#60
平成17年3月



このページは、色々な方にご協力いただいて、
唐津のおみやげ話をお伝えするページです。
バックナンバーもご覧頂ければ幸いです。


#1 御挨拶





名護屋城址の春
photo by Koji Hama


名護屋城の山かげの花
広沢の局





 花にも、日の当たる場所に華やかに咲く花と、山陰にひっそりと咲く花があります。上の写真は、修復なる前の名護屋城址の爛漫の春です。まだ石垣がゴロゴロと落ちていたころ、そう、十何年か前のものです。私は勝手にこの桜を淀君桜と名付けていました。もちろん、まだ樹齢がそれほどではありませんので、この木が名護屋城に滞在していた淀君に会ったはずはないのですが、なんとなく、淀君がここら当たりにたたずんでおられたような気がしないでもない・・・。この近くに確か、大手門の礎石があったと思うのですけど、「淀君石」ではそぐわないので、勝手に桜にしたわけです。

photo by K. Hama
 次に左の写真をご覧ください。名護屋城址の鯱鉾池の端に自生していた何かの木です。大変な大木に見えますでしょう? 実は、50センチもない、小さな木だったそうです。私は、この写真をいただいただけで、ついに実物に会えなかったので、何の木か特定できません。どなたか、この写真だけで、特徴がおわかりでしょうか。この木らしい木も、修復された堤の周りには、今探してもありません。きっと、引っこ抜かれてポイと捨てられたのでしょうね。私が盗んできて植えておけば、今頃はかなり成長していたかもしれません。可愛そうなこの木の思い出のために、「松の丸殿」と命名しましょう。
天下人・太閤様が名護屋城につれてきた女人は、淀君と松の丸殿だといわれています。松の丸殿は、淀君ほどの派手さはなくとも、数ある側室たちのうちでしっかり根をはったかたですから、案外この木が似合うかも・・。

 そして、もうひとり。当地の名護屋で調達!されたのか、または、政略的に差し出されたのか、秀吉のお側に上がった女性がいました。広沢の局と呼ばれたそのひとは、おそらくほとんど日のあたることもない山陰の花だったのではないでしょうか。秀吉のお側に一年ほど仕えたようですが、さてどれだけ寵愛をうけたのやら、受けなかったのやら・・・。山陰に生きた広子の方の生涯を思えば、しんとした気持ちになります。

 今回のこのページでは、名護屋城を私流に、好き勝手に、ご案内しましょう。間違いもたくさんあるでしょうから、歴史的に名護屋城に興味のある方は、確かめなおしてくださいませね。ご案内のガイドは、昭和8年に、まだ城跡が草ぼうぼうで「荒城の月」の歌みたいだったころ、名古屋宇太郎氏(郷土史家・故人)の書かれた『名護屋城跡遊覧の栞』からの抜粋です。





古い絵ハガキの鯱鉾池



現在の修復された鯱鉾池



名護屋城配置図



千隻隠し浦

名護屋城陣跡地図
(画像が重いので、ゆっくり待ってください)
  
  *緑字は地名、茶色字は人名

ああ豊太閤秀吉公
六十余州を右手(めて)に統(す)
左手(ゆんで)を遠くさしのべて
帝を亜細亜(あじあ)に称(とな)えんと
(たちま)ち起こす大嵐
敵に勝男(かつお)の山の名や
玄界灘の横浪を
避けて渡るにいと易く
南を除く三面の
海をそのまま外濠(そとぼり)に
雲に聳(そび)えし岩根(いわがね)
切り整えて石畳
加藤肥州の縄張りに
九州諸侯の割普請(わりぶしん)




いでやこたびのいくさには
敵をあまさず打椿(うちつばき)
これぞ寺沢志摩が陣
そこの浜辺は船橋を
架けし跡とぞ云い伝う
名護屋の入江奥深く
千隻(せんそう)かくし浦とかや

真田源吾は海の上
船を浮かべて船橋を
警護したりと云うぞかし
海辺にならぶ宗対馬
同じく徳川別陣を
(はさ)みて加藤左馬之介
弁天崎を護りたり

大平山の高地にて
藤堂和泉の陣所なり
立花左近将監(しょうげん)
続いて青木紀伊守
森の右手にうつしなば
古田織部の軍営に
堀久太郎秀政
善友山の南には
鍋島直茂陣したり
右には大和中納言

西の海辺の防ぎには
松浦法印・波多三河
島津兵庫の薩摩陣
天竜雲を巻き起こす
鬼将軍とうたわれし
加藤主計(かずえ)の軍営は
弾正丸の木の間ごし
(うそぶ)く猛虎風を呼ぶ
福島左エ門正則
西の磯部に程近し



