|
|||||||||||||||||||||||||
続々・唐津くんち雑記帳 |
|||||||||||||||||||||||||
で、やむをえず引き続き「続々・唐津くんち雑記帳」といたしますが、おくんちのことを知ったフリして書くとこういう目に会うとわかりましたので、今回は『末盧國』(松浦史談会の郷土史誌)の古いものから引き写しでまいります。 クレームのある方は、吉冨取締にメールをどうぞ。 ちなみに吉冨氏の唐津くんちのサイトはさすがヤマの町の誇りに満ちて、よそものには書けない迫力があります。こちらからお楽しみくださって、まだよっぽどおひまでしたら私のページにお戻りください。 古いヤマの歴史 (『末盧國』昭和38年10月20日号p47 この項目には筆者名がありません。どなたかご存じのかたは教えてください。) 唐津には現在の"ヤマ"の出来る以前にも"ヤマ"があった。寛文年間(1661-)より御神幸が行われ、寶暦十三年(1763)土井利里城主時代には惣町*より傘鉾山が奉納された。これは"カツギヤマ"といい、各町の火消組が担いで西の浜へ御神幸のお伴をした。城主も行列を整えて随行していた。それから二年後の明和二年に、今日の鳳輦型の御神輿が新調された。この御神輿は大阪住吉宮のものと同型でその二級品くらいであったという。 次の水野侯時代には"カツギヤマ"から車のついた"走りヤマ"に変って来た。江川町の"赤鳥居"は常に神前にあるため行列の先頭に進み、本町の"左大臣右大臣"、木綿町(きわたまち)の"天狗の面"、塩屋町の"仁王様"、京町の"踊屋台"などが出来た。 しかし文政二年(1819)小笠原長泰が城主となったとき、一番山の刀町"赤獅子"が作られた。当時刀町の住人石崎嘉兵衛(いしざきかへえ)がお伊勢詣りの帰途、京都の祇園山笠を見て帰ったのち大木小助らとこのヤマを作ったと伝えられ、ヤマの内側にその作者名が添書されている。
京町の踊りヤマは町内の娘を屋台に乗せ町々で踊りを披露しながら通って行った。その後にニの宮の御神輿が静かに進み絢爛たる刀町の赤獅子、中町の青獅子、材木町の浦島、呉服町の義経の兜、魚屋町の鯛、大石町の鳳凰丸、新町の飛龍、本町の金獅子と平安の雅楽から採ったと想われる囃子に合せて床しく秋の光に金銀を輝かせながら威勢よく巡幸に従っていた。 *惣町について 唐津では惣町十七ケ町という言い方が旧藩の時代から明治にかけて使われている。 本町、呉服町、八百屋町、中町、木綿町、材木町、京町、刀町、米屋町、大石町、紺屋町、魚屋町、平野町、新町、江川町、塩屋町、東裏町であるが、明治になると塩屋町は材木町に、東裏町は大石町に合併し、従前郷方に属した水主町、新堀が加えられて十七ケ町には変りなかった。
"三月倒れ"の誘惑 佐藤 隆介 生来、お祭りさわぎが苦手な引っ込み思案の人間だから、五十数年住み暮らしている東京の祭りでさえ浅草の三社(さんじゃ)祭に三回か五回、霜月(しもつき)恒例の酉(とり)の市(いち)にせいぜい十回というところか。 そんな私が唐津のおくんちには約二十年、高い飛行機代を払って通い続けている。われながら不思議である。一体、何が私を唐津供日(くんち)に引き寄せるのか。毎年、神無月(かんなつき)に入るたびに考えるのだが、その理由がわからないまま、結局はいそいそと出かけて行く。 そもそも唐津供日とは何ぞや。 陰暦九月は、元来、農耕民族の日本人にとっては、一年中で最もうれしい"収穫の月"である。東北の秋田地方では「九月の九日、十九日、二十九日」の三度の九日を「刈上(かりあげ)の節供(せっく)」と呼び、収穫の進行の段階ごとに祝いをするのが古くからのならわしと聞く。 