みなさま、こんにちは。風薫る季節を楽しくおすごしでしょうか。
このページもはた迷惑に長く、永くなりまして、もう50回でございます。毎回ごらんいただいていますお客様には、お礼に招待状でもお贈りしなければなりませんですね。・・・ でも、やっぱり、わたしケチですから、やめます。感謝状だけにします。
感謝状
どこのどなた様
いつも読んでくださって
ありがとうございます。
今後ともごひいきに。
洋々閣 女将
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今回は唐津市西寺町にございます名刹、近松寺(きんしょうじ)のことでございます。今年は近松寺寺苑にその名も高い秀吉ゆかりの牡丹が4月のはじめに咲いてしまい、5月号でご案内しようと思っていたものを、自然はひとの意のままにはならないものでございますね。 ですから、このページ上で陽春の近松寺をお楽しみください。
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まず近松寺の説明をいたしましょう。井手保著『唐津城 寺沢御代記』(昭和50年7月30日発行 唐津新聞社刊)から、引用します。
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瑞鳳山 近松寺 唐津西寺町
当寺は臨済宗南禅寺派に属す。往時上松浦郡禅宗七刹の随一と称され、後二条天皇の世乾元元年の創立という。開祖湖心禅師は正使として朝廷より命ぜられ、明国王に使し天文十年冬帰朝後筑前聖福禅寺に住した。岸岳城主波多三河守は師の高徳を慕い、満島山の地に近松の一宇を建立して、これが開祖とし、寺田若干を寄進したが、天正二年兵火により、焼滅した。
慶長元年寺沢広高は唐津城主となったが、異国防備のため長崎奉行を命ぜられ、当時外国語通事の適任者が少なく、たまたま湖心禅師の高弟で耳峰禅師なる道学兼備の高僧あるを聞き、外国通事
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近松寺本堂 法皇殿 |
にと乞うた。
禅師之に答えて「近松禅寺は吾が師湖心禅師再興の地なり。先に兵火に罹り久しく荒廃し小宇のみ存せり。若し興復の志あらば、その命に応ぜん」と。故に本寺を今の地に移し世々の菩提寺と称し、寺田百石並びに山林を松浦郡新木場の内を以って寄附せられ寺産にあてられた。
広高上洛のとき紫野大徳寺春屋国師の指導を受けて参禅した。そして特に「休甫居士」の号を受け禅法に帰得せられたが、本寺住持の隠居扶持二十石を新木場村の内を黒印によって寄進された。
嫡子堅高の代も従前どおり黒印で寄附していたが、正保四年十一月十八日逝去し、当寺も衰えた。当時第四代遠室禅師深く之を憂え、時の将軍家光に乞うて慶安二年八月十七日直ちに御朱印を賜り、松浦郡伊岐佐村の中百石を寄附された。さらに寺中竹木諸役を免除されようやく旧観に復することができた。
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曽呂利新左衛門の築いた築山 |
境内書院前の庭園は、曽呂利新左衛門の築いた築山といわれるものがある。寺の境内に堅高の自然石の墳墓があり、浄瑠璃界の祖近松翁の墳墓もあり、墓石の裏面に隠し銘として略伝が刻まれている。
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名護屋城から移された門 |
現存の建物中の法皇殿(本堂) 衆香殿(庫裏)の二屋は、慶長三年正月の建立といわれ大門は名護屋城内の門を豊臣秀吉より下賜され、同三年其の儘、当山に移した名門と伝えられている。
御宝物
名剣長刀 一振 相模守藤原政常作
駕児刀 一刀 左近将監源祐信作
右長刀は夜念仏と記録に記されており寺沢志摩守所持のものを当寺に寄進したものという。
足利権大納言将軍義昭公筆 二通
寺沢父子の書翰 数通
