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『にあんちゃん』の町へ ―佐賀県東松浦郡肥前町― |
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佐賀県東松浦郡肥前町は、唐津から西へ車で30分の距離にあります。
この町に行ってみたいと、長い間思っていました。一、二度通ったことはありますが、肥前町の中を巡ったことはなかったのです。 肥前町に行きたかった理由は二つ。一つは『にあんちゃん』。もう一つは肥前町出身の友人、池田カクエさん。今回、秋空の下、連休前でフッとひまが出来た日に、思い切って行って見ました。少女のように騒がしい遠足の一行は、カクエさん、カクエさんの親友の宮本ヒサミさん、私。洋々閣の花守、陽子さんが運転手。
車は真っ先に、昨年(2001年)11月に完成した「にあんちゃんの里の碑」のある、大鶴(おおづる)鉱業所の跡地へ。ここは大鶴鉱業所の事務所や入野(いりの)小学校大鶴分校などが並んでいたところで、閉鎖されたあとには一時綿織物の工場が誘致されていましたが、それも廃業、今はその一角に老人ホームが建っています。 『にあんちゃん』の作者、安本末子さんは、この分校で学び、4年生から入野本校に通いますが、本校でヒサミさんと同じクラスになります。 ヒサミさんは末子さんをよく覚えていますし、末子さんがあこがれた「多賀病院のお嬢様、千晶さん」や、担任の滝本先生、そのほか『にあんちゃん』に出てくるクラスメートたちや学校行事を詳細に記憶しています。 「あの頃は、みな貧しかった・・・ 安本さんがそんなに困っているとは誰も知らんかったし、在日韓国人だということも知らんかった・・・だからそういうことでいじめるということはなかった筈よ」と証言します。 私たちは、『にあんちゃん』の本にでてくるいろいろな場所を訪ねることにしました。
大鶴分校のあとは今なにもありません。昨年11月に同級生たちが資金を集めて建設した「にあんちゃんの里記念碑」が秋の陽射しにまぶしく輝き、目の見えないカクエさんは台座に上って手で像を探って、しっかり観察したのでした。ヒサミさん、カクエさんの名も寄付者の中に入っていました。 山にはりついたように並んでいたという社宅は跡形もなく、末子さんがお父さんの仏前に供えるために花を植えた畑もどこだったかわかりません。 仮屋(かりや)湾は細く長い入り江になって大鶴まで入りこんでいて、昔は渡し場がありました。大鶴の人たちはこの渡しをな
4000人も住んでいた大鶴も今では50人ほどに減ってしまったそうです。入り江だけが昔とかわらずゆったりと満ちていました。 次に向かったのは入野小学校。
もちろん、建て替わっています。運動場では子供達が楽しそうに玉入れをやっていました。 今はない、当時の入野村役場の跡地を眺め、次に多賀病院の跡にたたずみました。千晶さんは今東京でお幸せに
近くに光明寺というお寺があって、先代ご住職の時から大鶴の「朝鮮人労働者」の無縁仏をまつってあるということで、訪ねてみました。滝川正眞住職は、裏の山を上って、慰霊碑まで案内してくださいました。昭和33年にこの碑は建立されたそうですが、遺骨を引き取りにきた韓国の遺族はまだないそうです。ご住職は、安本喜一さんと同級生であり、「喜一君は優秀で唐津中学(旧制)に一緒に入学したけれども家庭の事情ですぐにやめたのですよ」と話してくださいました。
『にあんちゃん』には納所(のうさ)のつわ取りや菖津(しょうず)の貝掘り、晴気(はりき)の海水浴なども出てくるのですが、私たちはお昼ご飯をゆっくり食べたので時間が足りなくなり、入野方面はそこまでにして、次に高串(たかくし)方面にむかいました。 高串までくるとカクエさんの縄張りです。ここで育ったカクエさんは、中学校から入野中学校(現肥前中学校)で末子さん、ヒサミさんと同学年になりますし、2年上の高一さんのカリスマぶりも覚えています。 高串を見たかった理由は、『にあんちゃん』の中に挿入された高一さんの日記にあります。高一さんは中学一年生(12歳)で高串のイリコ製造のうちへアルバイトに行くのですが、それは大変な重労働です。もっとも、カクエさんのうちもイリコ製造をやっていたそうで、子供たちはみんな手伝っていて、その頃はそれが当然の時代だったと、こともなげに言います。 高一さんがアルバイトしたのはカクエさんのうちではなく別の家ですが、日記の中に出てくる高一さんにやさしくした多和子さんは、今も高串内におられます。少し足が弱っておられるそうで、お訪ねするのを控えました。 カクエさんと、カクエさんの高串在住のお姉さんの案内で、昔のイリコ製造で村が賑わっていたころの跡地を訪ねました。今は埋めたてられて波止場に変わり、狭い水道〈伊万里湾)の向こうには長崎県の福島が見えます。対岸の鯛之鼻炭鉱が、『にあんちゃん』の映画化の時に、すでに閉鎖されていた大鶴の代りにロケに使われたところですし、もう少し右に目をやれば、元寇の島、長崎県鷹島が見えます。 ロケ隊の一部が泊まった旅館の前を通って、私達はいよいよにあんちゃんが生イワシを荷揚げし、茹
