#46
平成16年1月


甲申賀正

このページは、色々な方にご協力いただいて、
唐津のおみやげ話をお伝えするページです。
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#1 御挨拶




胖之助の墓地の蔦紅葉
平成15年12月


小笠原胖之助 (三好胖)
おがさわら はんのすけ (みよし ゆたか
 彰義隊、会津、そして新撰組 北の地に果てた唐津藩の公子




 あけましておめでとうございます。
 昨年はどういう一年をお過しになりましたか。ことしも物騒な世界の動きに負けずに、明るく楽しくがんばりましょう。

 一年ほど前に、ある方からこのページに「新撰組に入った小笠原胖之助を取り上げよ」と、リクエストが参りました。浅学の私はびっくりたまげて、「そんなむつかしかとは、イヤよ」と申しましたが、その後、気にかかっておりましたところ、幸いにも故・山崎猛夫先生の書かれたものを見つけましたので、なんとかご要望にお答えいたします。
 (山崎先生のご紹介は、こちらをごらんくださいませ。)
 新年早々、えらく血なまぐさいなあ、という気がしないでもありませんが、反面、激動の時代の渦に翻弄されてしぶきと散った胖之助のことを読むと、今の恐ろしい世界情勢のことをもう少し深く考えてみたくなります。

 では、ごゆっくりごらんくださいませ。 黒字の部分は山崎先生の文章で、紺色の文字が私、茶色はそのほかの出典からです。

 なお、画像の多くは、新撰組のことを詳しく書いておられる下のバナーのページのご協力を得ました。感謝いたします。




公子小笠原胖之助

 勇奮義に起ち蝦夷地に散る
                         山崎猛夫 (「末盧國」 昭和48年2月28日刊より)

 小笠原胖之助の生立ち
 『唐津市東松浦郡先覚者名簿』等によれば、「彰義隊」とあり、彼の事歴、生涯について知る人は少ない。享年十七
唐津城(昭和41年復元
歳、維新の風雲に遭遇して義奮に燃えて起ち、転戦して遂に蕾の稚児桜と散った小笠原胖之助こそ、げに悲運の公子であり、懦夫をして起たしめるものを感ずる。

 胖之助(はんのすけ)は嘉永五年(1852)唐津小笠原二代藩主長泰の末子として江戸藩邸(外桜田上屋敷か、本郷弓町中屋敷かは不詳)で生まれた。母は側室で浜といい、容姿端麗にして温良至誠の人で、長く小笠原家に奉仕した立派な人物であったという。

 文久元年(1861)十一月父長泰が江戸桜田の本邸で没した時胖之助は年ようやく十歳であった。翌二年胖之助は同藩邸内の別館に移り藩士と共に文武の道を励むこととなった。学問を藩儒山田忠蔵(佐藤一斎の高弟)に、剣術を四天流師範格稲村助左衛門に、槍を宝蔵院流師範長尾某父子に、また馬術を大坪流師範平岡助左衛門に学んだが、特に馬術は人に勝れて上達し、その奥義を極めた程であった。これら胖之助の修行については総て小笠原長行(ながみち)(老中)(註の深い配慮によるものといわれている。


 註:小笠原長行
 文政5年(1822)5月11日、唐津城にて城主長昌(小笠原家の初代)の長子
として生まれた。幼名・行若(みちわか)。翌6年、父が病死したが、幼少であったため出羽庄内藩主の子が養子に入って藩封を継ぎ2代長泰となったので、長く部屋住みとなった。36歳で、5代藩主長国の養子となる。多芸多才で器量が勝れ、文久2年(1862)7月、土佐の山内容堂らの推挙で幕府の奏者番、8月、若年寄、9月に老中格となり外国御用係を命ぜられ、遂に老中となった。一藩の世子としては異例のことであった。生麦事件など、非常時の外交に活躍した。慶応元年第二次長州征伐の総指揮をとるが、失敗。いったん老中を辞めたが復帰。慶応4年、辞表を出し、小笠原家世子の地位も棄てた。3月3日江戸を脱出、会津へむかう。(写真は慶応3年・46歳の長行)