名護屋城図屏風にみる城下町の繁栄


去りにしものに商人(あきびと)
軒をつらねし街の跡
在郷町石屋町
続く浜辺に塩屋町
戻ってそこに板屋町
材木町平野町
南に寄りて女良(じょうら)
港に近き魚屋町
泥町過ぎて刀町
(あかね)屋町兵庫町

(*これらの町名のいくつかは唐津にも引き継がれた)



古い絵ハガキ
名護屋城址より加部島を望む
そのかみ明使・謝用梓(しゃようし)
瀟湘(しょうしょう)の景いかでかは
この山水に及ばんや
空しく詩人を吟策に
窮せしむると嘆じたる
仙境名護屋天然の
歴史の衣、詩の袴
げに美しき眺めかな


寺沢志摩守は、名護屋城の解体資材をもらいうけ、
自領となった唐津に築城。舞鶴城の別名あり。



島原の乱のときに
当時島原、天草は唐津藩領であったので、
残党が名護屋城に立てこもるのをおそれて、
石垣は斜めに切り崩された。




慶長七年(ななとせ)唐津なる
舞鶴城を築くため
さばかり太き建物も
残るかたなく移されて
きらびやかなりし玉楼(ぎょくろう)
昔の光影もなし

越えて寛永十四年
天草四郎時貞
殉教の旗あげしとき
その残党のこの城に
(よ)らんもはかり難しとて
城塞(とりで)の要所悉(ことごと)く
見る影もなく取り毀(こぼ)ち

花うつろいて人は去り
おく露しげき荒城や
ああ三百歳(みよとせ)の夢の跡



 名調子の案内をお楽しみいただけたでしょうか。それでは、名護屋城の中でも秀吉の居館や、能舞台、茶室などのあった山里丸へご案内いたしましょう。幸い、池波正太郎さんの文章を見つけました。

 
 肥前・名護屋
                         
池波正太郎
 
 肥前・名護屋城は、約380年程前に、太閤・豊臣秀吉が朝鮮征討軍のためにもうけた大根拠地である。
 同時にそれは、秀吉にとって、
「憔悴と苦悩の城」
であったといえよう。
 いまもわれわれは、佐賀県・東松浦郡・鎮西町*(註)の一角に、太閤秀吉の夢と苦悩の城郭を見ることができる。
 数年前。私がこの地をおとずれたときは、玄界灘は風にうねり、粉雪が吹きつけ、その烈風の冷たさの下に、くろぐろと横たわる名護屋城址台地をまわり歩くうち、カメラを持つ手ゆびは、ほとんど感覚をうしなってしまったことをおぼえている。
 当時・・・・・。
 秀吉も玄海灘から吹きつけてくる風の冷たさに、
「これは、とてもたまらぬ」
と、本丸台上の居館から、山かげの〔山里丸〕へうつり住むようになったほどだ。
       (後略)
 
 *註:佐賀県東松浦郡鎮西町は平成17年1月1日に唐津市鎮西町になりました。


 もともとこの名護屋城の築造された山は、当時の松浦党の領袖・波多三河守の臣、名護屋越前守経述という人の垣添城だったのですが、ここを太閤が明への出兵の拠点とすることになって、名護屋経述はいろいろ心配したのでしょう。妹の広子を太閤のお側に差し出しました。広子は広沢(ひろさわ)の局となり、山里丸にて能や茶会に明け暮れる太閤に仕えます。広沢の局が眼病を患い、七山村の滝の観音様(福聚院)に願をかけて治癒したことから、観音のご分霊を祀り、太閤が寺の建立を命じてこの山里丸に広沢寺(こうたくじ)が建てられました。

 広沢寺の紹介ですが、友人の川路芳也氏(読売新聞記者)が唐津駐在時に紙面に掲載されたものを転載しましょう。6年前のものです。
 
太閤の置きみやげ   川路芳也(読売新聞社)
広沢寺のソテツ(佐賀・鎮西町)

山里丸 広沢寺への石段

 コケむした石垣をくぐるようにして石段を上る。左に曲がり、右に折れると広沢寺の境内に着いた。ソテツは、緑に囲まれた本堂わきの庭にあった。

 背丈は予想していたより低いが、横に力強く枝を広げている。青々と茂った葉は初秋の日差しを照り返し、四百年という樹齢を感じさせない。赤いサルスベリの花が、一層引き立てている。

 広沢寺は佐賀県鎮西町名護屋、国の特別史跡・名護屋城跡にある。朝鮮侵略を企てた豊臣秀吉が、この城を前線基地にした。一五九一年(天正十九)に築城を始め、わずか五か月ほどで造り上げたという。総面積は十七万平方メートル。当時は大坂城に次ぐ規模だった。周辺には全国から集められた百二十余の大名が陣屋を構え、人口約十万人もの一大都市ができた。