昔はいきなり海だったところに立派な防波堤が続き、その内側の狭い道を苦労しながら走ります。人っ子どころか、猫っ子も通らず、対向車がないので助かりましたが、相当走ってから道は行き止まりました。 この辺がにあんちゃんのはたらいたユデボシ小屋だと、教えてもらったあたりには、今は狭い田んぼが作られ、刈り入れもすんだ干からびた田に、ひこばえが実り始めていました。 海に面した土地は狭く、すぐ後ろに山が続きます。ここを見る前には、にあんちゃんの日記を読んで、なんで浜にイリコを干さず、わざわざ山に荷い上げる苦労をするのだろうと思っていましたが、高串には浜はなくて、いきなり山が海に落ち込
にあんちゃんが天秤棒をかついで登った坂は今は白いしっくいみたいなもので舗装されて山へと続いていました。でも見る限り、山の上にイリコ干し場になるような平たい土地は見えないのです。すっかり木が覆ってしまって、ただの山道があるだけでした。 もう、イリコはここでは作っていないの、と訪ねると、カクエさんは「イモトのムコさんのオンジサマがた」に連れて行ってくれました。ここ1軒だけしか残ってないようです。ちょうどイワシを獲った船が帰って来るというので、イリコ製造の一部始終を見せていただきました。 今では獲れたイワシは船の水槽から太いチューブで海水と一緒に吸い上げられて50メートルくらい陸に入った工場の器械に直接送られ、洗われてミスの上にぱらぱらと並べられ、それを何段か重ねて吊り上げられ、茹でるための槽につけられ、海水の熱湯で5分ほど茹でられて、引揚げられ、ミスごとキャスター付きの棚に並べられ、乾燥室に入れられるのです。そのあと、選別機で大きさを分けられ、最後におばちゃんたちの眼と手で確かめられて箱詰めされ出荷されます。こんな器械をにあんちゃんが見たらビックリするだろうな、と思いながら工場を後にしました。
カクエさんは見えない眼を海に向けて、あれが福島、あっちが鷹島、と説明します。その方向はピッタリと狂いなく、海の輝き、島の影まで教えてくれます。子供の時にはうっすらと見えていたカクエさんのふるさとの原風景は、この海の輝きです。道と海がくっついていた高串の村で、「晴れた日は海がキラキラするけん私の目にもわかるばってん、曇りや雨の時にはどこから先が海かわからんで、何度も落ちたとよ」と笑いながら言うカクエさんの幼い日を想像すると、今よりももっとキラキラと輝いて生命力に満ちていた高串の海が私にも見える気がします。 私達は最後に玄海町仮屋へ向かい、末子さんたちが遠足に来た三島神社におまいりしました。ここもすっかり建て直されて真新しいお堂でした。 映画の『にあんちゃん』は、原作には出てこない社会的、歴史的背景を今村監督の脚本で付け加えられていて、別物のようでもありますが、映画としてはイギリスの炭鉱を描いた名画、 『我が谷は緑なりき(How Green Was My Valley)』と並ぶ名作だと思います。 主演の長門裕之さんがロケ中に盲腸になり、手術された西唐津の名医、辻義正先生と長門さんはずっとお
末子さんは結婚されて関東にいらっしゃるそうです。記念碑の除幕式には息子さんがお出でになって、とてもハンサムな青年で一流の出版社に勤めておられるとか。末子さんの日記は、「今は、みんなでくろうをしているけれど、きっと私たち兄妹四人の上にも、明るいともしびが、いつかひかると信じています。」で終わっていますが、幸せになられてよかったですね、末子さん。 若い人たちに『にあんちゃん』って知ってる?と聞くと、ほとんど知りません。残念でなりません。 『にあんちゃん』は、今の贅沢に慣れた子供たちにぜひ読ませたい一冊です。 私達は末子さんから悪く書かれてしまったためにつらい思いをした人たちの悲しみも胸にきざみながら、帰りの道をドライブしました。傷つけるつもりなどなく、喜一兄さんにだけ見せるはずだった文章は、親に甘えたいために痛くもないのに泣く子供のような、せいいっぱいの愛情要求だと私には思えていじらしいのですが、書かれたほうには堪え難かったと思います。けれどもそれももう50年になります。書いたほう、書かれたほう双方の胸の痛みがこの波に洗われますように。ふるさとは優しく、同級生たちは末子さんの今の幸福を喜んでいます。 私達の肥前町紀行は、これでおしまいです。おみやげは出来立てのイリコ。コツソショウショウにならんごて、せっせとかじらんば。 おつきあい、ありがとうございました。また来月。さよなら三角。 |
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