 長行は特に胖之助を愛し、表裏常にその指導に目をそそいでいたが、慶応三年(1867)三月老中として上洛の際は共にこれを伴った。そしてつぶさに京阪の情況を見聞せしめ、帰路は従者二人を選抜して付けて、別路近畿、東海道を陸路ゆるゆる帰東せしむるなど、大いに知識と苦楽を体験させた。

 その後胖之助は更に馬場先門外八重州河岸の林大学頭の門に入り、塾長葛西音弥について漢学を学んだ。葛西は長行の右腕といわれた大野右仲(唐津藩士)とは昌平黌(しょうへいこう)時代からの親友であり、胖之助の勉学には何かと便宜を与えてくれたが胖之助も公子の身を忘れ一介の書生として克く勉学に励み大いに学識を積んだ。時に年十六歳。胖之助の幼少時代は常に長行に負うところが多く、長行の深慮と慈愛は英邁なる胖之助の深く感ずる所となり、その言行に感服して教訓を奉じ、両者は実の親子のようであったという。

 彰義隊に投ず
徳川慶喜
 徳川幕府二百六十余年の治政も内憂外患こもごも至り、慶応三年(1867)十月将軍慶喜は遂に大政を奉還し、同年十二月九日王政復古の大詔が下された。しかし翌年一月鳥羽伏見の戦いが起こり、幕軍は大敗した。慶喜は大阪より軍艦で急ぎ江戸に帰還し、上野寛永寺に閉居して恭順の意を表した。これより先、東征軍(官軍)の東下して江戸に迫ると聞くや江戸市民は勿論、幕臣、諸藩邸まで戦火を恐れ門を堅く閉ざし陸続と郊外に避難し、江戸市中は騒然たる様になった。

 林家もまた家塾を閉鎖して巣鴨の別邸に移り、胖之助もこれと行動を共にした。この頃既に長行は老中を退き深川高橋の唐津藩下屋敷に居たが、間もなく唐津へ帰ると言って何れへか行方を晦ました。(実は奥羽越列藩同盟参画のため
能久親王像
の行動であった。) 江戸市中は今や戦勝に奢って続々と入って来た官軍で充満した。一方幕臣等は幕府の処置を潔しとせず、憤懣やる方なく無念の唇をかみしめていた。

 幕臣渋沢成一郎、天野八郎ら六十余名は血盟して彰義隊を結成し、慶喜の護衛と称して上野の山に籠り、寛永寺を本拠とした。そして次第に悲憤の幕臣や脱藩の佐幕壮士を糾合してその力も侮りがたいものになっていった。慶応四年(1868)四月十一日将軍慶喜は水戸へ退いたが、その後は寛永寺座主輪王寺宮公現親王(後の北白川宮能久親王)を擁して主戦論を唱え、官軍ともしばしば衝突し、市中はなはだ不穏な空気がみなぎった。征東総督府はしばらく隠忍して事態を見守っていたが、隊士の反抗も目に余るものがあり遂に五月十五日を期して上野の山を包囲して断乎これを討伐することに決した。

 胖之助も徳川の恩顧を受けた譜代の藩士として事態を黙し得ず密かに林家を脱して彰義隊に投じた。そして同志と共に上野の山に籠り寛永寺中三十六坊の一つ等覚院に起居した。やがて胖之助の後を追うようにして唐津藩邸から三人の藩士が駆けつけ、後増えて計九名となり胖之助を守護した。此等藩士の参加は、藩邸留守役と旧幕臣河野大五郎らによる秘密の画策の結果によるものと言われている。胖之助は等覚院に於て竹中丹後守(鳥羽伏見の戦の徳川歩兵隊長)らと同室し、春日左衛門、山中某らの知名の隊長とも交わり、軍事的にも啓発されるところが多かったが、胖之助をはじめ、唐津藩士は河野大五郎の率いる純忠隊に編入された。
佐賀藩のアームストロング砲

