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あとの祭りの雛まつり 求む、探偵さん。 わたしのお雛様の謎を解明して! |
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皆様、こんにちは。桜前線はお宅のほうへ到達しましたか? 春のこの時期は、体調にくれぐれもお気をつけてくださいませね。 私のホームページ作りも丸4年が過ぎ、その間、いくつかのパソコンのトラブルも乗り越え、なんとか幼稚園から一年生にすすめそうで、記念の5年目の第一号の今月版は、なにかかっこよく決めようかな、と思ったのでしたが、実は書きたいことがでてきました。
疑問その1: このお雛様は、誰のものか。いつ作られたのか。 誰のものか、なんて、そんなこと聞かれたって知らんよ、あんたのでしょ、とおっしゃらないで、私と一緒に悩んでください。
姉の記憶と、母の証言はくいちがいます。母いわく、「おねえちゃんのは、小さかったの。それでお前のは、実家のおばあちゃんが、一生ものだからと、100円もはりこんで買ってくれたの」と。けれども姉は、亡くなった父から、「これはお前のおひなさんで、伯母さんが買ってくれたのだよ」と聞いているというのです。伯母さんというのは、母の一番上の姉のことで、やはり釜山に住んでいて、戦前は羽振りが良かったらしいのです。伯母は5年ほど前に95歳でなくなりました。最後まで頭がはっきりしていましたので、ちゃんと聞いておけばよかったのですが。姉には、姉のお雛様だといい、私には私のお雛様だといい、両親は使い分けていたのでしょうか。 母は現在88歳、6年前に脳梗塞で倒れて、以来脳血管性の痴呆が進んでいますので、記憶が正しいわけはない、と思うのですが、一日のうち、夜中の2〜3時間に、びっくりするほどはっきりするときがあります。そんなときに昔のことを尋ねると、即座に詳しい説明が返ってきて、あとで確認すると正しい情報であることが多いのです。姉のか、私のかは、もしこのお雛様が作られた年代がわかれば、解決するかも知れません。写真を見て、同じ雛人形をお持ちのかたが奇跡的に出てきてくださらないか、と、思ったりするのですが・・・。 私が謎を感じるのは、どちらの雛だったにしても、いずれも戦時中だということです。昭和16年の12月8日に真珠湾攻撃でしたから、昭和17年3月当時、お雛様を売ったり買ったり、お節句をしたりするような雰囲気があったのでしょうか。姉のときならまだしも、私の初雛のお節句は昭和20年の3月になります。これなんか、もう日本は敗色濃く東京は大空襲を受けているころ、そのころ「外地」で、お雛様が買えたでしょうか。売っていたとしても、いつ引き揚げなくちゃいけないかわからないのに、買うでしょうか。どなたかその時代の釜山をご存知ありませんか。 疑問その2: このお雛様はどこで作られたのか。 このお雛様を買った場所は、母の説によると「みなかい」だというのです。「みなかい」ということばには聞き覚えがあります。父は私が子供の頃、言うことを聞かないと、「お前は”みなかい”で買うてきた子だから、”みなかい”に返すぞ」と、いつも言っておりました。子供心に(みなかいには、子供も売ってあったのだな)と、思い込んでおりました。大きくなって、いつ、どこで知ったか覚えていませんが、”みなかい”は、”三中井”という店で、外地にいくつか大きくデパートを展開していた、多分もとは呉服屋ではないか、と認識しています。釜山の「三中井」の建物は、戦後は商工会議所に使われたと、父から聞いたような気がしますが、正しいかどうか。このあたりのこともご存知のかたは
「三中井」で買ったのが正しいとして、本店は内地にあったのでしょうか。お雛様商戦の時には、どこからお雛様を仕入れていたのでしょうか。箱などはみな失われて、今は茶箱に収まっていますので、手がかりはありません。 私のお雛様は、たとえば仕丁が、京都風の「ほうき、ちりとり、熊手」を持つのでなく、東京風の「立傘、台傘、沓」をもっていますので、製作した会社も京風の人形を作成するところは除外できると思うのですが、そこらあたりにくわしいかたはいらっしゃいませんか。
疑問その3: このお雛様はどうやって内地に帰ってきたのだろうか。 父は、昭和20年まで釜山で教員をしていましたが、あと何ヶ月かで終戦というころ、赤紙が来て応召しています。40歳の老新兵です。韓半島のどこだかに入営したのですが、もう輸送船もなく、戦地には行かなかったそうで、無事に復員しました。
私の手元に昭和42年に作られた「釜山の日本人墓地 墓参団結成の趣意書」というB5版14ページにわたるリーフレットがあります。このたび母のタンスを引っ掻き回して見つけたものです。その中に終戦時の引き揚げの様子が伺われるところがあって、それによると、遺骨などは持って帰れなかったようなのですが、実家の墓地には確かに小さなお骨が納骨されていますし、兄のものだと生前の父から聞いておりますので、母はなんとかして持ち帰ったものでしょう。釜山で死んだ祖父のお骨はありません。それほど引き揚げもむつかしかったのに、かさばるお雛様をどうやって持ってきたのでしょうか。母に尋ねると、ふろしきに入れて自分で持ってきたといいましたが、それはやはり無理のはずです。 もしかしたら、引き揚げ後唐津で暮らし始めて、少し世の中が落ち着いてから、このお雛様は買われたのでしょう
その後このお雛様は姉が結婚するときに持って行きましたが、娘が生まれて新しいお雛様が来たときにお払い箱になって私のところに移りました。洋々閣の土蔵に収まったお雛様は、女の子っぽいことが苦手な私にはめんどうくさくて、毎年は出さず、ここ10年くらい思い出しもしませんでした。今年は世の中がお雛様流行りになって、どこにもここにも古いお雛様がお出ましになりましたので、私も出す気になりました。そして、ここに書いたような疑問に突き当たったのです。
戦争の中で、市井の一家族がどういう思いでお雛様を守ったか、知りたいと思うのです。これが私の「あとの祭りの雛まつり」です。来年の3月号までに、謎が解明されているとどんなにうれしいことでしょう。 では、ごめんください。よろしかったら、また来月。 情報はこちらまでお願いします。 |
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