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みなさま、こんにちは。今月は七夕月。唐津の織姫をご紹介いたしましょう。 松尾 鏡子 ―ひたすらに、紡ぐ― |
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そうかと思うと、ずいぶんと思い切った行動に出るときもあります。こと、織物に関すると、知らない人にでも会いに行ったり、電話をかけたりします。 私は、以前からこの人を唐津の誇りだと自慢に思っていましたから、人を連れて行って彼女の作品を見せたりしたいのですが、OKしてくれません。でも今回は、うん、と言ってくれましたので、このページに登場していただくことにしました。 お楽しみ下さい。 松尾鏡子、53歳。唐津生まれ、唐津育ち。父、勇は33年前に亡くなりましたが、美術や文学好きの歯科医でした。鏡子という名前の由来はおそらく佐用姫伝説の鏡山からだろうと思っていますが、父の生前に聞いていなかったことが心残りだそうです。
女子美術大学工芸科で後の学長、柳悦孝(やなぎよしたか=柳宗悦の甥)に織物を師事し、卒業後いったん柳の工房に入りましたが、師の勧めで柳の弟、柳悦博(よしひろ、故人)の工房に移ります。この二人の師に出会えたことが人生最大の幸運だったと、鏡子は言います。 それから30年、鏡子は織物一筋に生きてきました。その間自分に課し続けた3つの課題があります。 一つは、絹や、絣などの織物。故白洲正子さんのお店にも師に連れられて出入りしました。展覧会で、志村ふくみさんの目にとまり、ほめていただいたり、鏡子の着物や帯は何回も賞に輝き、きもの専門の雑誌や女性誌を飾ります。それと知らずに目にしておられるかもしれません。 二つ目は、鏡子が織物の原点だと思う白生地です。ノルマとして、必ず一年に一反は、白生地を織ります。鏡子の織る白生地は、その質の高さから、高名な染色家に求められ、出来あがった帯は着物通で知られる女性たちに愛好されていることが、最近の女性雑誌に出ていました。故芹沢_介さんにも使っていただきました。 三つ目が、葛布(くずふ)の伝承と発展です。 葛布は掛川のものが有名で、鎌倉時代以前から作られていたようです。
ここで、ちょっと、引用。 天保11年(1840年) 大蔵永常という人が草した『製葛録(せいかつろく)』より。 夫(それ)葛は丘山林野に自ら生じ、清浄清白にして毒なく、薬種ともなり、飢渇を助くるの大益あり。先(まず)第一野山に近き窮民は、常に是を堀りて葛粉に製し、市(いち)にひさぎなば利を得ること多し。・・・・と、葛が食料として、また生計を助ける商品として、その蔓は繊維として、いかに役立つかを説いてあります。『製葛録』の総論の最後には、「又末にしるす葛布を織ることは其処(そのところ)の女の職となり、袴(はかま)合羽(かっぱ)の類を織出すやうになりなば、是また処の繁昌(にぎはふ)べき一助となるべし。」と結んであります。そして葛の根の掘り方、粉にする方法、食料や薬にする方法、そして最後には、葛の蔓の採取から糸の作成、織り方まで、ていねいに論説してあります。 この書物には、葛布を作るところは掛川しかない、と書いてありますが、袴や裃、合羽などを産した掛川の葛布と違って、実は唐津の佐志(さし)地区に伝わるもう少しプリミテイブな葛布があったのです。
卒業したてのころ、鏡子は、佐志に伝わる葛の繊維を使った布が消えかかっていることを知り、伝承を思い立ちます。 佐志に住んでいたころ葛布織りを覚え、当時は80代で伊万里の木場に住んでおられた末長スマおばあちゃんにつきっきりで葛布の全工程を学びます。おばあちゃんは、いやがりもせず、この押しかけ弟子にていねいに葛の採取から、糸にして、地機(じばた)を使って身体全体を道具と一体にして織り上げるまでを教えます。道具などももはや失われていて、おばあちゃんがあるものを利用して工夫したものを使ったそうです。 再び引用です。昭和40年に福岡の野間吉夫というかたが私家版で100部出された『佐志の葛布』という貴重な書物より、宮崎マセさん(当時75歳)のお話しの聞き書きです。