 慶応四年五月十五日、早朝から討伐軍は山を囲んで一世に攻撃を開始した。西郷隆盛らは自ら薩軍を率いて黒門口に迫り、彰義隊は天野八郎ら隊士を指揮してこれを邀撃した。当日は風雨激しく、戦いは熾烈を極め一進一退必死の攻防を繰り返したが、佐賀、熊本、福岡、岡山らの藩兵の来援があり彰義隊は敗れて退き、討伐軍はこれを追って山中に突入した。この時佐賀藩の用いたアームストロング砲二門の威力は実にすばらしく、忽ち敵集団を粉砕し、山中の堂閣を焼き尽くし、討伐軍を勝利へと導いた。討伐軍二千に対し、その半分にも満たぬ彰義隊は如何に戦意に燃えていたとはいえ、物の数ではなかった。兵器も劣り統制も不充分で、その日の夕方には黒門口、谷中共に破れて収拾つかず、全軍総崩れとなって敗退した。
大野右仲


 胖之助らの勇戦奮闘も大勢の赴く所には抗しも得ず、疲労困憊の身を河野大五郎らと共に輪王寺宮の後を追って山後の北門より脱出し郊外に逃れて、しばらく三河島にかくれた。夜に入るのを待って唐津藩士のみ胖之助以下十名は潜行して道灌山附近と思われるところに出て、一農家を探して食を得、今後の行動を議した。この時一行中の年長者の栗原千之助は敏捷にして機知の富むをもって万事先達となって一同を庇護した。着衣、佩刀、銃器を農家に隠し、賦役人夫に変装して案内役をやとい、暗夜の畦畔を一列で歩き、明け方ようやく目指す巣鴨の林家へ辿り着いた。林家及び重臣柴田権之進は何の顧慮することもなく一同を邸内に入れて厚くもてなしその労をねぎらった。

 榎本武揚らと品川湾脱出
 
彰義隊の蜂起鎮定後、江戸市中の各見付門は官軍に押さえられて警戒は厳しく、殊に彰義隊残党の潜伏探索は厳重を極めた。胖之助一行は暫く林家に身を隠して事態を見守ることにした。やがて胖之助等の林家にあることを知った唐津藩士は密かにこれと連絡をとり、外部の様子を知らせていたが、八月中旬に至り、榎本武揚等旧幕臣の再挙が明らかになった。先に江戸城明け渡しの時、幕府の兵器、軍艦等一切官軍へ引き渡されることになったが、
榎本武揚
幕府の海軍副総裁榎本武揚は突然艦船を率いて品川湾脱出を計った。驚いた陸軍総裁勝安房(海舟)の説得でようやく中止をしていたものであったが、昨今の事態を黙し得ず、奥羽討伐の官軍の背後を衝き、更に北海道への夢を実現しようと決心して、再び品川湾脱出を決行することにした。これを知った胖之助はこれに同行せんと決心し、かねて定めの日に白昼変装して個々に林家を出た。途中官軍に見咎められもせず夜に入って品川湾に着き、無事軍艦「長鯨」に乗艦するを得た。
 
 「長鯨」には奇しくも一見町医者風に変装された輪王寺宮も既に乗艦されていた。輪王寺宮には小笠原家医師西川元瑞が、身の藩邸外居住を幸いに宮の潜伏時より常に侍事してこれを護り「長鯨」乗艦まで庇護していたものという。明治元年八月二十日午前四時、榎本武揚は「開陽」を旗艦として「回天」「蟠竜」「千代田」「咸臨」「神速」「美嘉保」「長鯨」の八艦船を率い、元若年寄永井尚志及び彰義隊の残党を収容して密かに品川湾を脱出した。
 
