#38
平成15年5月 |
このページは、色々な方にご協力いただいて、
唐津のおみやげ話をお伝えするページです。
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#1 御挨拶
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「唐津の宿の女番頭」
― 花との一期一会に生きる ―
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みな様、おげんきでしょうか。5月ともなりますと、海辺の洋々閣でさえ、木々は緑を深め、小鳥の囀りもひときわ元気になってまいります。
今回は、私どもの花守、小路陽子をご紹介いたします。
実は、全日空の機内誌『翼の王国』にこの四月から連載が始まった佐藤隆介先生の「がんこの裏側」というシリーズの第1回目に、小路陽子が取り上げられました。タイトルは「唐津の宿の女番頭」。4月に洋々閣にお見えになったお客様の中には、この記事をご覧になったかたもたくさんいらっしゃいまして、陽子にお声をかけていただきました。有難いことでございました。佐藤先生にお許しを得まして、ここに掲載させていただきます。お楽しみいただければ幸いです。
「唐津の宿の女番頭」
佐藤隆介
人生は口福にあり。口福は旅にあり。そう思い定めていつしか三十余年。血気壮んだった頃に比べれば飲む量も啖う量も半分になってしまったが、旅をやめる気はない。人間、旅をしなくなったらおしまいだ、と思うからだ。
しかし、旅の主題が少し変わった。口福探求に変わりはないが、その裏側が気になってきた。これから当分は、なかなか陽の当たらない裏側で口福を支える″味の黒衣(くろこ)″を訪ね歩こうと思う。彼らの存在理由(レゾンデートル)を確かめたい。
それをしないと、しみじみ口福のありがたさが身にしみない、とわかってきたからだ。
いうなれば口福報恩のお遍路さん、か。
職業は旅屋にて候・・・・・・というぐらい旅から旅の暮らしをしてきたおかげで、いつの間にか定宿というものができた。全国に七軒半ある。「半」は目下八軒目を半分決めて半分思案中の意である。
私の定宿の筆頭は唐津の「洋々閣」だ。通い始めて二十年近くになる。なぜ、温泉狂が温泉もない洋々閣か。
口福追求人としては、食いものと酒がよくなければ話にならないが、ここには味にうるさく、もてなしの根本姿勢についてはさらにうるさい大河内明彦・はる美の館主夫婦がいて、その下に律儀を絵に描いたような練達の板長・元田勝吉がいる。春夏秋冬どの季節に訪ねても、洋々閣で口福にはずれたことはない。
二十年も通い続けていれば館主・女将・板長のみならず、ここで働く人びとみんなが私の友だち、というより親戚、というより私の家族である。だからこの宿に着いた途端に、わけもなくほっとして、気が緩む。
ゆったりと広い洋々閣の玄関にたどりつくと、「やあ、ただいま」といいたくなるのはそのためだろう。「あら、お帰りなさい」と走り出てくる人びとの笑顔のうしろに、いつも大甕に活けた見事な花がある。陽子の花、だ。たまたまそこに陽子がいなくても、大甕の花を見れば、(ああ、元気に頑張っているな・・・)とわかってうれしくなる。
洋々閣の小路(しょうじ)陽子は、いわばコンシェルジュだが、純和風の旅館にカタカナはなじまないから私は女番頭と呼ぶほうがふさわしいと思っている。女将のはる美にいわせれば「陽子は私の右腕で、対外的な肩書は支配人でございます」ということになる。
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花を活ける |
小路陽子は、そろそろ五十ぐらいにはなるはずだが、きびきびした立居振舞や歯切れのよい口調での応対を見ているととてもそんな齢には見えない。この女番頭には大別して三つの仕事がある。
第一は、帳場に立って客の応対をするコンシェルジュとしての業務。第ニは、全館の花を一人で担当し、「ここはいつ来ても、玄関から廊下から部屋のあちこちまで、本当に花がきれいできもちがいい」と、客を和ませること。第三には、客それぞれの料理に応じた器選びである。
温泉という切り札を持たない洋々閣にとっては、″食卓の歓び″が重要な決め手となる。当然、器選びにも熱が入り、普段は板長と陽子が相談して決めるのだが、ときには館主や女将も立ち会ってカンカンガクガクやり合うことも珍しくないと聞いた。
主の大河内明彦は若い頃、唐津焼の名手として知られる隆太窯・中里隆の人柄と作品に惚れ込み、館内に「隆太窯ギャラリー」を設けているほどのやきもの好きである。ここには常時、中里隆・太亀(たき)・花子の親子三人の作品が豊富に並んでいて、洋々閣に泊まった客は不便な山奥の窯場まで足を運ばなくても、浴衣姿のまま隆太窯の器を鑑賞し、気に入れば買うこともできる。
「私はやきもの狂だった祖父の影響か、小さいときから陶磁器に惹かれていて、二十歳の頃からポツポツと好きな器を買い集めてきました。最初に買ったのは焼〆(やきしめ)で、いまでも一番好きなのは焼〆。でも
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器を選ぶ |
、いい器は自分ではなかなか買えませんから、洋々閣で隆先生の南蛮唐津がふんだんに使えるのがうれしくて・・・・」
と、陽子はいい、そのあとでこっそり付け加えた。「新作が入ってきたとき、自分のお気に入りはギャラリーに展示しないで収蔵庫に隠しておきます。心底やきもの好きのお客さまがお見えのときに使いたいから・・・」
