#19   平成13年10月  


蒙古襲来  その時、唐津は

―松浦党のこと―




秋が深まってまいりました。さわやかな中にも、神風が吹いたりして、蒙古襲来の時期って、この頃だったのでしょうね。唐津は肥前国松浦の地、松浦党の本拠地の一つです。NHKで時宗さんががんばっていますが、ここでは前にこのページに執筆していただいた郷土史家の善達司和尚様に、もう一度ご登場いただきまして、蒙古襲来時のこの土地のお話をしていただきます。
秋の夜長に、小さな歴史紀行をおたのしみください。



蒙古襲来と松浦党

石志 兼(いしし かぬる)の遺言状


善 達司  (安養寺 住職)


 蒙古襲来! この時、直接襲来地にあたる松浦地方の人々は、どのような心境であったろうか。その昔、クセルクセス王の十数万のペルシャ軍のギリシャ攻撃を前にして「世界の果てまで逃げろ」というデルフォイの神託を拒否して、敢然とペルシャ軍と戦ってこれを破ったギリシャ人の心境に相通じるものがあったことであろう。
 さて、ジンギス汗から五代目の蒙古王となったのがフビライ汗であるが、その間、「滅ぼすところの国四十、殺戮数うべからず」といわれ、また高麗も「州都ことごとく灰燼に帰し骸骨野原を覆う」といわれる程に、約三十年間、蒙古軍と戦ったが、文永元年(1260) 遂に降伏した。次にフビライ汗は日本征服に乗り出し、文永三年から文永九年の間に五回にわたって使者を大宰府に派遣して降伏を迫ったが、その国書の中の「相通好せざるは豈一家の理ならんや。兵を用いるに至る。それいずくんぞ好む所ならん。王、それ之をはかれ。」という文句に鎌倉幕府は怒り、返書を与えず、遂に両国は衝突したのである。

 さて、鎌倉時代には唐津地方に松浦荘という広大な荘園があり、その中に幕府の御家人であり、また地頭に任命されていた佐志氏、神田氏、石志氏、波多氏などの武士が住み、彼等を松浦党といい、それぞれ所領を持っていたが、また高麗とも貿易し、時に海賊化するときもあった。その彼等の所領地が直接蒙古軍に侵略される時、彼等は一所懸命とばかり命をかけてその所領を守る必要があった。当時、有浦方面は佐志房(さし ふさし)の、呼子方面は石志兼(いしし かぬる)の所領で、ここでは石志兼について述べたいと思う。

 文永十一年(1274)十月三日、高麗合浦を出港した九百隻、約三万五千の蒙古高麗軍は、十月五日対馬を襲って守護代平景隆を討ち、十月十七日、その一部が有浦、星賀、呼子方面の沿岸に上陸し、石志氏、佐志氏、等の松浦党と激戦を展開し、十月二十日には博多に上陸したのである。史書に「肥前松浦党数百人、或いは戦死し、或いは俘となり、里民害にあうことニ島(対馬、壱岐)の如し」とあり、有浦、呼子方面での激戦ぶりがわかる。
台風前の呼子港 写真提供 呼子ネット様


 さて石志文書の中に、石志兼の遺言状がある。日付が文永十一年十月十六日で蒙古軍の呼子上陸の前日であり、その大意は次のようである。

 「石志と呼子は私(兼)の先祖伝来の私領である。このたび蒙古人との戦争に長男の二郎を連れて呼子に出陣したが、無事に生き長らえることも難しいと思うので、石志と呼子は弟の四郎に遺産相続させる。しかしもし二郎が無事だったら、勿論、二郎に相続させるものである。」

 武家の当主にとって当主の死後に一族が遺産所領の相続争いで分裂状態になる事が、何よりも心配であった。対馬、壱岐も全滅という情報に、石志兼も覚悟をきめ、呼子の陣中で書いたのがこの遺言状であり、恐らく嫡子二郎も父の側に座し、万感胸にせまる思いで、遺言状を書き続ける父の横顔を、涙と共に眺めていたのではないだろうか。その翌日の十月十七日、怒涛のように押し寄せた蒙古軍との戦いで、二郎は戦死し、父兼は生き残ったのである。そして、文永の役の七年後に襲来した弘安の役にも兼は無事生き残り、前の遺言状に再保証をしたが、それが石志文書にあり、その日付は弘安四年七月十六日である。
石志兼の遺言状 文永11年10月16日付


 「このように四郎に相続させる事にきめたので、今後どのような者が出て来ても、四郎より外には相続させない。」


 この再保証の文をしるす時、元軍との戦いに明け暮れて忘れがちであっただろう嫡子二郎の顔が、父兼にはあらためて思い出されたことであろう。



 
 善和尚様、ありがとうございました。前に書いていただいた「虹の松原一揆」のことをお読みになりたいかたは、こちらからどうぞ。

このご文章をいただいてから、久しぶりに石志(旧鬼塚村、現在は唐津市)へ行ってみました。石志は、主人の義理の叔父、故大河内嘉市(旧姓 太田)の在所です。まだなんとか元気だったころ、一日、甥や姪が集って、叔父を霧差山(きりさしやま)へかつぎあげました。脚が弱っていた叔父の書き散らしの詠草に、

    古里の霧差山に今一度登らむ日のためさする細脚

 という歌を見付けたからです。霧差山の上でお弁当を広げ、秋の一日を満喫しました。それからまもなく叔父は入院して、ふたたび霧差山に登る事はなかったのです。
霧差山のふもとに広がる石志の田園

 霧差山、なんとやさしい響きでしょう。ふもとには、豊かな田園が広がります。やはり叔父の歌に、

    さ霧立つ霧差山の麓辺に鍬音ひびく田にも畑にも

 という、誇らしげに古里を詠いあげたものがあります。きっと、叔父だけでなく、石志の人々の共通の思いだと感じます。この田園はその昔、石志兼が守り育てたものだったのですね。
ここに立って、黄金に実り始めた稲穂を見て、さわさわと通りぬける秋の風を聴いたとき、なんとも言えぬ胸騒ぎと悲しみを感じました。「蒙古軍が攻めてくる・・・」
 時代を超えてそんな錯覚に襲われたのは、先日来のアメリカのテロのニュースで、戦争の勃発をおそれているからでしょうか。どうぞ、この美しい田園がいつまでも踏みにじられずに残りますように、石志兼の気持ちになって、祈ります。

    こがねなす稲穂を照らす秋の陽の光あまねく村は幸おう (大河内嘉市)

 それでは、皆様、また来月のゲストをお楽しみに。ごきげんよう。

  

洋々閣 女将
   大河内はるみ

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