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唐津には今、弥生の風が吹いています。
エ?今月は弥生じゃなくて文月だ、ですって?
ごもっとも。今は7月。文月、七夕月、相逢月。 ロマンチックでございますね。
でもその弥生でなく、唐津に吹いている風は、弥生時代の風でございます。
これがまたとてもロマンチックな「古代のロマン」!すてきでしょう?
今月は、遠くの皆様のお目には触れるとは限らない『佐賀新聞』や、『唐津新聞』をこのところ賑わせている弥生旋風のことを書いてみます。転載が中心になります。私が書くより、信用がおけますでしょうから。
最初は、平成15年6月6日(金)の『唐津新聞』」トップ記事です。
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2003.06.06(金)
中原遺跡から銅剣等鋳型 弥生中期からのムラ
餐棺墓群・古墳群・竪穴住居群
唐津市の"中原遺跡"を発掘調査していた佐賀県教育委員会は五日、弥生中期から古墳時代にかけて長期間にわたって存続した集落と、甕棺墳墓群及び古墳群があったと発表した。
また甕棺からは副葬品として細型銅矛が見つかったほか、古墳群の西約百bからは細型銅剣と中細型銅矛の鋳型が発掘され、同地で銅剣などを生産していた貴重な資料としている。
県教委では同地区に西九州自動車道が建設されることから平成十一年七月から埋蔵文化財の発掘調査を進めてきた。現在調査中の一・七ヘクタールからは、弥生時代中期の甕棺が集団で七十基出土、また同所に重なって円形古墳四基、前方後円墳一基が見つかった。古墳を囲むように竪穴式住居跡六十軒も見つかった。
このうち長さ百三十a×最大径七十aの合わせ口甕棺からは、長さ二四・三aの細型銅矛が発見。銅矛は全国で百六十例が発掘されているが、細型は二十四例あり、これまで佐賀・福岡両県のみで出土している。
この中でもさらに銅矛の大きさなどが定型化する以前の古いタイプで、汲田式の甕棺の年式とあわせて、弥生中期の前半ごろのものと見られている。
このほか甕棺からは碧玉、硬玉、ガラスの勾玉や細管、剣把頭飾、破鏡なども出土している。
銅剣の鋳型は、約八a四方。中細型銅矛の鋳型は約四a四方。銅剣鋳型は剣の中央部分、銅矛鋳型は別の根元部分。銅剣・矛の鋳型は十一例があり、県内で五例、福岡で四例、熊本・岡山でそれぞれ一例。唐津市での出土は、一九七八年に柏崎大深田遺跡から広型銅矛の鋳型に続いて二例目。今回の鋳型はこれより二百年ほど古いと見られる。
なお県教委では七日午前十時から午後四時まで、現地説明会を開催して発掘現場の公開と、現地のプレハブ事務所で出土品の展示を行う。 |
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上の記事の現地説明会は6月7日にありました。中原(なかばる)は、久里双水古墳(くりそうずいこふん)にも近く、鏡山の下、松浦川のほとりです。
出土品の写真をどうぞご覧下さい。
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説明会資料(佐賀県教育委員会・唐津市教育委員会)より
発掘調査現場の見どころ
その1 甕棺墓群 @銅矛出土の甕棺は外面黒塗りです。
A甕棺口縁部は打ち欠いているものが多くみられます。
B甕棺の埋置角度は傾斜が急です。
その2 前方後円墳 :葺石で前方後円墳とわかります。
その3 38年前の発掘調査区: 日本とフランスの合同調査が行われました。多くの有名な先生方が調査されました。 |
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38年前というと私は学生で唐津にはおりませんでした。どういう調査か聞いてみると、昭和40年11月〜12月と41年11月〜12月の二回にわたって、鏡山南側地区の柏崎の貝塚遺跡、宇木汲田のカメ棺遺跡と貝塚、半田の遺跡、中原カメ棺遺跡と日仏合同で航空写真まで使っての調査だったようです。フランス側は、パリ大学エリセク教授ほか多数、日本側は、九大鏡山、明大杉原教授たちの参加で、主な目的は大陸からの稲作伝来の調査であり、原始稲作農業の発祥地としての位置付けであったようです。