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寺沢志摩守は、新田を開墾し防風林として今に伝わる虹の松原を植林したり、善政をしいて「志摩さま」と慕われ
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秀吉の馬の水飲み盥 |
、その墓は今でも大事に地区の人々に守られていますが、二代で断絶してしまいます。寺沢家が豊臣大名であったので、徳川の世になると生きにくかったのでしょうか、二代堅高は自死を遂げ、無嗣改易となります。唐津藩はその後は大久保、松平、土井、水野、小笠原と五つの徳川譜代が続いて、明治を迎えることになります。
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織部灯篭 |
近松寺には秀吉の名護屋城から移された門や、秀吉の馬の水飲み用の巨大な石の盥などもあり、また、曽呂利の庭などからも秀吉の残影が感じられます。牡丹も秀吉ゆかりの切木(きりご)ボタンから株分けされたと聞いております。
また、3基の織部灯篭がありますが、いつかこのことをよく勉強してみたいと思っています。波多三河守といい、その後の寺沢志摩守といい、キリシタンとのかかわりはあったと思われ、後の世で聖人に列せられる二十六人が長崎で1596年に処刑された時に、供養のために古田織部が考案したといわれる「織部灯篭」が、唐津のほかの
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尼崎・広済寺の近松夫婦墓
(国史跡) |
どの寺でもなく、近松寺にあるのは、深い意味があるのではないかと、勝手に思ったりしています。どなたかご教示くださるとありがたいのですが。
さて今日の本題の近松門左衛門ですが、いろいろな説があります。
杉森信義は越前福井の松平忠昌・その子吉品に仕え、その次男として承応2年(1653)に生まれた信盛が後の門左衛門だという説が最近は定説になっています。
近松門左衛門が歿したのは享保9年(1724)ですが、墓は尼崎市久々知の広済寺と大阪谷町の法妙寺の二箇所にまったく同じ作りの夫婦墓があるそうです。法妙寺の墓の碑文に蜀山人・太田南畝が「翁幼にして唐津近松寺に学び・・・」と書いているそうで、その由来は享和元年(1801)に二世並木正三が書いた『戯財録』のようです。滝沢馬琴は享和2年(1802)の『羈旅漫録』にその説を引いて、次のように書いています。
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〔九十〕 近松門左衛門が傳 附墨跡
近松門左衛門は 越前の産とも又三州の産ともいへり。今の並木正三が戯材録に云。肥前近松寺の僧の話に云。近松門左衛門は 元肥前唐津近松禪寺の小僧なり。小澗と號す。積學に依て住僧となり 義門と改む。徒弟あまたありしが 所詮一寺の主となりては 衆生化度の利益うすしと大悟し 遂
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大阪市立美術館蔵 近松像 |
に行脚に出ぬ。そのころの肉縁の舎弟 岡本一抱子といふ儒醫 京にありければこれに寄宿し 還俗して堂上家に奉公し 有職の事も大かた記憶せり。後浪人して京都浄瑠理芝居宇治加賀椽井上播磨椽岡本久彌角太夫杯の浄瑠理狂言を著述せしが そのうち竹本義太夫にたのまれ 出世景清といふ新戯文(ぜうるり)を書り。是レ近松が義太夫本戯作はじめなり。是よりして數十部の作あり。すべて近松が作は 勸善懲悪をむねとし 衆生化度の方便を戯文中にこめたり。是近松還俗の日發願のおもむきによるかといへり。義太夫が作者となりて近松氏を名乘ること 近松寺にありしいにしへをわすれざる微意にや。文中採要愚云。この説によれば かの三井寺門前近松寺破戒の僧のうちなりといふ説はたがへるにや。二代め義太夫が墓は千日寺にあり。則國字を以て略傳をしるせり。文中に元祖義太夫が傳も少しのせたり。〈末に出す〉元祖義太夫が墓はしる人もなし。予正三を訪ふて近松が墓所を問ふに正三もしらず。久々智の廣濟寺の過去帳に戒名あるよしをかたれり。よて正三が耳底簿をかりてこれをうつす。久々智は神崎の隣村なり。 久々智廣濟寺過去帳 阿耨院穆矣日一具足居士 享保九年甲辰十一月廿二日
