇ノ浦の戦いの途中から源氏に寝返るのです。四国の阿波水軍がまず寝返り、残りの主力とたのむ松浦党にも叛かれて、平家は最期を覚悟しました。なんだか、つらい結末です。松浦党の子孫としては・・・。どうしてなのか、何がそうさせたのか・・・・。そこで、吉川英治の『新・平家物語』の壇ノ浦のあたりを拾い読みしてみました。

 
(抜粋引用)
 白旗を立てた一そうの軽艇が、そのとき巨船の横へ漕ぎ寄っていた。艇の武者は、上を仰いで、
『渡辺党の渡辺眤(むつる)にて候う。乱軍のさいなれど、火急の儀にて、じきじき、判官どのへお目通り仕りたき大事あり。御床几へお取り次ぎ給わりたい』
 と、波間から怒鳴っていた。
 ゆるしが出、短い縄梯子が降ろされる。すぐそれにすがって、眤とほかふたりの武者が登って来た。
 矢叫びの下である。船上は戦いのとどろきに間断がない。義経は床几にかれらを待ち、見るとすぐ、忙しげに、われからいった。
『眤か。連れたる二名は何者ぞ』
『はっ』と、眤はうしろの者を眼で招いて―『これは、敵方の松浦太郎高俊の一族、呼子兵部清友(よぶこのひょうぶきよとも)と、平戸の峰五郎披(みねごろうひらく)にござりまする』 
『うむ、松浦党の人びととな』
壇ノ浦合戦図屏風
 義経は、意外ともせぬ容子であった。
『ここへ伴うて来たは、いかなるわけか』
『されば、先つごろ、密かに相手へ通ぜよと、特にそれがしへ仰せつけありし内応の儀、さすが、同族中の異議も紛々にござりましたが、今は早や、お旨にそい、誓約におこたえ申し上ぐるに如かじと、一党の談議も極まり、両名を使者として、これへお応えによこしたものにござりまする』
『では、松浦党の大将太郎高俊には、一族をあげて、義経の誘いに応ぜんと、申さるるか』
『高俊どの自身、拝参申したきところなれど、なお乱軍の中、かつは筑紫諸党も、そのため、揺れ騒いでおりますれば、戦さ終わって後、親しゅう拝姿のうえ、万感、そのおりにとの、御伝言にござりました』
『よくぞ』
 と、義経はまず、眤の労をねぎらい、ふたりの使者にも、床几をすすめた。降参人でなく、対等の味方として、遇したのであろう。
 もともと、松浦党と渡辺党とは、その発祥において、同根の枝葉であった。摂津ノ渡辺からわかれて、筑紫の松浦や平戸に栄えた一武族が松浦党なのである。それも遠い年月を経たことでもないから、はしなくもきょう源平両陣に割かれたとはいえ、なお同族の誼みは濃いものがある。傷ましい同根の血戦を見るには耐えぬ思いがどっちにもあったのは否みがたい。
 義経は疾くから、渡辺ノ津以来の渡辺眤をして、松浦党を誘っていたもののようである――が、水軍の行動には複雑なものがあり、一党中の異議もあってか、この真際まで、答えがなかったものだった。
 が、それも急に呼応となった。
 さきには、彦島から原田種直が国へ去り、今また、松浦党が降った。筑紫諸党の全面的な崩れも、もう時をまつまでもない。(以下略)


 もちろん、これは小説であって、史実でないことは承知してます。でも、吉川英治のペンの力で、まるでほんとうみたい・・・。えーっと驚くのは、峰五郎披と呼子兵部清友の名前です。まず、平戸の峰五郎披は、私ども大河内家の祖・源(津吉)重平(現・伊万里市の大川内町に城を持っていた松浦党の一族)の義兄であり、その所領は峰披から重平に譲られているのです。つまり峰披がその領地(平戸、伊万里)を鎌倉幕府から安堵されていたのは、壇ノ浦で源氏についたからなのです。おまけに私の実家の名護屋の山口家は、家系図によると、峰披の子孫に当たります。家系図を全面的に信じるわけではないのですが、父や、父の従弟たちは、そう言い張っていました。また、呼子氏の土地、現・唐津市呼子町は、主人の父方、永井家の在所です。ますます複雑な気がしてきました。うちの祖先が裏切りの関係者だとは・・・。安徳帝さま、建礼門院さま、ごめんなさい。建礼門院が入水あそばしたときに、波間にゆらめく黒髪を熊手でひっかけて引き上げたのは、渡辺眤だったと、『平家物語』は語ります。あな、おいたわしや。

