#43
平成15年10
月
このページは、色々な方にご協力いただいて、
唐津のおみやげ話をお伝えするページです。
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#1 御挨拶
家紋 丸に蔓柏
父祖の地へ
―
松浦党
大河内家の居城 「道祖瀬城」遺跡
―
「
松浦党
」
。 このことばに血を沸き立たせる人々の、どれほど多いことでしょう。
鎌倉の御家人であり、水軍であり、中世の倭寇と恐れられた海賊でもあった「松浦党」。
倭寇の八幡船
かくいう私も海賊の末裔。実家の父は「うちの先祖は大江山の酒呑童子を退治した渡辺綱だ」と、子供たちを並べて言ったことがありました。ほんとうか嘘かは知りませんが、渡辺綱の子孫の久という人が鎮西の地に下向してきたことは史実ですから、ここらあたりにたくさんに広がった松浦党の血統があったのはたしかです。
大河内家に来てからは、大河内家の出自が気になりだしました。
「伊万里の大川内山あたりの出の松浦党だと聞いているが・・・」と、主人の頼りない返事。
それでは物足りない、もう少し詳しく知りたい・・・。
これが、今月のテーマです。
自分の家のことで、まことに恐縮ですが、松浦党研究者のお目にふれて、詳しい事を教えていただければさいわい、という下心をどうぞお許しくださいませ。
ちなみに大川内山は(おおかわち)と読み、大河内には、(おおこうち)と(おおかわち)と両方あります。おまけに私共の家は、先代まで(おおかわち)と名乗り、主人からは(おおこうち)と名乗っています。そのまたおまけに、墓石をよく見ると、一部、大川内と書いてあるではございませんか。全く、訳がわかりませんです。大川内山のある地域は「大河内」、「大川内」と両方の表記が歴史的に長くあったようですが、明治17年に「川」の字に統一され、明治20年に「大川内村」が誕生、昭和18年に合併して伊万里町(現在は市)となっています。
そういうわけで、大河内のルーツ探しに出発しましょう。アメリカのテレビドラマ「ルーツ」のクンタキンテさんのようにがんばります。一緒に時をさかのぼってくださいませ。
いま、『北波多村史(昭和38年発行)』をひもとけば、下巻の第1章 「土地と人の変遷」の100ページに下平野(しもひらの)という地域名があり、その@に大河内氏という記述があります。それを抜粋すると、
下平野の大河内家7軒はみな同族であり、7軒のうち2軒は大川内と書くが、これは他との区別を容易にするために文字を変えたものらしい。大河内氏の祖は源氏の流をくむ伊万里の大川内の城主であったというが、戦国時代末期竜造寺隆信の侵入にあい敗れて退き、のち出家して伝証坊と証して各地を巡歴した末にこの下平野の地に杖を留めて定住し、農業に従事したものであるという。その年代は不明である。
故
大河内常太郎
家がその後裔であったといい、同家には法衣や経文なども保存されていたというが、現在は断絶してそれらの品も逸散してしまったとのことである。大河内の姓は父祖の地大川内の地名から出
下平野の山河
たものという。今日西松浦・伊万里方面には大川内を称する家が各所に散在しているが、大川内であり大河内ではない。また他所では「オオコウチ」と呼ぶが当地は「オオカワチ」である。さきに絶えた宗家よりの分家に
大河内惣太
家があり、宗家を西の大河内、新家(惣太家)を東の大河内と呼んでいたという。分家の年代も明らかではなく、分家以後の代数も不詳である。
惣太家においては分家の祖を大河内了左衛門といい、いま判明しているのは7代である。
(分家の祖)大河内了左衛門―(代数氏名不詳)―吉衛門―元左衛門―政兵衛―元平―
政太郎
―
惣太
―行雄 (このあと、現在の当主・明達)
また同家よりの分家大川内敏一家も分家の年代・累代の氏名も明確ではないが、判明しているぶんは次の通りである。
(分家の祖)某―(代数氏名不詳)―丈作―忠兵衛―音蔵―敏一―(そのあと、現在の当主・敏彦)
大河内氏は同族であるため宗旨は全部真宗(唐津安楽寺)であるが、家紋は異なり「
丸に蔓柏
」「丸にかたばみ」「丸に剣かたばみ」などを用いている。
成淵に1軒大河内国蔵家があるが、これは当地大河内の分家であり、下平野から成淵へ移住したものという。
私共の大河内は、文中の大河内
政太郎
が明治26年に二男の
惣太
に下平野の山や田畑を残して、長
故・
大河内惣太
男の正夫をつれて満島村の現在地に移住し、商売を始めたのを祖としますが、下平野の惣太家を本家と呼んでいます。惣太じいさまは昭和54年に96歳で亡くなりましたが、私も生前にお会いしました。林業に精を出し、杉や檜の美林を育てた一徹な老人でした。
