この三月に学校を卒業なさるみなさん、おめでとうございます。
私は短い教師時代には卒業式がつらく、悲しく、よよと泣いておりましたが、今思えばなつかしくて、どこかに卒業式があると聞くと、父兄でもないのに行きたくてむずむずします。
でも関係のないものは入れませんので、今月号のこのページで、勝手に幻の卒業式をいたします。 これを読んでくださってるあなた様、ここで会ったが百年目、来賓として列席してくださいませね。
まず、学校は旧制の唐津中学。ご来賓は羽織袴で参列してください。町長さん、議長さん、県知事さんなんかのおつもりで。女性は、父兄にしましょうか。丸髷に紋付、羽織でどうぞ。下の写真の門から入って一番右奥の講堂へお通りください。
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大正時代の唐津中学校舎 |
卒業式の日時は大正十三年三月三日。ハテ、何曜日だったろかね。わからん。桜もチラホラ開きはじめた快晴の日、ということにしましょう。
卒業生は唐津中学第24回卒業生、101名(たぶん)。
下の卒業証書は、私の父、山口初嗣のものです。(父は平成7年に89歳で亡くなりました。) この証書の校長名にご注目ください。下村虎六郎って書いてありますでしょ?
ご存じですか? 下村虎六郎ってかた。 実は下村湖人なんです。 あの『次郎物語』の。
下村校長は唐津中学の第六代校長で、在職期間は大正11年から14年。(その前に大正7年〜8年は教頭で在職) 『次郎物語』の連載は昭和11年からの
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下村校長 |
ことになります。
唐津中学、新制になって唐津第一高校、統合して唐津高校、分離して唐津東高校が誇る校歌は、下村湖人作詞であり、「光、力、望」をキーワードに、教育者・湖人の理想を込めた気宇壮大なもので、唐津中学時代の『宇宙の み生命(いのち)・・』(大正13年制定)と、唐津高校からの『天日(てんじつ)かがやき・・』(昭和25年制定)と二つあります。
大正十三年三月三日の卒業式に《大正十三年三月制定》という『宇宙のみ生命』が間に合ったかどうか、知りたいとおもうのですが、わかりません。なにしろ昔のことですもの。
でも、この幻の卒業式では、間に合ったことにいたしまして、唐津東高校のホームページの校歌のところから、『宇宙のみ生命』をお聞きください。校歌が三つ書いてありますが一番下ですよ。前奏に続いて歌ってください。
いかがでしたか、じ〜ん、と来ましたでしょ?
湖人のこの二つの校歌は、その後佐賀県や長崎県の小、中、高校に大きな影響を与えたようです。「光、力、望」をキーワードにした校歌があちこちに出来たそうです。
そのときの卒業写真も残っていますから、先生方を見てみましょう。
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矢印が下村校長。左隣の中島正遠先生ほか、三根寿太先生、吉村茂三郎先生など、後世に名を残す名物先生たちがずらっと並んでいらっしゃいます。 ちなみにこの時、下村校長は40歳。後ろの生徒達はまっすぐ立たずに談笑しているのですね。わりに自由な雰囲気だったのでしょうか。 |
では卒業生たちを見てみましょう。(父のアルバムより)
ダンディ 松浦寔氏(故人)
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父の親友・藤井貞文氏
後に文学博士、国学院大教授(故人)
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父が一緒に中島先生宅に寄宿していた
松隈矩夫氏(故人)
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私の父、山口初嗣(故人)
当時17歳(1924年)
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そのほか総勢101名。 卒業生総代は、優等生の藤井貞文さんにしましょう。藤井さんは國學院に進んで折口信夫の弟子になるかたですから、立派な答辞を読まれるはずです。
来賓の祝辞は、皆様がここでおっしゃってください。おごそかなのをお願いします。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」 ハイ、ありがとうございました。