 やがて榎本艦隊は鹿島灘を北上したが、その夜暴風雨にあい、艦隊はバラバラに離散してしまったが、翌日「長鯨」は幸いにして平潟(茨城・福島県境)に着いた。そこで輪王事宮を初め一同は上陸したが胖之助一行は「長鯨」に積んでいた小銃弾薬をもって武装し、宮の護衛に当たった。そして岩城平・三春などを経てようやくにして目指す会津若松に着いた。この時榎本らの一行は八月二十六日仙台領東名浜に着いた。

 会津若松の胖之助
 会津若松に入った胖之助はここで輪王寺宮と別れ、松平侯の厚意により御楽園に移り住んだ。ここは藩主の別邸で林泉の美愛すべき仙境であったが、そこで又奇しくも前に別れた長行と再会した。思いもよらぬ処で再会を得た二人は感慨無量であった。実は長行は小笠原家の旧領、当時阿部家の所領となっていた棚倉に一時身を寄せていたが、
会津城
水戸の脱藩士多数が入り込むとの情報に、身の危険を感じて若松に避難しここに仮寓していたものであった。
 ここで先に長行に随行して来た者を合わせて唐津藩士は三十数名に上り、大いに意を強くした。先に若松に来た唐津藩士の中にはフランス式歩兵訓練を会得していた者もあり、請いにより会津藩士は勿論、奥羽越列藩同盟の脱藩士にもその洋式訓練を指導していた者もいた。
 
 やがて長行は仙台へ行くと称して再び姿をけした。間もなく唐津藩士は会津藩の要請により一隊を編成し、水野忠右衛門を隊長として猪苗代口の木戸附近防衛の一部を担当することになった。この頃胖之助は江戸から来た大野右仲の奨めにより、同行して来た仏学者林昌十郎についてフランス語の勉強を始めた。風雲急を告げる会津若
 
鷲の木海岸
松において、明日をも知れぬ身に、なお彼は勉学を忘れなかったのである。
 
 やがて会津若松へも官軍は殺到し、鶴ケ城攻防戦の火蓋は切られた。白虎隊を始め老若男女挙藩結束による、文字通り必死の奮戦にも拘らず、会津軍は日に日に戦い利あらずして、越後口は敗れ又猪苗代口も突破されて、官軍はいよいよ城下に迫った。大野は胖之助の身を案じ、従臣と前線から撤退して来た唐津藩士五名を附けて密かに胖之助を御楽園から去らしめ、後また彼も後を追った。一行は一先づ塩川に出て、更に上の山を経て仙台領小海港折ケ浜に着いた。





 壮烈、胖之助の最期
 此処より荷物運搬船に便乗して北航し、北海道函館の北方駒ケ岳の北岸鷲の木に上陸して、それより森駅に着いた。(註) ここには先に榎本らと共に脱走して来た唐津藩の一団もあり、ようやくこれと合することができた。
註:山崎先生の文章には、胖之助らが新撰組に入ったことがでてきませんが、ここを少し他の資料から追加させていただきます。

会津の戦況不利となって、小笠原長行は仙台藩を中心に奥州連合を再結成するために9月16日仙台に向かうが、仙台藩の大勢は官軍に傾き、長行は身の危険を感じて榎本の幕府海軍に投じて北海道に走ることとなった。 会津戦生き残りの唐津藩士は、桑名藩に属したり、庄内藩に加わることにするが、9月20日には庄内行きを変更。
北海道に渡る為には、新撰組に入るほかなく、小笠原胖之助、重臣の大野右仲、印具馬作など23名が9月中旬に隊士になっている.その時全員、藩に迷惑がかからないように身分を隠し変名を使っているが、胖之助は「三好胖(ゆたか)」と名乗っていた。新撰組はすでに近藤勇は処刑され、土方歳三が率いていたが人数は激減していたので、入隊者を募っていた。10月20日 鷲の木海岸に上陸。その後、土方軍と大鳥圭介軍とに分かれて進軍し、胖之助らは大鳥軍に属した。
(写真は大鳥圭介)


