#35
平成15年2月 |
このページは、色々な方にご協力いただいて、
唐津のおみやげ話をお伝えするページです。
バックナンバーもご覧頂ければ幸いです。
#1 御挨拶
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宝当神社への小道で
美しい古い石垣を見つけました
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宝の島 高島
思いつくままに訪い来し過疎の島由縁の人ら幻に笑む
唐津ふじ |
皆様こんにちは。早や如月となりました。
2002年の年末から2003年の正月にかけて、洋々閣へのアクセス経路である「県道妙見・満島線」は、異常な混雑に見まわれ、当館へのお客様には随分ご迷惑をおかけしました。 原因は、宝くじの神様「宝当神社」のある高島へ渡ろうとなさるたくさんの方々! 私どもから歩いて5分のところにある海上タクシー乗り場へ向かう車で混雑したので
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海上タクシー乗り場の桟橋 |
す。 私ったら物好きに、海上タクシー桟橋に並んでいる人々の列を眺めに行きました。 高島の歴史始まって以来の出来事で、うわ〜、タイヘン! 所ジョージさんがテレビでこの神社のことをおっしゃったり、テレビ朝日で言ったりしたので、昨秋以来どっと人出が増えたのです。
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高島 |
うちへのお問い合わせも増えてきましたので、今月号は高島を紹介するページにいたします。
信心深い私としては、宝くじのことを書く前に、神社のもともとの由来から紹介いたします。
歌人の唐津ふじさんが、歌誌『ポトナム』に書かれた文章の転載許可をくださいましたので、まずそちらからどうぞ。
神頼み 唐津ふじ
◎肥前なる唐津の浜に宿りして唖のごとくに明けくれむとす
かつて斎藤茂吉は任地の長崎で胸を病み、転地療養の為に幾日かを過ごした宿(註)が今に残っている。弧を描いて美しい海岸線を逍遥しつつ茂吉は湾内に点在する島々にどの様な思いを馳せただろうか。その一つに地域おこしで有名になった宝くじ大当たりの「高島」がある。周囲三・五q、人口四百名に満たず、御多分に洩れず過疎の離島で住人の皆が野崎姓である事も珍しい。白くスマートな船で十分足らずの行程で六便の運航がある。
祭神は野崎隠岐守綱吉で草野城主に仕えていたが家臣の讒訴に耐えず三人の家来を従えて夜陰に乗じて脱出、元亀四年高島に落ちのび、天正十三年病没三十ニ歳の若さで惜しまれ他界の記録が残されている。生前島民に慕われ島の大権現として祭られた祠が明治三十四年、島の宝「宝当神社」として霊験あらたかな神と崇められ、昨今の宝くじブームに便乗して参拝客が引きもきらず。九州一円は言うに及ばず、関東関西まで噂は噂を呼んで、旅のシーズンには島渡しの船が満載の時もある由。最近は大牟田市の夫妻のグループが二年に渉り夫の年末宝くじに二億五千万が当り、妻のグループが昨年一億円の幸運に歓喜したとの事。
さて如月の小雪舞う日、私は知人の区長さんを訪ねて久々に宝当神社に参拝したが旧態依然とした祠に唖然とした。億万円の宝くじは当たっても礼参りの寄進は最高参万円だった由、いやはや嘆かわしい神頼みと言う外はない。立派な社を想像して来た夢は霧散して往還は空しい徒労に終ったが神様も島民も皆さんの願かけにひたすらお出で下されとお待ちしている。
註 木村旅館 唐津市西の浜
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さて、私のしつっこい、理屈っぽい性格からすると、やっぱりどうしてこの神社が宝くじの神社か納得がいかないと気が済まないわけです。もう少しそのあたりを調べて見ましょう。
次はいつも登場していただく郷土史家の善 達司和尚様です。
海賊に殺された人の墓
救いの神は野崎綱吉 善 達司
唐津より約四キロ沖合いに高島がある。玄界灘に浮かぶこの美しい緑の島に何時頃から人が住みついたかはわからないが、やはり生きるためのきびしい戦いが、この美しい島にも展開されたのである。現在、高島の家々の庭の一隅に墓碑のような感じのする石塔が一個、或いは二、三個かたまって立っているところが数ヶ所ある。島の人々はこれを海賊のために殺された人の墓であると言い伝えている。この海賊が吉井強盗といわれるものであり、戦国時代の頃しばしば高島に来襲して、島の人々の生命、財産を奪ったのである。墓碑は自然石のままのようであり、何の字もきざんでない。であればある程、海賊の犠牲になったこれらの人々の死があわれに感じられる。
戦国時代はここ唐津地方にも大小の豪族達が割拠して、終日血なまぐさい戦争がくりひろげられていた。その中でも、岸嶽城を本拠とした波多氏が最大のものであったが、これに匹敵するものに鬼ケ城の草野中務大輔鎮永があった。草野氏は源平の争いの時、いち早く源氏について功績があり、頼朝より鏡社の宮司に任ぜられ、鏡、浜崎玉島方面にその支配勢力を確立することに成功した。吾妻鏡文治二年十二月十日の条に
