#45
平成15年12月


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唐津のおみやげ話をお伝えするページです。
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#1 御挨拶




曽根崎心中

この世のなごり、世もなごり
死ににゆく身をたとふれば
あだしが原の道の霜
一足づつに消えてゆく
夢の夢こそあはれなれ
あれ数ふればあかつきの
七つの時が六つ鳴いて
残る一つが今生の
鐘のひびきの聞きおさめ
寂滅為楽とひびくなり


語る

義太夫 竹本鳴子大夫



 日本の「文楽」、ユネスコの世界無形遺産に選定

 【パリ=池村俊郎】国連教育・科学・文化機関(ユネスコ)は7日、世界の貴重な無形文化遺産を後世に伝えるため、日本の「人形浄瑠璃文楽」など28件を「人類の口承及び無形遺産の傑作」と宣言した。ユネスコによる無形遺産の傑作選定は2001年に続き2回目で、前回は日本の「能楽」を含む19件が「傑作」に宣言されている。

 文楽は、人形による繊細な感情表現を高いレベルにまで完成した日本の誇る伝統芸能。ユネスコの国際選考委員会が各国から推薦された計56件を審査した上で決定した。

 各国が自国の無形文化や伝統芸能を推薦し、宣言を受ける制度は、日本の強い働きかけで実現した経緯がある。日本からは「歌舞伎」が次の候補に挙げられている。

 ユネスコでは有形の遺産を「世界遺産」に選定しており、「無形遺産の傑作」はその無形文化財版。ただ、少数民族を抱える国にとっては微妙な国内政治問題にはねかえる側面もあり、自国からの推薦に慎重な国も少なくない。

 ◆人形浄瑠璃文楽=三味線音楽の義太夫節に合わせて人形を操る音楽劇。18世紀に確立された。人形を3人で操ることで、微妙な感情を表現。義太夫節の語り手である太夫や、三味線演奏者と一体となって、舞台を構成する。(読売新聞 平成15年11月8日)




竹本鳴子大夫
 みな様、こんにちは。今年もはや、極月となりました。あっという間に時間が過ぎますね。
 11月8日に上のニュースが新聞に載りました。なんとうれしいこと。

 唐津在住の義太夫の竹本鳴子大夫のことを、以前にこのページの英語版のほうに書いたことがありました。チャンスがあれば、日本語版のほうに書き直したいと思っていましたので、「時節到来」です。


 では、友人の山崎安子さんこと、竹本鳴子大夫をご紹介します。鳴子大夫は九州ではただ一人の義太夫の大夫です。ちなみに文楽では夫と書かずに夫と書くそうです。




 安子 は昭和24年、長崎出身の松本熊市と相知町のマサとの間に5人の子供の4番目として生まれました。 
 父・熊市は27歳の時、貝島炭鉱の落盤事故で右腕を失い、一家は困窮します。就職先がなく、新聞の配達や集金で生計を立てました。一度も腕のことで弱音をはいたことはなく、「腕がなくても俺には人一倍強い足
母と安子(12歳頃)
がある」と言っていたそうです。大きな自転車を片腕でバランスをとりながらこいで新聞を配る父の背中で育った安子は、わずか6歳から自分も新聞やヤクルトの配達をして家計を助けました。学校ではいじめられっ子で、いつも叩かれて泣いていたとか。姉にいわせると、「安子はヤセ子」というほど細い身体に新聞をいっぱい抱えて朝と晩と配達していたそうです。「おまけにヤセ子のきたないこと、足などはタワシで洗わなきゃならんほど・・・」
唐津市議会事務局勤務のころ
。けれどもお人形さんのように顔だちの美しい子で、近くのホテルを接収していた進駐軍のアメリカ兵たちから一番たくさんガムやチョコレートをもらう子供は安子だったそうな・・・。

 高校を卒業後、唐津市役所に入りますが、そこで知り合った山崎尚と21歳で結婚します。新聞配達はそのころまで続けました。昭和46年に長女の純子が生まれました。

 安子が市役所勤務のまま遠縁の竹本鳴子大夫(二代)に義太夫の弟子入りを決心したのは、長女が生まれた後のことです。鳴子大夫は10年以上も前から安子を弟子にと望み続けていたのですが、周囲の反対もあり決心がつかなかったのでした。日本の伝統芸能を成人してから始めることがいかにむつかしいことか、想像にかたくありません。おまけに結婚し、子供を育てながら、しかも仕事を持っての稽古はどんなに大変だったろうと思います。

 同居の義父母は当然安子の芸事には反対でした。けれども厳格な姑のスマは、小言を言いながらも孫の純子とその後に生まれた英明の面倒を良く見てくれて、安子はなんとか歯をくいしばって仕事と芸を続けられたのです。校長だった舅の勇市は、教育者らしく、安子のがんばりは評価してくれたようです。夫の尚は、不機嫌になることも多々ありながらも、どうしても続ける気の安子を無理に押さえつけることはなかったのでした。 「芸の道を歩くことは、周囲
先代竹本鳴子大夫
の反対をおしきることになりますが、そうしてでもやって来れたのは、やっぱり好運でした」と、安子はふりかえります。
 