五稜郭
 さきに明治元年四月九日官軍参謀山田顕義の率いる長州・福山・弘前等の六藩兵千五百は江差の北三里の音部村に上陸し、後から来た榎本軍と双方一進一退の戦いを続けていたが雌雄決せず対峙するうち、旧幕軍も隊の編成を新たにした。ここで大野と胖之助は別動隊となって行動した。やがて十月を迎え、作戦上七重村(函館北郊外)に向かった胖之助の隊は七重村滞在の五日間の中に二度の敵襲を受けた。そして二度目の二十四日の戦闘は特に激しく、果は旧幕軍の勝利に帰した。帰陣し兵員を調べる中、胖之助の姿のないのに気付いた。驚いた一同は八方手を尽くして捜索するうち、意外にも戦場より敵地に深く入った所に胖之助の壮烈な戦死体を発見した。戦死は胸を貫く銃弾によるものであったが、身体には七ヵ所の刀傷があり、見事な戦死であった。其の時佩刀は敵の奪うところとなり発見できなかったが、後に戻って来たものを見れば刀痕による刃こぼれが至る所にあり、その生々しい奮戦ぶりを如実に物語るものであり、居合わせた者一同その壮烈な戦死を讃えない者はなかった。享年十七歳。この前後胖之助
唐津市近松寺小笠原記念館
と共に戦死した唐津藩士は十名であった。
 星移り年かわって百余年。今、近松寺の小笠原記念館裏の一隅に小笠原家の墓地がある。その中の一基に、
   小笠原胖之助墓 
明治元年戊辰十月廿四日於蝦
胖之助の墓
夷地七重村戦死享年十七歳仏謐曰三好院殿儀山良忠大居士
 とあり、明治十七年八月小笠原長久、同三十年八月曽禰達蔵による献燈がある。

 

 又記念館西側、樹木の茂る空地には小型の蒲鉾型花崗岩の碑があるが、文字の判読困難な為か、戊辰の戦死者の碑と知る人は少ない。名僧本化日将によるものであり、裏面には胖之助と共に節に殉じた十名の氏名が刻んであり、読む者をしてうたた感慨流涕をもよおさしめるものである。



戦没士之碑 (篆書)
(読む方向→)
戊辰之役誤嚮背者苦節也不
可以勝敗之跡是非也抑我藩
受幕府之眷遇持厚其死苦節
蓋有衷情不可己者公子胖之
助君亦以壮士一隊而投幕府
之脱兵転戦于各処終戦歿函
館之七重村所従之壮士前後
十人相次死焉雖年少気鋭所
致其衷情可憐矣夫天下之事
不動則不変不変則不進然則
方今之文明蓋胚胎諸氏之鋭
気亦来可知也今茲大島興義
翁投貲建碑嘱予文乃舒梗概
繋以銘銘曰
  嗚呼十勇  苦節致躬
  王覇何択  維義維忠
  憎彼羊頭  售狗肉者
  憫彼三士  争ニ机也
           僧日将撰書


戦没士之碑は文字がほとんど読めなくなっています。実物は上に大きく「戦没士之碑」と右から左への横書きであとの文章は縦書きです。
裏面
水野忠右衛門
白水 良次郎
高須 大次郎
小久保 清吉
栗原 千之助
渡辺 七之助
吉倉 勉三郎
市川 熊 槌
田辺 鉄三郎
小林 孝次郎


 
 以上が山崎先生の書かれたものですが、小笠原長行公が韜晦中のすさびに書かれた『夢のかごと』に公が胖之助の死を知り七重村に立ち寄るところがあります。
 


・・・・七重といふ村を過るに、おのれがいろと(註)の、いぬるかんな月の末の四日の日、たゝかひにこゝにて討死したるを、寶林庵てふ寺に送りたると聞くものから、そがおきつきにまうでしに、懐舊の涙とゞめあへず、名殘のいとをしまれけれど、さてあるべき事ならねば、逶々としてたち去りつゝ、日くれはつる頃、五稜廓の城のほとりになんたどりつきぬる。