(女院はこのありさまをみまゐらせたまひて、いまはかうとやおぼしめされけん、おんすずり、おんやきいし、さうのおんふところにいれて、うみにいらせたまふを、わたなべのげんごむまのじようむつる、小舟をつとこぎよせて、おんぐしをくまでにかけてひきあげたてまつる。)
 
 壇ノ浦での松浦党の動きを、もう少しちゃんと知りたいと思って、”助け舟”を、郷土史家の善達司和尚様に求めました。
 お読みください。



壇ノ浦の戦いと松浦党の動向    善 達司

 寿永四年(1185)三月二十四日、日本古代史の総決算ともいえる壇ノ浦の合戦がおこった。西海の果てで行われたこの海戦により、永い間の源平の闘争は、源氏の全面的勝利の下にピリオドが打たれたのである。人臣にして最初の太政大臣を生み、「平氏にあらずんば人にあらず」という程の栄華をきわめた平氏一門の末路は、またそれなりに悲哀の極みであり、『平家物語』などの最高の戦記文学の素材ともなった。しかしこの海戦は単に源平の争いの終結というだけでなく、日本の歴史を古代史から中世史へと大転換させた海戦というところにより重大な意義があるのであり、そしてこの大海戦に、わが松浦党が平家方の主力として参加したのである。

 さて、平氏の九州進出のきっかけとなったのは、平清盛の祖父正盛が鳥羽院領藤津荘(佐賀県鹿島地方)の荘司平直澄の反乱の討伐のため、九州に来た時からで、以後その子忠盛の瀬戸内海の海賊の追討、さらに清盛、その弟頼盛が大宰大弐として、日宋貿易を独占し、大宰府の実権を握った。また忠盛が神埼荘を鳥羽院より預かっていた時、有名な宋商周新事件がおきている。余談であるが、この事件から弥生時代に吉野ヶ里遺跡の辺まで、大きな船が入って来る事が出来た事は当然と思われるが、ともあれ平氏は日宋貿易を独占して莫大な富を蓄積し、松浦党も平氏に便乗して大陸貿易に従事し、平氏と深い関係をもった。更に松浦党一族、すなわち石志氏、波多氏、佐志氏、神田(こうだ)氏などが住んでいた松浦荘そのものが、平氏に関係した荘園であったのである。このような事情の下に、いざという時は松浦党は平氏にとって頼みの綱であった。
 
 ところが、頼朝の挙兵以来、松浦党はじめ、九州の平氏に従っていた武士達が平氏にそむき、大宰府を焼討するなど、その行動に一貫性がなくなってくる。平氏は「松浦党、お前もか」と思った事であろう。

 『平家物語』に、

 「鎮西の飛脚到来、宇佐大宮司申しけるは、九州の者共、緒方三郎はじめ松浦党に至るまで一向平氏にそむいて源氏に同心の由、申しければ、東国、北国の背むくだにあるに、こわいかにと手を打ってあざみあえり」

とあり、また『源平盛衰記』には「緒方に追われ、松浦党にせまられ、九州にも身のおきどころなきか」と松浦党の変心をなげいている。しかし最後は平時忠の説得で、松浦党をはじめ、山鹿秀遠、原田種直、緒方惟義、坂井種遠など、筑前、豊前、豊後の有力な武士達も平氏に味方し、壇ノ浦の戦いではその主力となって奮戦したのである。

 さて、壇ノ浦の戦いについて『平家物語』に、

 「さる程に平家は千余艘を三手につくる。まず、山鹿秀遠五百余艘で先陣に漕ぎ向う。松浦党三百余艘で二
前田青邨 「知盛幻生」
陣につく。平家の公達二百余艘で三陣に漕ぎ向い給う」

とあり、『吾妻鏡』にも赤間関壇ノ浦海上で山鹿秀遠、松浦党などが平家の主力となって、源氏に戦いを挑んだと記している。源氏の兵船は大小三千余艘といわれ、その中には熊野水軍、伊予水軍があり、平家方には松浦水軍、宗像水軍、阿波水軍があり、当時日本を代表する東西水軍の対決の観があった。
 しかし、阿波水軍の裏切り、平家方の情報の洩れ、総大将宗盛の作戦上の失敗などにより、平氏一族郎党は文字通り西海の藻くずとなってしまった。さすがの松浦党も海戦途中で戦線離脱し、唐津へ引揚げてしまったのである。そして次にくるのは、敵方平氏に味方した九州の武士達への徹底的な処罰であることは歴史の原則であった。

