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花にも、日の当たる場所に華やかに咲く花と、山陰にひっそりと咲く花があります。上の写真は、修復なる前の名護屋城址の爛漫の春です。まだ石垣がゴロゴロと落ちていたころ、そう、十何年か前のものです。私は勝手にこの桜を淀君桜と名付けていました。もちろん、まだ樹齢がそれほどではありませんので、この木が名護屋城に滞在していた淀君に会ったはずはないのですが、なんとなく、淀君がここら当たりにたたずんでおられたような気がしないでもない・・・。この近くに確か、大手門の礎石があったと思うのですけど、「淀君石」ではそぐわないので、勝手に桜にしたわけです。
天下人・太閤様が名護屋城につれてきた女人は、淀君と松の丸殿だといわれています。松の丸殿は、淀君ほどの派手さはなくとも、数ある側室たちのうちでしっかり根をはったかたですから、案外この木が似合うかも・・。 そして、もうひとり。当地の名護屋で調達!されたのか、または、政略的に差し出されたのか、秀吉のお側に上がった女性がいました。広沢の局と呼ばれたそのひとは、おそらくほとんど日のあたることもない山陰の花だったのではないでしょうか。秀吉のお側に一年ほど仕えたようですが、さてどれだけ寵愛をうけたのやら、受けなかったのやら・・・。山陰に生きた広子の方の生涯を思えば、しんとした気持ちになります。 今回のこのページでは、名護屋城を私流に、好き勝手に、ご案内しましょう。間違いもたくさんあるでしょうから、歴史的に名護屋城に興味のある方は、確かめなおしてくださいませね。ご案内のガイドは、昭和8年に、まだ城跡が草ぼうぼうで「荒城の月」の歌みたいだったころ、名古屋宇太郎氏(郷土史家・故人)の書かれた『名護屋城跡遊覧の栞』からの抜粋です。
名調子の案内をお楽しみいただけたでしょうか。それでは、名護屋城の中でも秀吉の居館や、能舞台、茶室などのあった山里丸へご案内いたしましょう。幸い、池波正太郎さんの文章を見つけました。
もともとこの名護屋城の築造された山は、当時の松浦党の領袖・波多三河守の臣、名護屋越前守経述という人の垣添城だったのですが、ここを太閤が明への出兵の拠点とすることになって、名護屋経述はいろいろ心配したのでしょう。妹の広子を太閤のお側に差し出しました。広子は広沢(ひろさわ)の局となり、山里丸にて能や茶会に明け暮れる太閤に仕えます。広沢の局が眼病を患い、七山村の滝の観音様(福聚院)に願をかけて治癒したことから、観音のご分霊を祀り、太閤が寺の建立を命じてこの山里丸に広沢寺(こうたくじ)が建てられました。 広沢寺の紹介ですが、友人の川路芳也氏(読売新聞記者)が唐津駐在時に紙面に掲載されたものを転載しましょう。6年前のものです。 |
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太閤の野望はついえ、名護屋から人が去りました。城は解体され、棄てられたこの地に広子はとどまり、落飾して広沢寺を守り、64才まで生きました。太閤の死、大坂城の落城、淀君や豊臣家の悲運などを、はるか鎮西の山かげの寺で、どんな思いで聞いたでしょうか。太閤遺愛のソテツにだけは、こころのうちを語ったでしょうか。 いま、荒れ果てていた名護屋城址は石垣などを修復され、茶室や露地のあとも発掘されて、日韓の負の遺産を語る歴史公園として立派に整備されています。 私が写真撮影に広沢寺を訪れたとき、高齢のご住職は縁側でずっと昼寝をしておられましたので、お声をかけずに帰りました。つわものどもの夢のあとの山かげに、うぐいすが鳴いていました。「法華経、法華経・・・」と。 あれは、広子の方だったかもしれませんね。 |
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