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まいろうやな〜ア ―二十六聖人と木屋利右衛門―
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「まいろうやな〜、 パライゾの寺へは、詣ろうやな〜・・・・」 初めて聞く不思議な歌でした。1997年の2月初めだったと思います。 いつもは、興がのられると、朗々とした声で歌いあげられる詩人の高橋睦郎先生が、哀切の旋律でこの歌を歌ってくださったのです。 「パライゾの寺って・・・、隠れキリシタンの歌ですか?」と、オズオズと私はお尋ねしました。胸に緊張が走りました。いつもと違う先生でしたから。 うなずいて、先生は話してくださいました。「あさって、長崎で二十六聖人殉教の像の前で、詩を朗読することになっています。舟越保武さん(彫刻家、二十六聖人の碑の作者)が二十六人の生涯をなぞって一つ一つの像を敬虔に造られたように、私も二十六人の生涯を二十六の詩にしました。その祷りの詩の朗読の前に、この生月(いきつき、長崎県の隠れキリシタンの島)のオラショを歌って見ようかと思って・・・・」 私はどんなに行きたかったことか、でも、部外者でしたから、当日の長崎二十六聖人殉教400年記念の『舟越保武展』の式典には、行けなかったのです。 二十六の祷りの詩は、その2年後、1999年に美しい本になりましたので、読む事ができました。一人で読んでいるのに、高橋先生の朗読が聞こえてくるような気がしました。 その本の後書きの中で、私の目が釘付けになったのは、慶長元年十一月二十一日堺を発した捕縛の旅の”道行き”の道程の中に唐津があったからです。「もしこれがヨーロッパのカトリック国なら、列聖された二十六人もの殉教者の道行の宿泊地ごとに小さな聖堂が出来、そこを巡る巡礼の道が出来ているはずだ、とそんなことも思った。」と、高橋先生は書いておられます。 唐津には、二十六聖人を偲ばせるなにひとつない・・・、それが心の痛みとなって残りました。 ところが、私が知らなかっただけで、実は素晴らしい本が、1997年の9月に出版されていました。1997年9月1日限定1000部の非売品として古舘氏が出された『木屋利右衛門』がそれです。古舘六郎氏は大正9年唐津生まれの高名な俳人で、号を曹人(そうじん)とおっしゃる方だといえば、きっとお分かりでしょう。 木屋利右衛門とは? 二十六聖人との関わりは? それが今回私の書きたいことです。古舘氏の記述や、その本の中の引用や、高橋先生のご本をとりまぜて書かせていただきます。間違いがありましたらご教示をお願いいたします。 1597年、秀吉の禁教令により京都で捕らえられた二十六人(フランシスコ会の司祭、修道士スペイン人、メキシコ人、ポルトガル
その行程の、旧暦12月15日(1597年2月1日)、一行は唐津に入っている。 筑前の加布里或いは深江から乗船し、魚屋町(うおやまち)の北入り口にて上陸、材木小屋で一泊したと伝えられるも、小屋ではなく、木屋利右衛門の魚屋町の材木商の店舗、即ち母屋であったのである。当時の唐津の家としては最高級のものであり、船頭利右衛門が密かに厚遇したものである。 では、木屋利右衛門とは誰か? 泉州堺の住人木屋利右衛門は、秀吉の命を受けて、天正十九年(1591年)、名護屋御陣材木運搬船頭として唐津大石町に移住した。その後徳川300年、寺沢、大久保、各藩政時代、苗字、帯刀を許され大いに栄えて日本の豪商の一つに数えられている。木屋の一族は、本家西ノ木屋、を筆頭に分家東ノ木屋、中ノ木屋、奥ノ木屋、角ノ木屋等として唐津に傘下を張り、連綿として繁栄して今日に至っている。木屋山内家の七代均斎は、古屋古舘家から養子に入った人であり、松浦党の系譜の古舘家はいったん途切れるが均斎の子によって再興、現在に至る旧家であり、曹人古舘六郎氏はこの古舘家の出である。 木屋利右衛門とともに二十六聖人の道行きに関わるもう一人の唐津の人物は、城主寺沢志摩守の弟で名護屋奉行であった寺沢半三郎である。唐津から長崎までの最後の五日間を護送にあたっているが、捕われの一人、イエズス会修道士パウロ三木と少年時代に親交のあった人であり、キリシタンに対する理解もあったとされ、情をもって一行に接したようである。中でも13歳のアントニオに助命のために棄教をすすめるが、アントニオは凛として断ったと伝わっている。 一昨年(2000年)10月に、松浦文化連盟により、唐津市魚屋町の二十六聖人上陸の地に石碑が建立されました。 この3月、おそまきながら私はその場所を初めて訪ねました。今は川筋も変わり、川幅も狭くなって当時の面影はない町田川に、歴史的には由来はないものの歓楽街の活性化のために近年木造の江戸風の橋がかかり、その魚屋町側の岸辺にひっそりと碑は立っていました。車の通る道から離れているためか、通る人もなく、菜の花の一叢で荘厳された碑の前で、私は小さな声で高橋睦郎先生の祷りの詩の第十番を朗読しました。クリスチャンでなくとも胸がつまりました。私はイエズス会によって始められた大学で学びましたので、司祭や修道士についてある程度は知っているつもりです。400年の過去と現在とをつなぐ千鳥橋を渡って帰りながら、私はオラショをつぶやきました。 「・・・広い、狭いは、わが胸にあるぞやナ・・・」
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