 さて、前述の原田種直、山鹿秀遠、緒方惟義、坂井種遠などの一族への処罰はきびしく、殆ど領地を没収され、代りに頼朝の御家人の武藤資朝(少弐氏)、中原親能(大友氏)などの関東下り衆が下向し、九州の武士の支配層は総入替となったのである。では、松浦党に対する処罰はどうであったろうか。『平家物語』・『吾妻鏡』に出るように、松浦党は平家方の主力となり、その水軍三百余艘が源氏に反抗したのであり、さぞきびしい処罰が行われたと思われるが、実は何の処罰もなかったのである。ここに松浦党武士団の特殊性があった。
 他の武士団は、例えば山鹿秀遠のように、そのボスの個人名が出てくるが、松浦党については、何等個人名は記されていない。これは松浦党を支配する強力なボス的人物は存在せず、ただ唐津、松浦地方の小武士団、すなわち佐志氏、石志氏、波多氏、神田氏、また下松浦地方の御厨氏、平戸松浦氏、山代氏など、ドングリの背くらべのような各家が、利の趣く所、時に同一行動を取って活躍したので、中央ではそれらを一括して松浦党と呼んだのであり、処罰するにもその代表的人物がいなかったのである。結局、頼朝は松浦党各家を処罰するよりは、彼等を源氏の御家人に組込み、源氏の九州支配の一環として利用した方がより効果的と思ったのではなかろうか。

 さて、「伊万里文書」に次の資料がある。

 「其後何事候哉
 抑 肥前国松浦党 清、披、囲、知、
             重平
 如本可令安堵之由、蒙仰賜仮所
 令下向候也 且宮庁御使令下向 東関
 遂問注候畢、其間事定令申
 候
         恐惶謹言
  正治元年 十一月二日 
              遠江守
    大蔵次郎殿

 これは北条時政(遠江守)から、大宰府の披官・大蔵次郎への文書で、松浦党の清、披、囲、知、重平が集団で本領安堵を幕府へ訴えたのに対し、今まで通り本領を安堵することを鎮西奉行所に知らせたものである。清は直(久の長子)の長男で御厨祖、披は四男で平戸松浦祖、囲は五男で山代氏祖、知は不明、重平は披の小舅の津吉重平であるが、彼等の集団行動には、そのしたたかさに、さすがの頼朝も驚いた事であろう。
 最後に本領安堵の場合、地頭補任の形式をとるが、石志氏、波多氏、佐志氏、神田氏などに対する地頭補任状は現存しないが、彼等も松浦荘内の地頭に任命され、頼朝の御家人となった事は明白である。以後、泣く子と地頭には勝てぬという諺の通り、彼等は松浦荘を侵略し、さらに松浦水軍として玄界灘を舞台に大陸貿易に活躍し、やがて倭寇化しつつ元寇を迎えたのである。



 源平の盛衰と松浦党の去就については、『肥前町史』にもくわしい記述があります。『平家物語』、『源平盛衰記』、『吾妻鏡』、『松浦拾風土記』などを参照してまとめてあるのを見ますと、もともとは嵯峨源氏である松浦の人びとは、清盛の頃は平氏の下にありましたが、清盛の死後、いったん源氏の呼びかけに応じたものの、押さえ込まれてまた平氏に戻り、源頼朝が兵を挙げてからも、一の谷、屋島、壇ノ浦と、平家方の中心的戦力として義経に応戦し、最後の段階で平氏を見限るようですね。義を重んずる武士道は、いまだ萌芽の前であり、中世の武士団は生き残りを賭けて、裏切り、寝返り、親族間の争い、権謀術策が、日常茶飯事だったようです。時には一族を半分に分けて両方につき、勝敗の見極めがついたら、一方がもう一方の手引きで勝ち馬に乗り換えるという段取り・・・。つい最近お泊りいただいた歴史小説作家の井沢元彦先生にお聞きしますと、そういうのは「裏切り」ではなく「離反」なんだそうです。歴史の激しい渦の中で、松浦党は、そのときそのときの潮を見ながら必死で漕ぎ渡ってきたのですね。壇ノ浦で戦った松浦党の大将がだれであったか、『平家物語』は語っていません。そこに、後世の人びとが想像力という小船を漕いで割り込むすきまがあるのでしょう。私も、春の夜の夢まぼろしか、琵琶の音に混じって、波騒ぐ壇ノ浦の鬨の声をきいたような気がします。

                      女将ご挨拶「松浦党関係目次」へ
                              
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洋々閣 女将
   大河内はるみ


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