さて、今年の5月の下旬頃「弥生時代の起源が紀元前10世紀まで、500年ほども古くなる」という説が国立歴史民族博物館の研究グループから発表されたという記事は全国的に大きく取り上げられましたので、ご記憶にあたらしいことと思います。そのことを受けての平成15年5月31日の『佐賀新聞』の論説を転載します。
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弥生の起源
掲載日2003年05月31日
〈幅広い視野から検証を〉
弥生時代の始まりが五百年さかのぼる。縄文中期の開始時期も―。国立歴史民俗博物館(歴博)が提示した新たな実年代≠ヘ、考古学界に衝撃と戸惑いを招いた。学界に求められるのは、調査例の積み重ねと幅広い視野に立った国際、学際的な比較検証だ。
春成秀爾教授ら歴博の研究グループが示した新説は、放射性炭素(C14)年代測定法による分析結果を根拠としたものだ。
唐津市の梅白遺跡など弥生早期・前期の北部九州遺跡から出土した夜臼(ゆうす)式、板付式土器の十一点のうち十点に付着した炭化物が紀元前九〇〇―八〇〇年ごろに集中していることが判明。これにより水田稲作が始まった弥生の幕開けは紀元前十世紀前後と導き出した。
「弥生時代」の名称は明治十七年、東京の本郷弥生町から縄文式土器とは異なる様式の土器が出土したことにちなむ。縄文時代と区分する大きな特色は水田稲作と金属器の使用で、その始まりは紀元前五―四世紀というのが通説である。
■学者の反応厳しく
近年、科学が古代の謎を解明する例は少なくない。しかし今回の新説は、推定年代を一気に五百年も上方修正し、東アジアの古代史像の大幅な変更を迫る内容だ。「信じがたい」というのが大方の学者らの見方で、先の日本考古学協会総会では、発表に対する質問が相次いだという。
「旧石器遺跡ねつ造事件で行われたのは、いかに古くするかだった。今回も同じような疑念がある」「東アジアの鉄器が日本から始まっていいのか」…。ねつ造事件が考古学の学問としてのあり方を問うただけに、反応は厳しかったようだ。
考古学は直接、実年代を出すのが難しい学問だ。代わりに遺物の型式や遺跡から相対年代をつめていく膨大な編年研究を積み重ねてきた。
「倭(わ)国」の一つとされる吉野ケ里遺跡は、弥生時代の社会構造を解明する上で極めて貴重な遺跡だ。その環濠(かんごう)集落は弥生早期から同後期終末まで、実年代としては紀元前五―四世紀から紀元三世紀ごろまで続いたとされる。判断の根拠は主として出土した土器の型式だ。
ほかにも実年代を割り出すには、例えば年代の分かっている中国の青銅器と比較し、日本に当てはめるという方法などを採る。
■年代測定にぶれも
一方、理化学的方法によるアプローチも進み、年輪年代測定法やDNAによる分析など多種の先端科学が考古学を変えているのも現状だ。C14年代測定法は、動植物は死んだ途端、内部に含まれる微量の炭素が一定の割合で減少することから、その動植物が死んだ年代を割り出す―という方法。遺物に付着した植物などを試料にするが、数値のぶれも大きい。
今回使われたのはC14の中でも七七年に提案されたAMS法(加速器質量分析法)という手法。わずかな試料で分析でき、精度も高いといわれ、世界各地で用いられるようになった。ただこれも、暦年代の判明している試料のC14と比較して修正する必要がある。それでも出てきた数字が絶対的とはまだ言えない。
歴博の問題提起は、これまでの古代日本の歴史観を大きく変えるものだ。興味深い仮説といえるが、考古学が積み重ねてきた編年法とのクロスチェックが必要なのは言うまでもない。弥生文化の源流とされる東アジア全体に視野を広げ、調査例を積み重ね、人文、理化学双方からの検証を進めていく必要がある。
(田中善郎)
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