唐津弁の中でも西の方の、庶民の方言がおわかりになりますかしら。「ン」と小さい字で書いてあるところは、「の」ということばに置き換えてお読みください。おどま、とか、おどん、というのは、私達、という意味です。 シキノ織り (シキノとは、敷き布のことで、蒸籠(せいろう=蒸し籠)の下に敷く網目の粗布のこと) いまここんねきは唐津市になっとるばってん、前は佐志村じゃったです。海ばたじゃありますばってん、昔からみんな農業ばしとります。漁師町はこんさきの唐房(とうぼう)じゃったですばい。
シキノはタテ糸もヨコ糸もカンネカズラ(葛蔓)を使うちょります。カンネカズラは後ろン山にいくらでんあっけん、若っかときゃ自分達で行きよったばってん、いまは上場(後川内、山道、田代)ン人たちが使い銭とりに下っちきちくれらすごとなりました。七月から九月ごろまじ、アイマハザマでとらすとじゃろう。そいから前にとったっちゃまだ若うして、また十月になっと古うなって役に立たんごとなりました。むかしから夏の土用のうちにとったもんが一番よかち云うもんでした。カンネカズラは上へたっちょるのじゃなく、ジダにほうたとでなきゃ役にたちまっせんじゃった。一斤のクズ(カンネカズラ)ばとるのに二回ぐらい行かにゃからわれんかったです。そいで、からうのは男ンしが加勢すっこともありましたばってん、おなごしがおもじゃったですよ。 中略 (ここから、カズラを蒸し、身と皮をはずし、日陰に三日おいてときどき水をかけ、皮がむけたら川にさらして、しごいて、クズ(糸)にし、塩水につけ苧んで糸車にかけ、撚りをかけて枠にとって日に干す。いよいよ機にかけ一反を三日ほどで織り上げる工程が説明される。)
いまここんねきでシキノば織るもんが四、五人おらすばってん、みんな七十から上の年寄りばっかりで、若かおなごたちゃシキノ織りなんか習わっさんけん、おどんがおらんごとなりゃシキノものうなっとじゃろう。 その後、昭和58年に、鏡子は93歳になっていた上記の宮崎マセおばあちゃんから、佐志葛布の綟織り(もじおり)を伝承し、地機を復元します。マセさんは、自分ではモジ織りは織っていなかったけれども、子供の時からお母さんの機織の手伝いで見覚えておられたそうで、滅びる寸前でこの技術が伝承されたことは、大切なことだったと、鏡子はふりかえります。
それからも、鏡子はあくなき探求心で、葛布の新しい織り方に挑戦し、他の追随を許さない作家となりました。近年挑戦しているのは、いったん織った絹布を絞り染めにしたあと、もう一度糸を引き抜いて葛の緯糸(よこいと)で織りなおす方法で、気の遠くなるような作業ですが、どうやって織るのだろうと専門家たちに不思議がられる作品が生まれています。 「鏡子さん、あなたは天才よ」と私が言うと、鏡子さんは強くかぶりを振って、「私は運がよかっただけよ」と言いました。 「運だけじゃできないことよ、才能がなきゃ」と私がいうと、鏡子さんは静かにこう言いました。
「東京の姉から、あんたみたいに粘り強いひとはいない、と言われたことがあるけど、そのとき、ああ、わたしは粘り強いのかな、それで、この仕事に向いているのかな、と思ったのよ。私は不器用だから、ねばることしかできないの」 葛の蔓は煮たあと何日かねかせて発酵させるわけですが、その作業工程をひとつひとつ丹念にこなしていく工芸家、松尾鏡子は、彼女の小さな繭のような工房で発酵し、光沢を放って、人生をつむぎ、また、先人の知恵の積み重なりとしての過去をひたすらに紡いでいるのでしょうか。 もし、このページを読まれたかたで葛布に興味をもつかたがあっても、決して私を探さないで、と、やっぱり内気な鏡子さんの伝言です。 葛の蔓はもうさかんに伸び始めました。花は初秋に咲きます。秋の七草にも入っている葛。私は葛布はつくれないけど、もっぱら風邪の初期には葛根湯、夏のおやつは、冷たい葛きりに黒蜜をかけて・・・。 どうぞ皆様、暑い夏を葛の蔓のように元気でお過しください。 |
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