 さて、そのソテツ。
 熊本城を築いた猛将・加藤清正の朝鮮出兵の土産で、本丸に近く、秀吉の居館があったこの地に植えられたという。

 昨年十月、居館跡のすぐ隣で草庵(そうあん)茶室の遺構が発掘され注目を集めた。風流人の秀吉は、兵の動きが慌ただしい前線基地の名護屋城でも、戦の指揮の合間に茶の湯や能の会を開いたのだろう。まだ小さかったソテツの成長に、“天下人”としての遠大な夢を重ねたことがあったかも知れない。

 地元の武将・名護屋經述(つねのぶ)の妹を側室「広沢局(ひろさわのつぼね)」にした秀吉は、眼病に苦しむ局のために治癒祈願をし、平癒を喜んだ。そして局の名をとって建立したのが広沢寺で、太閤ゆかりのソテツとして代々守り育てられて来た。
 (写真は、七山村滝の観音・広沢の局開眼400年記念像)


広沢寺の蘇鉄

 そのソテツを見下ろす一段高くなった所には、秀吉の「遺髪塚」もある。石のさくに囲まれた中央に五輪塔。一九三六年(昭和十一)、福島正則の菩提寺(ぼだいじ)・国泰寺(広島市)から遺髪の分霊と遺品の短刀を譲り受けて納めている。

 鈴田興道(こうどう)住職(71)*は「文献にあるわけではないが、加藤清正が土産物として贈ったと伝えられている。当時としては珍しい植物だったのでしょう。一株だけだったのが、子ができて枝となって広がり、土にふれて新たな根を出しているんです」と言う。幾重にも織りなす歴史そのものだった。
(*註 年齢は1998年の時点)



昭和初期の絵ハガキのソテツは背が高い

 広沢寺のソテツには、戦争など大異変があると枯れる、という伝説がある。鈴田住職は「国に災難があると枯れる、と伝えられて来た。太平洋戦争の時は、葉が枯れた。不思議なことです」と語る。

 唐津市の郷土史家富岡行昌さん(74)は「明治維新と第二次大戦では樹勢が弱ったといわれる。確かに、戦後は葉が黄色っぽくなったのを見た記憶がある。戦争で手入れが行き届かず、樹体が弱ったのでしょう」と推測した。そして、「昔の写真には高さ四、五メートルはあるようなソテツが二、三本写っている。枯れたのか、今はない」とも話した。
広沢寺のソテツ

 文禄・慶長の役(1592―1598年)で朝鮮半島に侵攻した加藤清正が持ち帰り、秀吉が城内にあった居館の庭に手植えしたと伝えられている。1924年(大正13)12月、国の天然記念物に指定された。史実かどうか疑問視する郷土史家もいるが、年月を経た大株であり、歴史的いわれから指定されたらしい。中心部から直径二十数センチの枝が四十数本出て横に広がっている。樹高は約3メートル、根回り約3メートル、枝張りは7メートル近い。




 葉のせん定も大切な仕事だが、最近は「葉が小さくて生け花にいい」と花屋さんが切りそろえてくれるようになった。ふだんの手入れは、鈴田住職の役目だ。「後世に残さなければ」と草を取り、根元の土を軽く耕して肥料を与えている。

 境内では時折、社会科の勉強に訪れた近くの小学生や高校生、歴史に関心があって来たという観光客の姿を見かける。

 鈴田住職は大きく育ったソテツに目をやるたびに、「四百年の歴史があればこそ」と思う。

 文 川路 芳也
 1998/9/7
読売新聞西部本社朝刊掲載(写真は別です)

 
 太閤の野望はついえ、名護屋から人が去りました。城は解体され、棄てられたこの地に広子はとどまり、落飾して広沢寺を守り、64才まで生きました。太閤の死、大坂城の落城、淀君や豊臣家の悲運などを、はるか鎮西の山かげの寺で、どんな思いで聞いたでしょうか。太閤遺愛のソテツにだけは、こころのうちを語ったでしょうか。
 いま、荒れ果てていた名護屋城址は石垣などを修復され、茶室や露地のあとも発掘されて、日韓の負の遺産を語る歴史公園として立派に整備されています。

 私が写真撮影に広沢寺を訪れたとき、高齢のご住職は縁側でずっと昼寝をしておられましたので、お声をかけずに帰りました。つわものどもの夢のあとの山かげに、うぐいすが鳴いていました。「法華経、法華経・・・」と。
 あれは、広子の方だったかもしれませんね。




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洋々閣 女将
   大河内はるみ


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