江戸時代 
虹の松原百姓一揆


善 達司(唐津市東唐津 安養寺住職 郷土史家)

 洋々閣のすぐ近くの安養寺は、浄土宗のお寺です。
 住職の善和尚様は、教育者であり、郷土史家です。
今回、和尚様にお願いして、
虹の松原一揆のことを書いていただきました。
私たちは、虹の松原を唐津の宝として、
その自然と歴史を共に守って行きたいと思います。


安養寺の説明
  このページは、洋々閣のホームページの一ページです。

鏡山から虹の松原を望む


























現在の唐津城


























 長七年(1602)今から約四百年前、唐津藩主寺沢志摩守広高により唐津城が築かれたが、今その苔むした石垣に囲まれながら、長い石段を登って唐津城跡の頂上に立った時、旅行者は眼下に広がる雄大な、また美しい自然の眺めに思わず歓声をあげるのではなかろうか。 北の方には青々とした玄海灘が広がり、それは遥かに壱岐、対馬、朝鮮半島につながる歴史の海のルートであり、東の方には筑紫山系の山々を背景として、大きく弧を描いた白砂青松の景色が展開する。 それは絵のように美しく、本当に「天然の美」という歌そのものであるが、この青松が日本三大松原の一つと讃えられた虹の松原で、神功皇后や佐用姫伝説に包まれた鏡山の下に広がる塩屋新田を守るために、寺沢広高により植林保護され、以後代々の唐津藩主によって守られてきた虹の松原である。 江戸時代には二里の松原といわれた程の広大な黒松の松原である。 この松原の中に, 約一万五千人の唐津藩の農民が集結し、一糸乱れぬ団結によって、一滴の血も流さず、その要求を勝ち取った農民運動があった。 これを「虹ノ松原百姓一揆」というが、当時は「松原寄り」とよんだ。 明和八年(1771)七月の真夏の屯集であったが、それは唐津藩時代の最大の事件であり、幕藩体制を根底からくつがえす程の大事件であった。

 戸封建社会の政治体制を「幕藩体制」というが、それは「農民への重税の上に打ち立てられた支配体制」で、江戸時代も元禄頃までは士農工商間の経済的安定が保たれ、それを背景として華やかな元禄文化が形成されたが、やがて大名達の経済的不安定化と共に、農民層への重税化が進み、生きるための最後の手段として、農民達は百姓一揆をせざるを得なかった。 特に享保年間頃から全国的に百姓一揆が頻発してくるが、唐津藩でもその例外ではなかったのであり、この時微妙な立場に立ったのが庄屋達であったのである。

 津藩の大名家は寺沢氏、大久保氏、松平氏、土井氏、水野氏、小笠原氏へと代わり、やがて明治維新を迎えるが、宝暦十二年(1762)土井利里が下総国古河へ転封し、代わりに三河国岡崎藩主水野忠任が入部するが、この時浜崎方面一万石が天領となり、唐津藩の知行高は六万石(表高)に減封になり、その天領との境界が松原内に作られた。 このため唐津藩水野忠任の財政は苦しくなり、以後毎年約一万両の財政赤字に苦しみ、早速農民への増税政策が計画され始めたのである。 その新増税の内容は次のものであった。
  • 一、永川の事(遊水地への課税)
  • 一、御蔵米桝の事(霜降といい、桝に米を積み上げて一升とする)
  • 一、御指米の事(品質を調べるために俵に竹をさして米を出す)
  • 一、御用捨お取上げの事(水洗、砂押といい洪水で耕作が出来ない土地にも課税)
  • 一、楮お買上の事(楮を専売制度にし市価より安く藩が買上げる)
  • 一、諸運上の事(いろいろの新課税)
 以上の六項目で、これらは寺沢氏以来の慣習を無視するもので、もし実施されたら、農民の生活は成り立たないものであった。 この様な状況下に起こったのが金助、吾助事件であり、明和四年(1767)藩主水野忠任が佐志方面の巡見中に、この二人の兄弟が農民の生活の苦しさを直訴したが、直訴は重罪死刑という名の下に、やがて西の浜処刑場で二人とも死刑になったのであり、藩の重税政策は何等変わらなかった。 この様な情勢をみて、もう百姓一揆という実力行使以外には、藩の新増税政策を撤廃させることは不可能であると痛感した人が、平原村(ひらばるむら)大庄屋の冨田才治(とみたさいじ)であった。

 は冨田才治とはどのような出自の人であったろうか。 彼の祖先冨田重久は中国地方の豪族尼子氏の重臣であったが、尼子氏が毛利元就との戦いに敗れた後、重久は当時、浜崎、鏡方面を支配していた草野氏をたよって来唐し、草野鎮永が豊臣秀吉に滅ぼされた後、寺沢広高の唐津藩成立と共に、重久の孫定雄が平原村の大庄屋に任命され、その六代目の大庄屋として任命されたのが才治であり、延享元年(1744)廿一才の時であった。彼は農民に非常な愛着をもち、また自ら民間塾を経営して農民の啓蒙にあたり、彼自身は陽明学者として「吐血論」「夢の説」などの著書がある。