 昭和60年に竹本鳴子大夫は80歳で他界しました。安子はその4年後に襲名し、三代竹本鳴子となります。今では県内、長崎県、福岡県、熊本県と活動は広がり、福岡県黒木町にある明治から130年続く旭座では30年間、同じく黒木町の笠原小学校での指導は18年、福岡市西区の今津人形では25年、大分県中津の北原(きたばる)人形の後継者育成事業や、福岡県甘木市の鎌倉時代からの歌舞伎・甘木盆俄(あまぎぼんにわか)は23年前に復活したときから続けて指導にあたり、大分県国東半島の国見町の国見田舎歌舞伎や、長崎県東彼杵郡の千綿(ちわた)人形芝居の指導、熊本県は清和文楽邑に参加など、九州全般の伝統芸能の後継者の育成にあたっています。
 
 ここ数年は小学校の総合学習の時間に、日本の伝統文化の学習がとりあげられることも多く、毎日忙しく飛び回っていますが、指導をしている子供や大人の会がいろいろなところで公演をするように成長しているのが大きな喜びで、昨年はユネスコ主催の「東アジア子ども芸術祭イン福岡」に今津人

黒木町笠原小学校の公演
形が出演したり、近く唐津の市民文化祭にも参加します。
 
 「30年たって、やっと少し語れるようになりました。故・人間国宝・竹本越路大夫は90歳で、良い語り手になるためには、あと一生欲しい、といわれましたし、同じく人間国宝の竹本住大夫も、上手になるにはあと80年はかかると70を過ぎてから言っておられるように、芸の道には果てがないのです」。
 
 安子は平成14年3月に先代鳴子大夫の十七回忌追善公演を打ちました。大盛況で、立ち見が出るほどの成功を収めました。
 「昔は女義太夫とよばれていたけど、今は女流義太夫といいます。女の声では時代物よりやはり世話物があうので、私も『傾城阿波鳴門』(巡礼おつる)とか『壷坂霊験記』(お里沢市)とかを語ります。でも一番好きなのは『伽羅千代萩』でしょうか・・・」。はりのある声で大夫はひとしきり「外題」の話をしてくれました。

 鳴子大夫には夢があります。 たとえば、天狗師(阿波の天才人形師天狗屋久)作の人形が旭座にも残っていますが、「昔の名人が精魂かたむけて作った人形がお金がなくて修理できずにいる・・・人形は生き物なのだから、も一度日の目を見せてやりたい・・・。また、先代高橋竹山の津軽三味線を聞いて涙が流れたように、ジャンルを問わず楽器には魂がこもっている
娘の鶴澤友理江
のだから、自分の義太夫で聴衆が涙を流してくれることを励みに「こころを伝えたい」。そして、「指導している子供たちが、ふだんは勉強もせず、悪さばかりする子供でもお稽古は熱心で、自分に心を開いてくれて、ポロリと悩みを打ち明けてくれたりする、そんな子供たちに”乗り越える力”を培いたい・・・」。
 もうひとつの夢は、「近松門左衛門ゆかりの地の唐津で、『曽根崎心中』や『傾城冥土飛脚』などの近松の世話物の公演を実現したい・・・」。

 安子は今年54歳。夫は市役所を定年退職し、安子も数年前から義太夫ひとすじ。夫の父は既になく、姑は老人施設で安穏に暮らしています。実父は7年前に86歳で逝去、今年2月には母のマサが亡くなりました。「子供のころにはお母ちゃんが好きで、お母ちゃんのためには死んでもいいと思うほどだったのに、まけず嫌いの明るかった母が更年期ころから感情のコントロールが出来ない激しい人に変ってしまって、喧嘩ばっかりしました。でも今年、89歳のお誕生日を祝った翌朝、老衰でスーッと息を引き取って立派な往生。私は、かあちゃん、いい死にかた
鳴子大夫と人間国宝・鶴澤友路
が出来てよかったね、と呼びかけましたよ。死んでも耳は聞こえているはずですからね」。
 
 娘の純子は10年ほど前に淡路島在住の義太夫三味線の人間国宝・鶴澤友路の内弟子・友理江(ともりえ)となって三味線の道に進み、今は良縁に恵まれ浜玉町に暮らし、暖かい家族の理解を得て子育てをしながら三味線を続けています。年が明けたらNHK大ホールで文化庁選出による江戸開府400年記念の伝統芸能の特別番組に九州からは唯一、甘木盆俄の出演が決まっていて、母娘ともどもステージにたちます。自分の一生の内に二度とない大舞台だと、三代鳴子大夫は熱い意気込みです。いずれNHKで放送があるでしょう。どうぞ甘木盆俄をお見逃しなく。そのときは歌舞伎ですから、竹本鳴子夫と表記されるそうです。


 


 11月半ばの小春日よりの午後、私は鳴子大夫にインタビューをしたのですが、小柄なお体のどこからあれだけの
近松門左衛門ゆかりの近松寺
エネルギーがほとばしるのだろうかといぶかるほど、芸への思いは熱かったのです。ここまで思い入れをつらぬく、その強靭な精神力のバネになっているのは、子供のころの貧しさ? いじめ? それとも義太夫の情念にとりつかれたのでしょうか。
 今回は、近松ゆかりの唐津に、こんなひとがいらっしゃるのよ」、と自慢がしたくて、これを書きました。

 どうぞおすこやかに良いお年をお迎えくださいませ。そして、お正月くらいは、心静かに日本に生まれた幸せを喜べるといいですね。




死ににゆく二人をとざす雪の帳 こゑ洩れて ― 死なう、しんじつ
藤井常世 『繭の歳月』より




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洋々閣 女将
   大河内はるみ


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