#53
平成16年8月


このページは、色々な方にご協力いただいて、
唐津のおみやげ話をお伝えするページです。
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#1 御挨拶



アテネでがんばれ!


坂本直子選手


東京オリンピックはるか



 猛暑の候、ご無事でお過ごしでしょうか。
 2ヶ月の病院生活から、ようやく7月5日に退院してまいりました。まだ、骨折した脚に装具をつけて、よちよち歩きです。じっとしてられないたちなので、車椅子と併用で、あちこち行こうと計画を立てるのですが、私の乗った車椅子を押すのがどれほど重いか体験した人は、次から私の誘いにうかつに乗らなくなって、なんだかだと口実を設けて連れて行ってくれないのです。「乗車拒否」は、いけませんがねえ。

東唐津公民館前の応援幕
 仕方がないので、今月は、空想の中でアテネオリンピックに行くことにしました。スポーツ音痴ですので、むつかしい競技はわかりませんから、ひたすらマラソンの「坂本直子」を応援します。直子ちゃんのおばあちゃん、おじいちゃんは、洋々閣のすぐ近くに住んでおられるのです。唐津は、「直子」で盛り上がっておりますですよ。 フレーフレー、なおこ!

 それにしても、やっぱり行った事のないアテネについては書き様がありませんね。申し訳ありませんが、アテネを取り消して、「東京オリンピック」の過去にさかのぼらせていただきます。



 古い話になります。40年前のことですもの。1964年。わたくし、20歳でした。青春の1ページをお話しましょう。


 当時私は東京の四谷にある大学の英語学科2年生でした。入学の前年、すなわちオリンピックの2年以上前に、「コンパニオン」という、当時は初めて聞く名のかっこいい仕事の募集は済んでいて、長島選手の奥さんになられた方のような帰国子女、留学体験者などが選ばれて訓練は済んでおられたころです。選手村の中の「インターナショナルクラブ」という名の、ちょうどホテルのラウンジのような感じの小さなコーナーに、英語のできる人という50日ほどのアルバイト募集があって、私のクラスから2人行くことになりました。交代でつめていて、選手たちの質問に答えたりする簡単な仕事です。当時の大学生のアルバイトとしてはびっくりするような時給でしたよ。

 選手村は代々木ですから、学校からすぐ近く、授業となんとか両立できました。選手村のオープンはオリンピック期間に
選手村パス
かなり先立っていて、お金持ちの国は早めに選手団を送り込んできました。金網のフェンスで選手村はグルッと囲まれていて、ゲートが何ヶ所かあり、パスをもっている人しか入れません。村の中には無料の循環バスが双方向にゆっくりと走っていて、どこでも乗り降りができます。自転車や傘も十分にここかしこに用意されていて、どこから使ってどこに置いてもいいのです。

 村の中には、男子用の宿舎が何棟もあって、国によって、おそらくかなり神経を使って、割り当ててありました。村全体を大きな輪で囲ってある真ん中あたりにもう一つフェンスの輪があって、その中が女子宿舎です。小さな輪の入り口がインターナショナルクラブという建物になっていて、そこには男女共用の社交スペースで、選手たちが待ち合わせをしたりディスクジョッキーを聞いたりダンスをしたりするところがありました。女子宿舎は、そこを通り抜けないと行かれなくて、奥は男子禁制になっているわけです。いまどきは違うかもしれませんね。やはり40年前ですね。だれも文句は言わなかったようです。夜になると女子村を囲むフェンスの外側に男子選手がたむろしていました。

 私のいるコーナーは、そのラウンジの片隅で、隣は二つの大手乳業が一日交代で無料で牛乳を提供するコーナーでした。たくさんの選手が日に何回も、グビグビと飲んでいました。わたしも時々こっそりもらいました。

