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あけましておめでとうございます。 昨年はどういう一年をお過しになりましたか。ことしも物騒な世界の動きに負けずに、明るく楽しくがんばりましょう。 一年ほど前に、ある方からこのページに「新撰組に入った小笠原胖之助を取り上げよ」と、リクエストが参りました。浅学の私はびっくりたまげて、「そんなむつかしかとは、イヤよ」と申しましたが、その後、気にかかっておりましたところ、幸いにも故・山崎猛夫先生の書かれたものを見つけましたので、なんとかご要望にお答えいたします。 (山崎先生のご紹介は、こちらをごらんくださいませ。) 新年早々、えらく血なまぐさいなあ、という気がしないでもありませんが、反面、激動の時代の渦に翻弄されてしぶきと散った胖之助のことを読むと、今の恐ろしい世界情勢のことをもう少し深く考えてみたくなります。 では、ごゆっくりごらんくださいませ。 黒字の部分は山崎先生の文章で、紺色の文字が私、茶色はそのほかの出典からです。 なお、画像の多くは、新撰組のことを詳しく書いておられる下のバナーのページのご協力を得ました。感謝いたします。 |
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公子小笠原胖之助 勇奮義に起ち蝦夷地に散る 山崎猛夫 (「末盧國」 昭和48年2月28日刊より) 小笠原胖之助の生立ち 『唐津市東松浦郡先覚者名簿』等によれば、「彰義隊」とあり、彼の事歴、生涯について知る人は少ない。享年十七
胖之助(はんのすけ)は嘉永五年(1852)唐津小笠原二代藩主長泰の末子として江戸藩邸(外桜田上屋敷か、本郷弓町中屋敷かは不詳)で生まれた。母は側室で浜といい、容姿端麗にして温良至誠の人で、長く小笠原家に奉仕した立派な人物であったという。 文久元年(1861)十一月父長泰が江戸桜田の本邸で没した時胖之助は年ようやく十歳であった。翌二年胖之助は同藩邸内の別館に移り藩士と共に文武の道を励むこととなった。学問を藩儒山田忠蔵(佐藤一斎の高弟)に、剣術を四天流師範格稲村助左衛門に、槍を宝蔵院流師範長尾某父子に、また馬術を大坪流師範平岡助左衛門に学んだが、特に馬術は人に勝れて上達し、その奥義を極めた程であった。これら胖之助の修行については総て小笠原長行(ながみち)(老中)(註)の深い配慮によるものといわれている。
長行は特に胖之助を愛し、表裏常にその指導に目をそそいでいたが、慶応三年(1867)三月老中として上洛の際は共にこれを伴った。そしてつぶさに京阪の情況を見聞せしめ、帰路は従者二人を選抜して付けて、別路近畿、東海道を陸路ゆるゆる帰東せしむるなど、大いに知識と苦楽を体験させた。 その後胖之助は更に馬場先門外八重州河岸の林大学頭の門に入り、塾長葛西音弥について漢学を学んだ。葛西は長行の右腕といわれた大野右仲(唐津藩士)とは昌平黌(しょうへいこう)時代からの親友であり、胖之助の勉学には何かと便宜を与えてくれたが胖之助も公子の身を忘れ一介の書生として克く勉学に励み大いに学識を積んだ。時に年十六歳。胖之助の幼少時代は常に長行に負うところが多く、長行の深慮と慈愛は英邁なる胖之助の深く感ずる所となり、その言行に感服して教訓を奉じ、両者は実の親子のようであったという。 彰義隊に投ず
林家もまた家塾を閉鎖して巣鴨の別邸に移り、胖之助もこれと行動を共にした。この頃既に長行は老中を退き深川高橋の唐津藩下屋敷に居たが、間もなく唐津へ帰ると言って何れへか行方を晦ました。(実は奥羽越列藩同盟参画のため