阿耨院の法號は近松みづからつけおきし也そは辭世の詠草中に見ゆ
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これは、面白いですね。馬琴によれば、「近松」という筆名の由来としてよく言われている近江の近松寺(ごんしょうじ)説は、ちがう、というのですね。「ごんしょうじ寺」の破戒僧であったか、「きんしょう寺」の衆生を救いたいと発願した仏教者であったか・・・。「きんしょう寺」説はあまりに美化したものかも知れませんが、それだけ門左衛門が後の世の人々の憧憬の対象であったことなのでしょう。研究が進んで、もっと詳しくわかるといいと思います。
ともかく私は唐津っ子ですから、「きんしょう寺説」に固執したいのですが、さらに付け加えると、文化6年(1809)には石上宣統という人の『卯花国漫録』に、天保元年(1830)に喜多村信節の『嬉遊笑録』にと、同じ内容が述べられ、これらが森鴎外の唐津訪問の折に近松の墓を訪ねて「きんしょう寺」に参る、ということにつながっていくのではないでしょうか。
明治34年(1901)5月、陸軍の師団軍医部長として小倉連隊在任中の森鴎外は徴兵検査視察のために3日間の旅にでます。5月18日柳川泊。19、20日唐津泊。そのところを、『小倉日記』から引用します。茶色文字の( )内は、ちくま文庫版の小倉日記より註を引用して挿入しました。
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十九日。 午前八時柳河を発し、人力車を倩ひ肥前佐賀に抵る。途大川町なる若津を経て筑後川を渡る。佐賀より汽車に上りて牛津に至り、茶店にBす。午後又車を倩ひて薊原(あざみばる、土俗莇原に
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松浦川蜆取図
肥前国唐津領産物図考より |
作る)に至り、汽車に上りて東松浦郡なる唐津に着く。博多屋山口氏に投ず。此日天気晴朗昨の如く、あふちの花の紫なる、野薔薇の花の白きなど頗る喜ぶ可し。所々挿秧(そうおう。田植えのこと)する者あり。又唐津鉄道の車窓より、女子の柄ある笊を河中に沈めて蜆を捕るを見たり。
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近松寺の近松門左衛門墓 |
二十日。 終日公会堂に在りて事を視る。帰途唐津町字表坊主町なる近松寺(きんしょうじ)を訪ふ。臨済宗なり。土墻半ば頽れて、境内頗る荒廃す。現住寺沢大典を見て、巣林子(そうりんし。近松門左衛門の号)が墓の趺石(ふせき。墓の足のこと)の事を問ふ。大典の曰く。此物曾て一たひ人に奪ひ去らる。故に今蔵して菴室に在りと。乃ち就いて観る。趺は素と上に円石を安んじたる者にして、上面猶白圏を存ず。正方形にして、辺の長さ約三十四仙米、高さ約十九米(ママ)(1.9メートルのことか)。翻転して底面を見れば、方形(隅円し)に穿ち窪めたり。文を彫りて曰く。印海祖門上座者(年長、高才の僧のこと)長門深川(山陰の長門市の南)乃人也従当山第四世遠室禅師而授業得度学識共卓絶後遊京師変姓名称近松門左衛門以著作浄瑠璃為業享保九甲辰年十一月三十二日(二十二日のこと)卒於浪華以遺言帰葬於当寺墓地享保十己巳年(乙巳年で1725年のこと)六月廿二日当山六世現住鏡堂識之。文は諸書に載すと雖、其の或は誤脱あらんことを慮りて謄写す。
二十一日。 朝唐津を発し、薊原より車を倩ひて久保田(現唐津線の分岐地点)に至る。こは牛津附近の路悪しきを験し得たるが故なり。久保田に午餐す。夕に小倉の寓に還る。此日微雨。
(中略)