この三度の九日を「三九日(みくにち)」、あるいは地方によっては「三九(さんくにち)」と呼ぶ。信州の伊那地方では、九日を「神の九日」、十九日を「百姓の九日」、二十九日を「町人の九日」というそうである。九州では秋の祭りを「おくんち」というところが多い。 唐津供日もまた、そのルーツは収穫の秋を祝う豊作祭であったに違いない。もともとは旧暦九月二十九日の祭りだったのが、大正二年から十月二十九日に変わり、さらにそれが「やっぱり時代でねえ、昔はおくんちといえば学校も休み、商家も休みが当たり前だったのに、だんだんそうもいかなくなって昭和四十三年から現行の十一月二、三、四日に改められたわけだよ……」 と、いささか残念そうに語ったのは唐津神社宮司・戸川省吾だった。もう十六、七年前に聞いた話だ。
日にちは"御九日(おくんち)"からずれてしまったとはいえ、収穫祭の本質には変わりがないから、新穀で醸(かも)した神酒(おみき)を新米の御飯とともに神前に供え、人間もたらふく飲み且つ啖い、おかげさまでこんなに豊作で存分に頂戴いたしました…と神徳に感謝する行事、それが唐津供日である。 唐津のおくんちは三月(みつき)分の生活費を祭りの三日間に注ぎ込んで盛大にもてなす「三月倒れ(みつきだおれ)」が最大の特徴で親戚、知己、その友人、そのまた友人までご馳走にあずかるところが他所(よそ)の祭りと違う。 なればこそ私のような他国者でも三日三晩飲み放題の食い放題。「食前食後に三光丸」ということになるわけだが、つい数日前、古館正右衛門著『曳山のはなし』を読み返したら、本当は「どの家に入り込んでも飲み食い自由はヤマ曳き姿の曳子(ひきこ)の特権」とあった。 友だちの友だちの、そのまた友だちでしかない他国者としては、今年は少し慎ましく…と思うが、さて、どうなることやら。 さて、どうなりましたかの、洋々閣のくんちのご報告は、例年のように、くんちが済んでから追加いたします。(生き延びましたならば。) では、みなさま、ご安全に。 (ひとり言:今月の『御挨拶』は、ひとのゴボウでおくんちをしたような気がしないでもない・・・) 11月5日 追記
11月3日。ハラハラドキドキの雲行き。けれどもスタートの花火の音がして、ホッとしました。 お昼になって焚きあがったアラに一番乗りは、嵐山光三郎先生。嵐山流気配りの極意を見せていただきました。
3日の夜は国際色豊かな宴会。ハワイから6人、カリフォルニアから4人、オーストラリアから2人、自称ウルグアイから一人。英語と日本語と関西弁と博多弁とで歌が飛び交い、私は頭痛がしてきたのでありました。締めは、博多の遊び人Y氏の艶なノドで、「祝いめでた」と一本〆。こりゃまた、粋だね。 4日になりました。陽はさしているのに時おり狐の嫁入りの雨。濡れるほどじゃないけど。街はおお賑わい。夜の宴会は談論風発。小島師匠の笛は「千越大漁唄」をしみじみと。師匠の息子、まつりくん(中1)のヤマ囃子の太鼓に博多の元気印オバサンたちの声援が飛ぶ。夜も更けたころ、魚屋町さんの飛び入りでまたも盛りあがり、レイモンドさんの太鼓入門やら、宝塚のU氏の采配願望やら、祭の余韻が続きました。 私は脚の再手術後2年たちますが、やっぱり正座がつらく、来年は着物はやめて、パッチをはいてハッピ姿になろうかな。怖いものを見たいかたは来年11月4日にご予約を。 では、さようなら。12月にお会いしましょう。ア、イタタ、アシガイタイ。お見舞い受付中。
|
|||||||||||||||||||||||||
|
|