女番頭の仕事は三つと書いたが、ときには四つめがある。超多忙の日や古いなじみ客が久々に来たときなどは、仲居の手助けとしてみずから客室に出向き、かいがいしくサービスに努めるのだ。
この夜、私は好運にも洋々閣名物の一つ、「佐賀牛しゃぶしゃぶ」を陽子自身に取り仕切ってもらい、いつもうまい佐賀牛がいつもの何倍もうまい気がした。(仲居がヘソを曲げると困るから、これは内緒にしておこう。呵々)
小路陽子は唐津の隣町、相知(おうち)で家作りを専門とする棟梁の一人娘として生まれた。弟が一人いる。
「鉋屑にまみれて育って、木の切れっ端や石や土が遊び道具でしたから、コンクリートがどうしても好きになれない。だから初めて洋々閣へ来たとき、ああ、ここなら、と・・・・」
どっしりと低く構えた洋々閣は創業以来百十年、ほとんど昔からのたたずまいを変えていない。千年の緑と称えられる広大な庭の黒松は樹齢ニ百年か三百年か。何ともいえない落ち着きと安らぎが、この古い宿には漂っている。それを歳月の重みといってもよいだろう。その不思議な魅力は古唐津と呼ばれるやきものに通じるものがある。
木が好き、土が好き、やきものが好きという陽子は、洋々閣にようやく″終の棲み家(ついのすみか)″ともいうべき場を見出して、早くも十五年が流れ去った。ここへ至るまでの彼女の人生はまさに「数奇」の一語に尽きる。小説家なら舌なめずりをしてこれを一篇の長篇にするだろうが、私にはできない。ただ一つ、
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孫の秀真クンと |
「いまは、二十七歳で整備工をしている息子夫婦と一緒に暮らしていて、まだやっと七ヶ月の孫のお守が何よりの楽しみです・・・・・」
このことだけを記しておこう。
孫をあやすことを別にすれば、小路陽子の生き甲斐は結局のところ「山歩き」である。洋々閣の花のすべてを一手に引き受けている陽子だが、その花材は花屋へ行って仕入れるのでもなければ取り寄せるのでもない。すべて自分で唐津近郊の山々を歩き回って、自然の四季の恵みを頂戴してくるのだ。
「近郷の山という山、谷という谷で私の知らないところはありません」
と、女番頭は胸を張った。
陽子の花修行は中学時代、親にいわれて始めた池坊流まで遡る。その師が高齢で教室を閉じたとき、一度、花との縁は切れた。五年暮らした亭主と別れたとき、二十八歳になっていた陽子は再び花にのめり込んだ。今度は知人に勧められて小原流である。
いつ、どの時期に、どこへ行けば、どんな花があるかを知悉していると豪語する陽子の車には、つねに花材
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木の上で |
集めに欠かせない七つ道具が積み込んである。短い鋏。長鋏。シャベル。スコップ。脚立。鋸。大きな布袋。水を入れたポリバケツ。
ときには巨大な斧やチェーンソーまで装備して山へ行き、これと思う花材を見つければ、たちまち重い道具をかついで高い梢までも登る。その速さたるや猿も顔負けだ。私は下でハラハラしながら見ていて唖然とするばかりだった。
陽子の名誉のために書いておくが、決して無断の花盗人ではない。山々の地主や農家、山中にひっそりとある蕎麦屋などと仲良しで、彼らが喜んで陽子の花材蒐集に協力してくれるのである。小路陽子なら誰よりも自然を大切にし、間引いてやったほうがいいところしか伐らないと、みんなわかっているからだ。
面白いと思ったのは、花材師にして花匠でもあるこの女番頭さんが決して咲いている花を伐らないことである。大きな袋につぼみばっかりの枝を大事そうに包むのを見ながら、なぜ咲いた花は頂戴しないのかと尋くと、陽子は (まァ、呆れた・・・・・)といわんばかりの顔でいった。
「頂いたつぼみを私が活けて咲かせる。それが私の自然流です」■ ANA APRIL 2003
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佐藤先生、ちょっと褒めすぎの感もございますが、ほぼその通り!
みなさま、どうぞ、陽子の花を楽しみにお出かけください。
五月には、次のような草や木が洋々閣にてお待ち致しております。
野あざみ 踊り子草 二人静 一人静 ホウチャク草 アマドコロ 鳴子百合 ハナミョウガ
マムシ草 ムサシアブミ オオハンゲ 小判草 媛小判草 しゃが 浜昼顔 シュンラン 金蘭
えびね ほうの木 山藤 山躑躅 小葉がまずみ
すいかずら ハクサンボク みつばつつじ
石楠花 花筏 もみじの花 ・・・・・
花との出逢いは、ほんに、一期一会でございますね。
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折々のお迎え花 |
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左上:泰山木と葮竹
右上:楓と南京櫨の実
左下:桃(原種)と白椿 |
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今月もこのページにお越しくださって
ありがとうございました。
また来月もお待ちしています。 |
洋々閣 女将
大河内はるみ
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