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みるかしの春 ―肥前風土記の「賀周の里」 見借― |
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佐志川に沿ったり離れたりする細道を上流へと辿ると、野には菜の花、タンポポ、イヌフグリ、アザミ、ホトケノザ、カラスノエンドウなど、山にはアオモジの花があふれんばかり・・・・・。 その昔霞の里とよばれた山ふところは、春もピーク。めったに歩かない私が花に誘われて逍遥を試みました。みなさまもご一緒にどうぞ。重い私を押してください。頼みましたよ。 この川沿いは古墳がいくつかあったところです。下流から、中の瀬古墳、中山古墳、経塚古墳、下戸古墳、北惣原古墳(4基)、南惣原古墳(2基)、女山(じょんやま)古墳(2基)と、だんだん上がって行ったところが見借で、その上流の馬場野(ばんばの)が水源ですが、馬場野は縄文の遺跡、見借は弥生土器の散布地であり、上流からだんだんに水田耕作が降りていったようすが伺われるところです。古墳も上から下に新しくなっているそうで、ただ壊されてなくなった古墳も多いそうです。昭和3年頃に見借と佐志の境界近くの丸山(別名女山=じょんやま)で小型の竪穴古墳が発見され、土地の人はこれを「みるかし媛」の墓に比定していると、郷土史家・河児哲司先生(故人)は書いておられます。
唐津出身の考古学者で、昔このあたりの古墳の発掘に参加された松岡史先生(筑紫野市在住)は次のように話してくださいました。 佐志川流域のこの土地は小さな集落のように見えても実は当時の「まつら郡」の郡衙のあった所(現・唐津市千々賀)とは峠を越えてつながり、また、西へ行けば相賀や呼子の友といった当時の「駅」へ続いている交通の要衝に当たる。佐志川の水で水田を耕作し、また河口から朝鮮半島へ船を出して交易を行ったらしく、この流域にだけ集中する古墳群(3世紀〜5世紀)から伽耶式土器が出土している。女山古墳は、2基の竪穴古墳が昭和初期に発見されたもので、倣製鏡が副葬されていたと記録にあるが、現在その鏡は所在不明となっている。古代には神の託宣を伝え、水源を守り、水田耕作やまつりごとをつかさどった巫女が媛であり、その墳墓は当時の媛が大きな力を持っていたことを示していて、それが8世紀の風土記に海松橿媛となって語られたものであろう。近年また佐志川の東側にもいくつかの古墳が発見されているし、ますますこの土地が古代史上重要なところになるのだが、残念ながらいくつかの古墳は消滅した。幸い女山は一部開墾されたものの、頂上部分は残っているようだ。松浦佐用姫と並んでもう一人、この地方で古代史上重要な女性、海松橿媛の墓に比定される古墳が保存されることを願いたい。可能な限り古代の遺跡を後世に引き継ぐことが私達の責務であろう。
東大教授で詩人の藤井貞和先生を一度、見借へご案内したことがあります。15年ほども前になりますか。そのあとで頂いたお手紙に次の詩がありました。私の宝物ですが、皆様にもお見せしましょう。(藤井貞和先生はこの春、現代詩の大きな賞である「歴程賞」と「高見順賞」とをダブル受賞されました。)
纏向日代宮(まきむくひしろのみや)にしろしめす天皇(景行天皇)が国巡りましませし時に、陪臣の大屋田子(おおやたこ)を遣わして誅滅したもうた土蜘蛛の女頭領、海松橿媛は、きっと、思いっきり優しい声の、しずかな心のおばあさまだったのでしょうね。お墓はほんとうに女山古墳なのかどうかわかりませんが、この土地に霧が深くたちこめて不思議な暖かさの夜を、隆太窯の帰りに経験したことがあります。荒ぶる心ののちに穏やかなお顔になられた海松橿媛さんを、わたくしもまた恋しくて、「森をいでよ、山を越えよ」と呼んでみたかったのです。 詩の中の窯のイメージは、中里隆さんの隆太窯ですが、「うばんふつくら」と呼ばれる谷あいで、今日も薪を割る音がしています。 一度、見借を歩いてごらんになりませんか。
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