「肥前國鏡社宮司職の事、草野次郎太夫永平を以って定補せらる。是れ且つは相伝に任せ、且つは奉行の労に優せらるる。」
とある。それ以後、草野氏は唐津地方の最大の豪族の一人となっていたが、天文二十一年(1552)草野長門守永久の死去後、その後継者として筑前國二重岳城主の原田了栄の子息が迎えられた。これが草野鎮永である。鎮永は波多三河守鎮とも度々戦争をしているが、当時の最大の強敵は佐賀を本拠地とした龍造寺隆信であった。天正元年(1573)十一月、遂に龍造寺氏の軍は鬼ケ城の攻撃をはじめ、ここに平原合戦がおこったが、この時波多氏も龍造寺隆信の傘下として草野氏攻撃に参加した。草野鎮永は鬼ケ城に火を放たれ大敗し、二重ケ岳城に逃れた。この時、鎮永の家臣に野崎隠岐守綱吉というものがあった。草野鎮永の重臣名簿をみても彼の名前は出ていないので、そんなに高い地位ではなかったと思われる。綱吉はこの時船で高島に逃げ、そのまま高島に定住し、その後の野崎姓の祖となったと思われる。ところが当時、筑前國糸島郡吉井に火山神九郎という海賊がおり、吉井を根拠地として附近をあらしまわっていた。それが時々、高島に来襲して、島の人々の財産や生命をうばっていたのである。(高島野崎系図) 前述の墓石はその犠牲者の霊をとむらうためのものであった。この火山神九郎がちょうど高島に逃げて来ていた野崎隠岐守綱吉のために亡ぼされ、やっと高島は海賊の来襲よりまぬがれる事が出来たのである。しかし、海賊によって殺された人は再び生きかえることはできない。実は最近までこの時の海賊の子孫の人が、年に一度高島に来て、海賊に殺された人々の供養をしていたのである。高島の人々はこの時の海賊を吉井強盗と呼び、野崎綱吉のことを尊敬をもって綱吉さまとよびならわしている。
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さてさて、綱吉様のことはよくわかりましたが、肝心の宝くじはどうしたのでしょうか。
それでは島の人に直接お尋ねしましょう。
島起しで宝当神社ブームを仕掛けた野崎隆文さんによりますと、綱吉さまを祭った大権現は、明治34年、島が製塩で栄えたおりに「寶當神社」と改名され、以後、島民の生活の場の一つとして、お願い事のお篭もりをする習慣があるそうです。
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神社の壁を埋めるお礼状 |
野崎さんらのグループは、島起しとして、この神社の名前の「寶」と「當」から、宝くじの当選祈願の神社として平成5年に「宝当グッズ」売りだしを開始、直後から本当に宝くじは当たり始め、今では大勢の参拝客で定期船「高島丸」は満員、「第ニ高島丸」も増設され、海上タクシーも休むひまなく往復するという盛況になったのです。本当に当たった人からのお礼状が証拠のコピーを添えて神社の四方の壁を埋め尽くしていますよ。ウ〜ン、とうなって私は神社をあとにしたのでありました。
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唐津城の下、戻ってくる高島丸 |
ちなみに高島丸(左の写真)は片道200円で所要時間10分。日に6往復。海上タクシーは15人ほど乗れて、片道500円。所要時間5分。次々に行ったり来たりしています。乗り場は洋々閣から歩いて5分の、舞鶴橋の下。
私が思いますのに、宝くじに当たりたいかたは、まず、綱吉様へ十分なお賽銭を上げて、海賊退治のお礼を申し上げ、そのあとで、もしよろしかったら宝くじを当ててくださいと、つつしんでお願いすべきじゃないでしょうか。宝くじのことだけお願いするなんて、あつかましいんじゃありません?そして、何億円か当たったら、お礼参りには百万円くらいは寄付をしていただきたいものですね。その際にはぜひ、私どもにお泊まり下さいませ。
エッ? わたくし?いくら当たったかって?
まだ当たったことはありません。本当ですよ!ですからして、あなた様がお当たりにならなくても、わたくしとしては責任は取れませんです、ハイ。
そうそう、高島は地質学的に大変珍しい島だそうです。そちらの学問の方もぜひ、お出かけくださいませ。
では、幸運を祈ります。 GOOD LUCK!
高島への交通 問い合わせ先
高島丸 (高島漁協) 0955−73−1585
水星号 090−8910−3774
宝丸 090ー5921−8770
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今月もこのページにお越しくださって
ありがとうございました。
また来月もお待ちしています。 |
洋々閣 女将
大河内はるみ
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