幕臣渋沢成一郎、天野八郎ら六十余名は血盟して彰義隊を結成し、慶喜の護衛と称して上野の山に籠り、寛永寺を本拠とした。そして次第に悲憤の幕臣や脱藩の佐幕壮士を糾合してその力も侮りがたいものになっていった。慶応四年(1868)四月十一日将軍慶喜は水戸へ退いたが、その後は寛永寺座主輪王寺宮公現親王(後の北白川宮能久親王)を擁して主戦論を唱え、官軍ともしばしば衝突し、市中はなはだ不穏な空気がみなぎった。征東総督府はしばらく隠忍して事態を見守っていたが、隊士の反抗も目に余るものがあり遂に五月十五日を期して上野の山を包囲して断乎これを討伐することに決した。 胖之助も徳川の恩顧を受けた譜代の藩士として事態を黙し得ず密かに林家を脱して彰義隊に投じた。そして同志と共に上野の山に籠り寛永寺中三十六坊の一つ等覚院に起居した。やがて胖之助の後を追うようにして唐津藩邸から三人の藩士が駆けつけ、後増えて計九名となり胖之助を守護した。此等藩士の参加は、藩邸留守役と旧幕臣河野大五郎らによる秘密の画策の結果によるものと言われている。胖之助は等覚院に於て竹中丹後守(鳥羽伏見の戦の徳川歩兵隊長)らと同室し、春日左衛門、山中某らの知名の隊長とも交わり、軍事的にも啓発されるところが多かったが、胖之助をはじめ、唐津藩士は河野大五郎の率いる純忠隊に編入された。
慶応四年五月十五日、早朝から討伐軍は山を囲んで一世に攻撃を開始した。西郷隆盛らは自ら薩軍を率いて黒門口に迫り、彰義隊は天野八郎ら隊士を指揮してこれを邀撃した。当日は風雨激しく、戦いは熾烈を極め一進一退必死の攻防を繰り返したが、佐賀、熊本、福岡、岡山らの藩兵の来援があり彰義隊は敗れて退き、討伐軍はこれを追って山中に突入した。この時佐賀藩の用いたアームストロング砲二門の威力は実にすばらしく、忽ち敵集団を粉砕し、山中の堂閣を焼き尽くし、討伐軍を勝利へと導いた。討伐軍二千に対し、その半分にも満たぬ彰義隊は如何に戦意に燃えていたとはいえ、物の数ではなかった。兵器も劣り統制も不充分で、その日の夕方には黒門口、谷中共に破れて収拾つかず、全軍総崩れとなって敗退した。
胖之助らの勇戦奮闘も大勢の赴く所には抗しも得ず、疲労困憊の身を河野大五郎らと共に輪王寺宮の後を追って山後の北門より脱出し郊外に逃れて、しばらく三河島にかくれた。夜に入るのを待って唐津藩士のみ胖之助以下十名は潜行して道灌山附近と思われるところに出て、一農家を探して食を得、今後の行動を議した。この時一行中の年長者の栗原千之助は敏捷にして機知の富むをもって万事先達となって一同を庇護した。着衣、佩刀、銃器を農家に隠し、賦役人夫に変装して案内役をやとい、暗夜の畦畔を一列で歩き、明け方ようやく目指す巣鴨の林家へ辿り着いた。林家及び重臣柴田権之進は何の顧慮することもなく一同を邸内に入れて厚くもてなしその労をねぎらった。 榎本武揚らと品川湾脱出 彰義隊の蜂起鎮定後、江戸市中の各見付門は官軍に押さえられて警戒は厳しく、殊に彰義隊残党の潜伏探索は厳重を極めた。胖之助一行は暫く林家に身を隠して事態を見守ることにした。やがて胖之助等の林家にあることを知った唐津藩士は密かにこれと連絡をとり、外部の様子を知らせていたが、八月中旬に至り、榎本武揚等旧幕臣の再挙が明らかになった。先に江戸城明け渡しの時、幕府の兵器、軍艦等一切官軍へ引き渡されることになったが、
「長鯨」には奇しくも一見町医者風に変装された輪王寺宮も既に乗艦されていた。輪王寺宮には小笠原家医師西川元瑞が、身の藩邸外居住を幸いに宮の潜伏時より常に侍事してこれを護り「長鯨」乗艦まで庇護していたものという。明治元年八月二十日午前四時、榎本武揚は「開陽」を旗艦として「回天」「蟠竜」「千代田」「咸臨」「神速」「美嘉保」「長鯨」の八艦船を率い、元若年寄永井尚志及び彰義隊の残党を収容して密かに品川湾を脱出した。 やがて榎本艦隊は鹿島灘を北上したが、その夜暴風雨にあい、艦隊はバラバラに離散してしまったが、翌日「長鯨」は幸いにして平潟(茨城・福島県境)に着いた。