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花も咲き急ぎ、散り急いだこの四月、歌人の斎藤史(さいとうふみ)先生が亡くなられました。九十三年の「ひたくれなゐ」のご生涯でした。 十何年も前に一度おとまりになっただけですが、暮れなずむ梅雨の浜辺をご案内して桜貝をひろって差し上げたのを喜んでいただいて以来、ずっとお心にとめていただいておりました。
その時に書いていただいた色紙、 「つゆしぐれ信濃は秋のおばすてのわれを置き去り過ぎしものたち」 を、ある年の秋に掛けておりましたら、高橋睦郎さんが見つけて、「あれ、史さん、来たの?」とおっしゃって、その後何かの授賞式で同席されたとき洋々閣の話しがはずんだそうです。 数年前、史先生が芸術院会員におなりになったときには、お祝いに唐津の魚をお贈りして、喜んでいただきました。長野県にお住まいでしたから、海へのあこがれはお強かったようです。 「疲労つもりて引出ししヘルペスなりといふ八十年生きればそりやああなた」 という歌が話題になった、ヘルペスに罹られてからの数年は、指に力が入らないとおっしゃって、鉛筆書きのお便りでした。そして乳がんを病まれてのここ数年は代理の方の筆跡でした。 一番最近の『風翩翻』いう歌集がすばらしいから読みなさい、と、高橋睦郎先生に云われて、でも在庫切れで買えないでいた矢先の訃報に、もっとお魚をお送りしておけばよかったと、悲しみました。 歌人斎藤史を語るには、ニ・ニ六事件との関わりやその他の昭和史というものを深く勉強しなければいけませんし、なにより短歌に造詣が深くなければいけませんので、私にはできません。ただ、当時すでに70代半ばでいらした史先生が、大柄のしゃきっとしたお体を黄色のヒラヒラしたワンピースに包んで、髪をフワフワさせて、浜辺を少女のように喜んで歩きまわられたことを、私だけが知っているのはもったいないと思うのです。ほんのちょっとした証言として、史先生を偲ぶかたに読んでいただければ幸いです。 斎藤史先生が『女人短歌』にも投稿されていたころ、やはり津田治子という歌人がいました。年は治子の方が3歳下だと思います
歌論は私の力の及ぶところではありません。私が読んだ治子に関する本といえば、『津田治子の歌と生涯』(川合千鶴子ほか著 1979年古川書院),『忍びてゆかな』(大原富枝 1982年講談社)と、昨年春に出た『歌人・津田治子』(米田利昭 2001年沖積舎)だけですし、短歌をなさるかたなら津田治子をご存じでしょうから、ここには治子の生涯にはふれません。私が涙なしで読めなかったいくつかの歌を並べてみたいと思います。 現身(うつしみ)にヨブの終りの倖(しあわせ)はあらずともよししぬびていかな 命終(めいじゅう)のまぼろしに主よ顕(た)ち給へ病みし一生(ひとよ)をよろこばむため 身の置き処(ど)なくふるさとを出しより苦しみしばかりとも言ひがたし まがなしく光る蛍よいつよりか掌(て)の感覚も失はれたり 次の世にいのちゆたけきをみなにていく人もいく人も吾は生みたし 音絶えてただひたすらに降る雪よ父と母とが生きてあるごとく ただひとつ生きてなすべき希ひ(ねがい)ありて主よみこころのままと祈らず 〈しぬびていかな〉は、大原富枝の小説『忍びてゆかな―小説 津田治子』のタイトルに取られました。
治子は明治45年3月5日に呼子町で生まれました。本名は鶴田ハルコ。隠しとおした本名と原籍地は没後に研究者によってあきらかになり、もう呼子には関わりのある人が一人もいないということで発表されました。 治子の歌 くるしみのきはまるときにしあはせのきはまるらしもかたじけなけれ は、歌碑となって、呼子町尾上公園の呼子ロッジの前庭に海を背にして建っています。歌碑は昭和59年に呼子町の歌人久住滋巍(ひさずみしげき)氏によって建立され、裏面には治子が生まれ故郷を歌った歌、 父の郷(くに)わが生まれたる松浦郡呼子の町が見えて恋(こほ)しき とともに治子の生涯を説明してあります。
ハンセン病のかたたちには昨年やっと遅すぎる解放が訪れましたが、その頃の新聞報道を読みながら私はずっと津田治子を思っていました。私にはあまりに重いテーマですので、書くことはできないだろうと思っていましたが、津田治子をインターネットで検索するかたにせめて歌碑の存在だけでもお知らせしたいと思って書きました。 私が歌碑の撮影のために呼子町を訪れた日は、5月の半ばだというのにもう梅雨模様の空でした。斎藤史先生を偲び、津田治子を思って、ここにささやかな哀悼を捧げます。 合掌 |
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死の側より照明(てら)せばことにかがやきてひたくれなゐの生(せい)ならずやも ―斎藤史 |
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