大河内家の鎌倉時代のことを知りたいと思っていると、ある日「
大河内家文書
」という言葉に出会いました。
松浦党大河内家文書
は昭和54年、南波多の川添家より発見されました。当主川添一氏の母・故みさをさんの遺品の桐櫃の中から見つかったそうで、
裃(かみしも)
や、文書、写経断片などが納められていました。みさをさんは故
大河内常太郎
氏の次女で、常太郎家の長男は若くて亡くなったために常太郎夫妻は次女のもとに身を寄せておられて、そこで亡くなったそうです。
文書は34通。鎌倉時代から南北朝期に至る譲状、相論文書がほとんど。譲状というのはだれだれにどこの土地を与える、というような書類で、これがないと現代なら権利書がないようなものですね。 相論というのは、訴訟のようです。たいがいは土地をめぐって、譲状を証拠に権利を争うようです。
伊万里市の教育委員会に寄託されているこの文書は、『佐賀県史料集成』古文書編第27巻に納められていますが、いずれもこの時代の松浦党研究に重要な資料だそうです。そのほかに「大河内家系図」や、唐津地域の大小の庄屋の由来記、文禄慶長の役の諸侯の陣屋跡改め、唐津領図などがある、と書いてありました。文書を見ると、むつかしいのなんの。幸い解説付きの資料をいただきましたので、なんとなく分かりました。
大川内町史
その後、陶芸家の川副青山様のご教示で
「大川内町史」
が出ていることを知りました。大川内公民館を発行所として、伊万里市大川内町史編纂委員会が平成12年に発行されたこの600ページ近い大巻は、委員のかたがたのご苦労がしのばれる立派なもので、それを読むとありがたいことに、大河内の歴史がよくわかったのです。 それやこれやの書物を読み合わせて私が理解した範囲で申しますと、どうも大河内家の歴史は次のようなものらしいです。(間違いに気が付かれたかたは、ご教示いただければ幸いです)
平安時代には「宇野の御厨(うののみくりや)」と呼ばれた西北部九州の広大な荘園に延久元年(1069年)、嵯峨源氏の渡辺久が検校に補されて下向してきて、今福(現・長崎県松浦市)の梶谷(かじや)城に本居します。そこから幾流れもの家系ができ、また土着の豪族たちも加わって、「松浦党」と呼ばれる同盟集団が発生しました。
1190年頃には、弁済司公文二郎眞高(宇佐氏)が松浦荘の伊万里を所領し、その範囲は杏子川(あんずがわ)流域に及んでいました。正治元年(1199)、杏子川の東の谷は眞高から八木三郎左衛門如覚に移ります(八木伊万里氏・水無城主)。元久2年(1205)には、眞高の娘婿の源(津吉)十郎重平という人が津吉島(平戸)と伊万里浦の地頭に任ぜられました。その領域に大河内村も入っています。その5年後に重平は次女の「立用」に大河内村を譲っていますが、そののち別の妻(宇佐のおおいこ=眞高の娘)との娘
大河内文書
、「あかしのねぅワぅ」という人に譲りなおしています。その領域は伊万里川、杏子川流域の山野を含む大河内村、小石原村、鼓村、一の瀬村の四つの字からなっていたようです。
その後に二度の蒙古襲来(1274年と1281年)があり、松浦党は奮戦します。恩賞として土地が色々に配分されたようです。
嘉元3年(1305)、もと重平の所領大河内村は闕所(けっしょ)となっていましたが、曾孫の津吉大輔房栄範が改めて蒙古合戦の勲功地として拝領しました。
正和元年(1312)、対馬五郎重貞がその地の一部を横領したため、栄範は証文を添えて御成敗を幕府に言上しています。また、翌年には親族の八木伊万里家と相論になり、康永2年(1343)まで親子三代に渡って争っています。
康永2年、栄範の子、大河内掃部助覚の譲状(大河内文書14)により、覚の時には大河内家を名乗っているのがわかります。覚の子、宥は正平10年(1355)には南朝方に属して戦いました。
永徳4年(1384)の文書には下松浦党一族の中に「ふくの因幡守」の名があり、大河内村の福野にある道祖瀬城(さやのせ城、さやンせ城))を居城としていたことがわかりますし、山ン城(大川内岳城)には大河内保闥という人が居たことがわかっています。
それから200年ほどの時が流れて、戦国の世、天正4年(1576)には佐賀の竜造寺隆信が侵攻してきて、有田氏、伊万里氏、山代氏は落城、大河内家も一緒に城を捨てて落ちます。歴史的にわかっているのはここまでですが、松浦党の家々が時には身内とも相論をしながら、しのぎをけずって生きてきたことが少し見えてきて、感慨深いものがありました。
そこからは伝承で、『北波多村史』にあるように、下平野に辿りついたものでしょう。江戸期には下平野で庄屋をし、明治からは代書人のような仕事もしておられたようですが、常太郎氏の代に息子さんが医者になら