 
選手村の中庭での私
選手村の中には、「フジ」と「サクラ」という、どこの国の料理でも出す大きなレストランがあり、そのほかにもテナントとしてたくさんの料理店、喫茶店、アイスクリームスタンドがあり、郵便局、銀行、クリニック、クリーニング店、写真屋、薬屋、雑貨店、花屋などがあり、たいがいの用事は済みましたから、私のところに聞きにくる質問はだいたい決まっていました。SONYの店はどこか、SEIKOは、カメラ屋は、MIKIMOTOは、すし屋は、天ぷら屋は、銀座にはどうやっていくか。京都は、奈良は。ゲイシャガールはどこに行けば見られるか。フロ屋(銭湯のこと)は。 
 けっこう多かったのが、PACHINKOはどこでできるか、また着物はどこで買えるか、など。着物には困りました。彼らのいう”KIMONO”は、日本人のいう着物とちがって、プロレスラーのガウンみたいなもので、派手な色に富士山や桜や、成人式の振袖のような刺繍がしてある、ペラペラのナイロン製のものを言っているみたいで、知らずに銀座の高級呉服店を紹介してしまった私は、あとでしこたま文句を言われました。

 そんな中で仲良しになった二人の黒人青年のことをおはなしします。
 独立したばかりのコンゴから、たった二人の選手団で陸上競技に参加したのは、20代後半と思える漆黒のヨンベと褐色のウランダ。ヨンベはがっしりとした幅広。ウランダはノッポさん。二人とも仏領だった国柄で当然フランス語でしたが、私には英語で話してくれて、それも完璧でした。そのほかスペイン語なども話していたような気がします。聞けば国費留学生でパリで勉強中だとか。二人は毎日朝から晩までインターナショナルクラブにいて、ブラブラしてばかり。だれか入ってくるとすぐにそばに行って話しかけ、誰もいないときには私のそばに来て「チビ」と日本語で呼んでからかうのです。そのころの私は今とは別人で、ヤセッポチでした。私をボールにしてキャッチボールなどをして遊ぶ。これでもレディーのつもりなのに子供と遊ぶように抱き上げて放り投げ、一方が受け止める。そして無料の牛乳をたくさん飲んではまただれかれに話しかける。そんな日が何日も続きました。

 ある日、だいぶ遠慮がなくなっていた私は、思い切って聞いてみました。「二人ともちっとも練習に行かないでいいの?試合はいつ?遊んでばかりいたらだめじゃない」 
 二人はニャリとして言いました。「僕達二人とも予選落ちさ。もう閉会式までスタジアムには行かないよ」
「まあ、そうなの。せっかく初めての参加で派遣されたのに予選で落ちたらお国のひとたちもがっかりでしょうね。帰りつらくない?大丈夫?」
ウランダはヘンナ顔をしました。「なんで帰りつらいと思うの?」
「だってメダルが取れなかったら・・・・」
ヨンベは笑い出して「初めからメダルなんて考えてないさ。僕は短距離、ウランダは中距離だけど、速くはないからね」
「エーッ」と、私は驚きました。「二人ともコンゴで一番速い人じゃないの?」
「ちがうよ。僕の弟なんか国の村にいるけど、僕よりずっと速いさ」と、ウランダ。
私は不思議な気がして納得がいきません。
知的な顔のウランダが静かに教えてくれました。
「コンゴは独立したばかり。オリンピックに国内予選会をしたり、大選手団を派遣したりする余裕はまだないんだ。僕たち二人、パリに留学中で、語学や社交など心配ないものが派遣されたんだ。僕たちの使命は、競技に勝つことではなく、僕たちの国を世界中に紹介することなんだ」
ヨンベも大きな口をあけて笑いながらいいました。「だから毎日、チビと国際親善してるじゃないか」
私は胸がいっぱいになりました。「二人とも、最高の外交官よ。だって私、二人しか知らないのに、コンゴ大好きになったもの」

 オリンピックが終わって10日後くらいに選手村閉村式がありました。櫛の歯が欠けるように各国選手団が帰国したり、観光地に出ていくなかで、コンゴの二人は閉村式までとどまりました。少なくなった人数で最後のキャンプファイヤーがあり、私はヨンベの肩にかつがれて参加して、踊りが出たり歌が出たりの楽しい夜を遅くまで楽しみました。ファイヤーに照らされて、二人の真っ白な歯がキラキラ輝き、私は誰よりもこの二人は誇りに満ちて美しいと思いました。
 それから何の消息も聞かず、40年がたちました。きっと二人とも要人になっていると思いますが、何一つ知るすべもありません。