さて、下村校長の訓辞ですが、さぞすばらしいものだっただろうと想像します。『次郎物語』の中で次郎が中学を卒業しておれば、卒業式のシーンが登場するのでしょうが、残念ながら次郎は中退してしまいますので、訓辞が出てきません。ただ、想像を助けるものとして、次の「湖人語録」が参考になると思います。これは唐津東高校100周年記念誌に掲載されたご長男・下村覚氏の寄稿です。湖人のひととなりを示すこれらの言葉をかみしめて、訓辞を聞いたことにしてください。
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『鶴城』佐賀県立唐津東高等学校創立100周年記念誌(平成11年)より
湖人語録
下村 覺
折にふれ鮮明に甦るのは湖人生前の言葉の数々で、心身共にひ弱だった長男の行く末を案じてのものが多かったように思われます。太平洋戦争の約4年を中心にその前後10年宛に分類してみました。
「戦前語録」
・なつかしい大工の篤さん。生涯「柱垂直」「床水平」を唱え続けてあの世に行ってしまった。柱は正義、床は愛、この2つが歪めば家必ず倒れ、国必ず滅ぶ。(5.15事件の折)
・先人の遺訓の最高は、道徳、道義、道理の三文字。何故道を上につけたのか。後世の乱
れを案じたからであろう。楽の上にすら道をつけて道楽とした父祖の心惰を察せよ。(2.26事件の折)
・人という文字をじっと見よ。深い味わいがある。支えられてほんとうに御世話様……が左側の棒で、何とか小さいけれど世のために奉仕を……というのが右側の支え。昔の人の心に頭が下がる。(動労奉仕をさぼった長男に。)
・北へ流れる大きな流氷上で、いくら南へ行こうとしても所詮は北に位置する。確固且盤石の信念に立脚しなければ、人間は東へ行かんとして西に流されて結果はみじめなもの。 考える基本が大地であって浮氷であってはならない。(軍事教練に熱中する長男へ。)
・SMALL THINGS MAKE PEOPLE HAPPY.西欧では「ほんの一寸したことが人々を幸福にする」という言葉があって、気軽に他人の手助けをするが、日本人は尻ごみしがちの欠点がある。(交差点で目の不自由な人に手をかした外国人の姿を見て。)
「戦中語録」
・任運騰々の言葉を胸に行ってこい。与えられた運命の中で最善を尽くせ……との意味だ。 人間最高の誇りは、敬愛するもののために命を捧げること。(長男入営の日に。)
・将たる者、兵より先に箸をつけるな。これは名将の言葉だが民間にも大いに通用すること。(少尉に任官した長男へ。)
・横の疎開は絶対にしない。やるなら縦の疎開あるのみ。(庭先に3坪ばかりの防空壕を自ら造成して、東京大空襲で自宅を焼失してから約半年悠々自適の地下壕生活をした。)
・森羅万象、これ原因あっての結果。原因なくて結果を生じること皆無。念々刻々良い要因ぶり創りに励むべし。(戦中最も苦しい時期にも未来の明るさを……と励した。)
「戦後語録」
・波高かけれど天気晴朗なり……これ1本槍で行こう。散った人々の魂を背って。(復員した長男を迎えて――。)
・凶器と兵器のどこが違う。全く同じ人殺しの道具。原爆を含め一一切の軍需産業の地上からの消滅、これが人類悲願の原点たるべし。理不尽の極は、例外なく軍需産業が生きて行く為に絶対必要とするものは流血即ち戦争なのである。 (広島、長崎の原爆犠牲者追悼記念日に。)
・無資源の日本にとって資源調達のため輸出による外貨獲得は絶対必要。だからと言って市場独占や外国企業への圧迫は理由にならない。「国際分業」、高度の思想や技術を含めて地球規模の良き分業に献身すべきと思うが。 (戦後、事業の海外展開を急ぐ長男の焦りに警告。)
・男はたのもしく、女は美しく、地球のどこに行っても男女の本物の願いはこれではないか。(戦後の世の乱れを憂いて。)
・神社仏閣におわす神は名詞。我々の胸中で神の心が息づくときは動詞となって動き出す。 (明治神宮参拝時に。)
・法律の本が厚くなればなる程、道徳の本は薄っぺらになる。(戦後の乱れを悲しんで。)
・「大いなる道というもの世にありと思う心はいまだも消えず」
(昭和30年4月20日他界、この歌が辞世。)
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すばらしいお話しでしたね。今の時代にも聞きたいものですね。
父は、下村湖人先生を校長に仰いだことを一生の誇りとしていました。『次郎物語』は常に座右にありました。次郎の中学中退の原因となった学生のストライキは実際に唐津中学で起こったことだよ、と私に言ったことがありましたが、いいかげんに聞き流してしまったことが今となっては残念です。どなたか事実を教えてください。
『次郎物語』に出てくる掛け軸と同じ良寛さんの歌を湖人が揮毫したものが最近発見されたそうで、佐賀新聞に掲載されました。卒業式とは関係ないけど、折角ですから転載します。 |