青螺山
れたために村を一家で出られ、その後息子さんに死なれて、南波多の娘の嫁ぎ先・川添家に身を寄せられたようです。常太郎家と惣太家は、本家分家という以上に深い縁があったようです。下平野の私共の本家の上の、今は畑になっているところに古い井戸があり、おそらく常太郎家の屋敷跡だろうと思われます。
大河内家の盛衰を辿って書物めぐりをしているうちに、伊万里市の教育委員会が過去に「道祖瀬城遺跡」を調査したことがわかり、『伊万里市文化財調査報告書』第26集『道祖瀬城跡』(1988年)があることを教えられました。
それによると、
「大川内町は伊万里市の南に位置し武雄市に接している。青螺山から派生した丘陵が広がり、伊万里川の源となる大川内山には鍋島藩窯を中心として11ヵ所の窯跡があり、現在も陶磁器の生産が行われている。道祖瀬城跡は,青螺山から北方向へ伸びた丘陵のほぼ先端に位置する。遺跡の西側には伊万里川、東側には杏子川が流れている。また杏子川に沿って、武雄へ続く街道が伸びている。現在、遺跡の主郭部分は区有地となっており、招魂碑が立っている。主郭部分の北東部分の一部は土取りが行われた後、放棄されたままとなっており早急な対応が必要である。他の曲輪部分については、現在、人工林、及び雑種地となっている。」とあります。大川内町内にはほかに大川内岳城跡(山ン城)と水無城跡が確認されている」そうです。
道祖瀬城跡は、昭和62年に縫製工場の建設計画が出たときに調査され、発掘し記録保存となったそうです。小型ながら、櫓台、土塁、虎口、竪堀、横堀、などの防御施設を機能的に配置しており、非常にコンパクトにまとめられている城だそうです。
「記録保存」ということは、記録にだけとどめられて、実際の保存はなしということでしょうね。
私の胸の中に寂しさがこみ上げてきました。まだ見ぬ父祖の地の失われた時を求めて、旅立たねばなりません。 秋晴れの彼岸の9月24日、私は距離にして15キロくらいながら、時間にして何百年の旅にでたのです。下平野の本家と、私共と、もう一つの分家がいっしょです。おりしも彼岸花が道々に咲き乱れて、まるで異次元への道しるべのようでした。
道祖瀬城跡の山
杏子川が伊万里川に
牛隠橋のところで流れこむ
杏子川辺の大川内小学校
城跡に上る入り口
案内人がないとわからない
案内してくださった山口さん(左)
大川内公民館長さん(右)
城山頂上の主郭部分は平地。
昔、相撲大会が行われていた。
空堀のあと
大河内一族史跡探訪団
城山に建つ忠魂碑
左:大河内民生氏(分家)
中央:大河内明達氏(本家)
右:大河内明彦(分家・洋々閣)
道祖瀬城の堤には菱がびっしりと。
とても美しい池でした。
山ン城は急峻な道なき道を
何時間も登る所なので、
あきらめてはるかに仰ぎ見た。
今は区有林となって植林され、展望がふさがれてしまった道祖瀬城跡ですが、いつの日にか戦前のように公園として、子供たちが里山の魅力を楽しむことができたらどんなにいいでしょう。公民館長さんとそんな話しをしながら、下ってきました。
大河内文書の内、日付けの書いてあるもので一番新しいものは天文8年(1539)です。少なくともその頃まで大河内家は健在であったことを示しています。その後、戦乱の中に城を落ち、どこをさまよって下平野にたどりついたのでしょうか。大川内と下平野は、車で行けば20分しかかからない近さです。失った土地の証文を後生大事に昭和の時代まで伝えて、宗家は断絶しました。上記の川添家にも子孫がいらっしゃるから、血はつながっているでしょうが、宗家の名を取るひとがいなくなったということでしょう。無念の思いは、分家の分家の嫁である私が引継ぎました。一旗挙げて城を奪回しようかしら。
大河内家の裃
いま私の手元には、木下古書店のお世話で入手した大河内宗家の「裃」がございます。古いカミシモなど買っても主人に着せるわけにもいかずどうにもなりませんが、ボロとして捨てられるにはしのびない、と私の中の松浦党の血が嘆くからです。我ながらホンニ困った性分でございます。
今月はこれで失礼いたします。それではおのおのがた、「いざ鎌倉」の時には、e-mailでお知らせくだされ。ナギナタ持って推参つかまつりますゆえに。
ご協力に感謝します。
唐津市 安楽寺様
大川内町 山口一之様
大川内公民館長 小野原保子様
伊万里市教育委員会 盛峰雄様
大川内山窯元 川副青山様
唐津市 木下古書店様
今月もこのページにお越しくださって
ありがとうございました。
また来月もお待ちしています。
洋々閣 女将
大河内はるみ
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