 もう一人、東京オリンピックで忘れられないひと。
東京でのヴェラ

ヴェラ・チャスラフスカ。当時のチェコスロバキアの体操選手で、早くから東京オリンピックの花と前評判の高かった人です。私もまたヴェラにあこがれて、彼女の到着を心待ちにしていました。
 ある日、私が当番でない日にヴェラは選手村に入りましたが、次の朝私の前を通って外出しました。「Good Morning, Miss Chaslavska」と、私は喜びいさんで挨拶しました。その瞬間、彼女はさっと顔をそむけて私を無視して急ぎ足で出て行きました。お供には3、4人のたくましい女性たちを引き連れて、その人たちはいっせいにジロリと私をにらみました。まるで冷水をあびせられたように私は感じました。ショックでした。報道ではヴェラは常に輝くような笑顔をカメラに向けていました。それなのに、この傲慢な態度はどうしたことかと、わたしは悲しかったのです。ほかのどの国の選手でも、こんな態度をとる人は見たことはありませんでした。

 ヴェラは毎日出入りして練習その他に行っていたようですが、彼女の態度も、お付きの人たちの態度も、いつもそうでした。私はだんだんヴェラが嫌いになりました。
 そんなある日、先輩通訳さんが私の職場に監督に来ました。私は先輩にヴェラのことを話しました。「いくら体操界の女王様でも、あんなにえらそうにしなくてもいいんじゃないかと思います。私、きらいです」と。先輩は黙って聞いていましたが、小さな声で教えてくれました。「あの人たちはね、ヴェラのお世話についているのではなく、ヴェラが亡命しないように、よその国の人と危険な会話をしないように見張っているのよ。政治的にはチャスラフスカは危険分子なの。民主化運動に加わっているから。チェコとしては、オリンピックに出したくないけど、世界がそれでは許さないから、厳重に警備をつけて出しているのだから、話しかけたりしたらヴェラが困るのよ」
 ガーンと打ちのめされたように私は感じていました。そうだったのか。余りにも無知だった私自身が恥ずかしい。きらいだなんて言って、ごめんなさい、ヴェラ。私は涙をおさえることができませんでした。

 そのオリンピックで、ヴェラ・チャスラフスカは重いプレッシャーを撥ね返して金メダルを3つ取りました。新聞やテレビは、美しい金髪と細やかな肢体、そして意思の強そうな瞳と誇り高い微笑を大写しにしていました。
 その後ヴェラがどういう道を歩んだか、ご存知のことと思います。
 
 4年後のメキシコオリンピックの直前には、チェコの美しい街プラハにソ連軍(ワルシャワ条約機構軍)の戦車が進攻し、プラハ市民がたくさんに犠牲になりました。ヴェラは危険を感じて山の中に身を隠し、一人で木の上で練習をしたのです。不十分な練習しかできなかった彼女はオリンピック寸前に出てきてメキシコに行きます。敵国ソ連の体操の新星、クチンスカヤとの対決で、ヴェラは圧勝しました。けれどもその後チェコスロバキアは冬の時代に入り、ヴェラも世界から見えなくなってしまいました。

 長い長い冷たい時代を20年間、名誉も職業も剥奪されたヴェラはじっと耐えました。そして新しいリーダー、ハヴェル大統領が、1989年の革命で民主化されたチェコの新生を宣言したときに、ヴェラ・チャスラフスカは傍らにあったのです。名誉は復旧され、政治的にも色々と活躍するようになります。テレビニュースでヴェラの晴れやかな笑顔を見た私は、やはり涙をこらえ切れませんでした。「おかえりなさい、ヴェラ。よく耐えましたね。無事でよかった。世界はあなたを待っていましたよ」 ヴェラ・チャスラフスカは、あいかわらず輝く目と髪の見事な中年女性になっていました。

 東京オリンピックは、私に世界を違う目で見ることを教えてくれました。メダルをどの国が取るかよりも大切なことは、オリンピックがいかに平和に貢献できるかということでしょう。この、戦争やテロの横行する世界の恐怖を、アテネの聖火は浄めてくれるのでしょうか。
  
         

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洋々閣 女将
   大河内はるみ


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