二十五日。 文器(小倉の東禅寺和尚)我に語りて曰く。曾て聞く。近松門左衛門の初め僧たるや、鉄眼(江戸時代の黄檗の僧。1630−82。肥後の人。隠元に師事し、鉄眼版の大蔵経開版で有名)と同参(参学を共にする)なりき。後京摂の間に相逢ひて、鉄眼の蔵経を刻するを聞き、別に事業のこれに頡頏(けっこう。匹敵すること)す可き者を求め、終に浄瑠璃を作りて名を成すに至ると。未だその信なりや否やを知らず云々。
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竹久夢二は大正7年に唐津を訪れていますが、宿で二階から浄瑠璃の三味線が聞こえたことを喜び、「近松も住んだこの土地では特に感じが深い」と書いています。それほどに、近松の唐津遊学説は広く知られていたのですね。 唐津の郷土史家、故・稲富政雄先生はこの近松寺の墓の由来は享保十年六月二十二日当寺の六世鏡堂によって誌されたもので、門左衛門死去のわずか七ヶ月後のことであるからきわめて信憑性が高い、と書いておられます。私も、そうだそうだ、と言いたいのはやまやま。近年は近松の唐津「きんしょう寺」遊学説は否定されることが多いそうですが、なんとか「きんしょう寺」説に有利な証拠がでてこないかしら、と念じているのです。日本のシェイクスピア近松門左衛門は、イギリスのシェイクスピア同様、謎に包まれた生涯なのですね。そういえば、近松の辞世文にはシェイクスピアの『マクベス』の中でマクベス自身が慨嘆する次のせりふに響きあうものがあるように感じるのは私だけでしょうか。
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悲劇『マクベス』より、妻の死の知らせを聞いたマクベスのせりふ
And all our yesterdays have lighted fools
The way to dusty death.
Out, out, brief candle!
Life's but a walking shadow; a poor player,
That struts and frets his hour upon the stage,
And then is heard no more: it is a tale
Told by an idiot, full of sound and fury,
Signifying nothing.
昨日という日はすべて愚かな人間が塵(ちり)と化す
死への道を照らしてきた。消えろ、消えろ、
つかの間の燈火(ともしび)! 人生は歩きまわる影法師、
あわれな役者だ、舞台の上でおおげさにみえをきっても
出場が終われば消えてしまう。白痴のしゃべる
物語だ、わめき立てる響きと怒りはすさまじいが、
意味はなに一つありはしない。
近松門左衛門辞世文
代々甲冑(かっちゅう)の家に生まれながら、武林を離れ、三槐九卿(さんかい きゅうけい)につかへ、
咫尺(しせき)し奉りて寸爵(すんしゃく)なく、市井に漂(ただよう)て商買しらず、隠に似て隠にあらず、
賢に似て賢ならず、ものしりに似て何もしらず、世のまがいもの、からの大和の教(おしえ)ある道々、妓能、雑芸、滑稽の類まで、しらぬ事なげに、口にまかせ、筆にはしらせ、一生を囀(さえづ)りちらし、今はの際にいふべく、おもふべき真の一大事は、一字半言もなき倒惑、 こころに心の恥をおほひて、七十あまりの光陰、おもへばおぼつかなき我世経畢(わがよへおわんぬ)
もし辞世はと問人あらば、 それぞ辞世 去ほどに扨もそののちに 残る桜が花しにほはば 享保九年中冬上旬 入寂名 阿耨院穆矣日一具足居士(あのくいん・ぼくい・にちいち・ぐそくこじ) 不俟終焉期 予自記(終焉の期を待たず、あらかじめ自ら記す) 春秋七十二歳印
のこれとは おもふもおろか うづみ火の けぬまあだなる くち木がきして
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ありがとうございました。来年四月半ば、牡丹の咲くころ近松寺を訪れてください。
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