註:長行は胖之助のことを「自分の弟」と書いていますが、これは、5代藩主長国が男子を持たなかったために、初代藩主の子・長行のほうが年が二つ上であるにもかかわらず養子にして、世子として幕府に届け出て許可され、長行とは年のかなりちがう娘の満寿姫を正室として、その点からも親子となり、また、2代藩主長泰の遺児・胖之助をやはり養子として長行の弟にしていたからです。長行も胖之助もどちらも嫡母を長国の正室とするため、二人は30歳離れた同母の兄弟ということになります。
 

 このあたりを、長行公の侍臣・堀川慎(尾崎和一郎)が『簿暦』という日記に次のように記しています。


 去二十四日於七重村遊撃隊桑藩我兵(二十三士隊)合八十計り本道、間道に別れ進みしに、官軍三百計り道を取敷甚苦戦なりし由、三好公子には松川
(註)よりも兼て申上げ一番跡へ御据申上しに、激戰に相成しより御附申訳にも不相成、其内に御決心と相見え、トンビ、胴服、長沓等脱棄て御切込被遊、敵は慥に御打留の由、御疵胸下に一丸、御頭、御肩、御腰に刀瘡有之候由、且つ又小久保清吉、是は追討の節胸板被打即死の由・・・後略

註:松川は大野右仲の変名
 
 
 このあとに続いて、『簿暦』には胖之助と小久保清吉の法名のことや、寶林庵(ママ)の土地を二間四方買い取ったこと、改葬のことを証文を取って約束させ、村中に施しをしたこと、11月8日に長行を案内して胖之助の墓前にお参りに行き、「香料百疋」を納め、住持にも会ったこと、三七日にはまた団子汁などで法要をしたこと、などが述べてあります。流離の身の長行公としては、せいいっぱいの
小笠原長行 65歳
供養だったでしょう。
 
 胖之助を我が子のように愛した小笠原長行は明治元年11月に榎本の「蝦夷共和国」に入城しましたが、12月にはそこを出て郊外の小庵に移り住み、翌二年5月新政府軍の猛攻にあい五稜郭が落城する直前の4月下旬に箱館を脱出、江戸・改め東京にもどり、湯島に潜伏。戊辰戦争の前から海外に居て明治5年に戻ったと称して政府に帰参届を出して、お咎めなし。このあと駒籠動坂に移り花卉盆栽を娯楽とし、児女の教育に心を用い、親戚故旧にも面会を謝絶して過ごされました。明治24年1月22日、肺炎で69歳でなくなりました。

 歴史小説の大家、滝口康彦著の『流離の譜』(昭和59年 講談社)は、小笠原長行の波乱の人生を丁寧に辿ったものですが、次のように結ばれています。


 

 「このまま朽ちたもうは、世のためにも惜しゅうございます」
 という人々のすすめにも、長行は一切耳をかさず、夢棲の号そのまま、ふたたび歴史の表面に出ることもなく、ひっそりと余生を送った。


 
  胖之助の写真があれば、と思うのですが、今のところ見付けられません。新撰組の生き残りの中島登が「戦友姿絵」として描いた人々のうちに三好胖が入っていたのは僥倖でした。左の絵がそれです。胖之助を供養するものは、上記の唐津近松寺の墓のほかに、七重村(北海道亀田郡七飯村)の宝林院(現・宝琳院)に過去帳記載と、上陸地点である鷲ノ木の霊鷲院に慰霊碑、また函館に「碧血碑」があります。

 土方歳三は今にいたっても絶大な人気で、歳三ゆかりの所にはお供えの花や千羽鶴が絶えないそうです。
その鶴の一羽でも、胖之助のために供えてくださる若い女性があれば、どんなにうれしいでしょうと、私は胖之助の母、お浜の方に代わって願うものです。
   


 長いページをお読みいただいて有難うございました。どうぞこの新しい年に、「戦死」などということばを聞かなくていいように祈ります。無事な一年でありますよう。



今月もこのページにお越しくださって
ありがとうございました。
また来月もお待ちしています。


洋々閣 女将
   大河内はるみ


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