そこで輪王事宮を初め一同は上陸したが胖之助一行は「長鯨」に積んでいた小銃弾薬をもって武装し、宮の護衛に当たった。そして岩城平・三春などを経てようやくにして目指す会津若松に着いた。この時榎本らの一行は八月二十六日仙台領東名浜に着いた。 会津若松の胖之助 会津若松に入った胖之助はここで輪王寺宮と別れ、松平侯の厚意により御楽園に移り住んだ。ここは藩主の別邸で林泉の美愛すべき仙境であったが、そこで又奇しくも前に別れた長行と再会した。思いもよらぬ処で再会を得た二人は感慨無量であった。実は長行は小笠原家の旧領、当時阿部家の所領となっていた棚倉に一時身を寄せていたが、
ここで先に長行に随行して来た者を合わせて唐津藩士は三十数名に上り、大いに意を強くした。先に若松に来た唐津藩士の中にはフランス式歩兵訓練を会得していた者もあり、請いにより会津藩士は勿論、奥羽越列藩同盟の脱藩士にもその洋式訓練を指導していた者もいた。 やがて長行は仙台へ行くと称して再び姿をけした。間もなく唐津藩士は会津藩の要請により一隊を編成し、水野忠右衛門を隊長として猪苗代口の木戸附近防衛の一部を担当することになった。この頃胖之助は江戸から来た大野右仲の奨めにより、同行して来た仏学者林昌十郎についてフランス語の勉強を始めた。風雲急を告げる会津若
やがて会津若松へも官軍は殺到し、鶴ケ城攻防戦の火蓋は切られた。白虎隊を始め老若男女挙藩結束による、文字通り必死の奮戦にも拘らず、会津軍は日に日に戦い利あらずして、越後口は敗れ又猪苗代口も突破されて、官軍はいよいよ城下に迫った。大野は胖之助の身を案じ、従臣と前線から撤退して来た唐津藩士五名を附けて密かに胖之助を御楽園から去らしめ、後また彼も後を追った。一行は一先づ塩川に出て、更に上の山を経て仙台領小海港折ケ浜に着いた。 壮烈、胖之助の最期 此処より荷物運搬船に便乗して北航し、北海道函館の北方駒ケ岳の北岸鷲の木に上陸して、それより森駅に着いた。(註) ここには先に榎本らと共に脱走して来た唐津藩の一団もあり、ようやくこれと合することができた。
星移り年かわって百余年。今、近松寺の小笠原記念館裏の一隅に小笠原家の墓地がある。その中の一基に、 小笠原胖之助墓 明治元年戊辰十月廿四日於蝦
とあり、明治十七年八月小笠原長久、同三十年八月曽禰達蔵による献燈がある。 又記念館西側、樹木の茂る空地には小型の蒲鉾型花崗岩の碑があるが、文字の判読困難な為か、戊辰の戦死者の碑と知る人は少ない。名僧本化日将によるものであり、裏面には胖之助と共に節に殉じた十名の氏名が刻んであり、読む者をしてうたた感慨流涕をもよおさしめるものである。
胖之助を我が子のように愛した小笠原長行は明治元年11月に榎本の「蝦夷共和国」に入城しましたが、12月にはそこを出て郊外の小庵に移り住み、翌二年5月新政府軍の猛攻にあい五稜郭が落城する直前の4月下旬に箱館を脱出、江戸・改め東京にもどり、湯島に潜伏。戊辰戦争の前から海外に居て明治5年に戻ったと称して政府に帰参届を出して、お咎めなし。このあと駒籠動坂に移り花卉盆栽を娯楽とし、児女の教育に心を用い、親戚故旧にも面会を謝絶して過ごされました。明治24年1月22日、肺炎で69歳でなくなりました。 歴史小説の大家、滝口康彦著の『流離の譜』(昭和59年 講談社)は、小笠原長行の波乱の人生を丁寧に辿ったものですが、次のように結ばれています。
長いページをお読みいただいて有難うございました。どうぞこの新しい年に、「戦死」などということばを聞かなくていいように祈ります。無事な一年でありますよう。 |
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