 藩体制下の農村は、地方三役といわれる庄屋、名頭(組頭)、百姓代と一般農民によって形成され、特に唐津藩の庄屋の権限は強く、一般農民の利益を守ろうとしたので、各藩主はその弱体化を図ろうとした。 その結果「転村庄屋制」を採用し、そのため「砂子の席論」や「蓮光寺寄り」などの事件があったが、水野忠任の新増税政策に直面し、悩む庄屋達を指導し、ひそかに百姓一揆にまで結集させていったところに冨田才治の偉大さがあり、いざという時に自己自身を犠牲にしても農民の利益を守ろうとする限りない農民への愛着が根底にあったのである。
そして、一揆計画の相談相手となったのが、半田村(はだむら)名頭の麻生又兵衛、市丸藤兵衛、常楽寺住職の智月和尚であったといわれる。

 て、唐津藩が一揆勃発の報告に大騒動を始めたのは、明和八年(1771)七月廿日の早朝であった。 鏡村郷足軽の第一報は「何者か存じ奉らず候え共、百姓と相見え、蓑、笠、袋、鍋の類を荷い、腰には面々鎌をさし、、鏡が原を押通り、虹の松原に屯ろつかまつり候、その勢七、八百人と相見え候故、直ちに彼の地へ馳せ向い、何者なるかと咎め候えども、一向に答え申さず、あまりに不審に存じ奉り候間、御注進申し上げ候」であり、第二報は「先刻申し上げ候通り、松原へ集合せる百姓共、只今推計り候所、その数六、七千人と相見え、その外、久里村の長堤、或いは玉島川の方より押出す人数、かぞえ難く、御注進申し上げ候」であり、以後次々に各村より報告が唐津城中にあったが、その内容は「一夜のうちに村方を引き退ぞき、行方不明に相成り候故、とくと吟味つかまつり候所、虹の松原御料境へ集合つかまつり候」というものであった。 この事より見て、百姓一揆の計画は藩側には勿論、村役人達にも気付かれない様に、秘密裡に行われたわけで、ここにも冨田才治の指導力が十分に発揮されたわけである。 実はこの一揆の一週間前、即ち七月十二日に藩内全農村に密書が廻されている。 それは前述の六項目の廃止が一揆の目的である事を述べ、さらに「その外何品によらず、御先代お仕置きの通り願立て候間、当月廿日明け六ツ時より、虹の松原の御料境へ御出張なさるべく候、但村役人には堅く御沙汰御無用の事 明和八年七月十二日」と述べている。さて、この様にして一揆が勃発し、天領との御料境に約一万人の農民が集結し、気勢をあげたわけであるが、唐津藩では彼等が城下に乱入する事を恐れ、大手口、新堀渡し口、札の辻、町田口、名護屋口を封鎖したが、農民達は七月廿日から廿四日までの五日間、御料境の松原の中で頑張ったのである。 それは暑くて長い真夏の五日間であったが、その集団の所々には、次の七項目を書いた立札が立てられていた。
  • 一、無益の事で上に雑言すまじき事
  • 一、役人より引取れとの命令あるとも無言の事
  • 一、同志喧嘩、一切すまじき事
  • 一、疑わしき者入り来れば、直ちに拷問すべき事
  • 一、願かなわずば、何様の難儀になれども一人も退ぞかぬ事
  • 一、一人でも捕われたら、申し合わせの通りすべき事
 上であるが、これらはすべて冨田才治の心遣いで、取締りに来た藩側の挑発にのって団結が乱れない様に、また農民に一人の犠牲者も出ない様に等、一揆集団が烏合の衆化せず、一糸乱れぬ団体行動がその目的を達成するための唯一の方法である事を農民達に示したもので、また彼自身相当な軍事学の知識を持っていたのである。

 領境で一揆が勃発したという報告に、佐賀藩や小城藩は警備のために藩境に兵を出し、また日田代官所からも調査のために代官が出張してくるという噂が唐津城下に広がった。慌てた藩側は、一刻も早く一揆を解散させなければ、天領に迷惑をかけたということで、唐津藩が幕府より処罰される事になるので、遂に唐津藩は藩内の大庄屋、及び天領横田村大庄屋達にその仲介を頼み、彼等は農民達に一揆の要求は必ず藩側に承認させる事を約束し、ともかく解散するように説得、農民達も納得し、七月廿四日午後五日間の「松原寄り」即ち虹の松原百姓一揆は一応解散し、一万五千の農民達は各村々に引揚げて行ったのである。実はこの五日間の屯集中に、唐津藩内の浦々の漁民達も、漁業にかかる重税の軽減を要求し、各浦々により漁船に乗り、天領境の海岸に上陸して農民一揆に合流し、この一揆があたかも農漁民一揆という性格を持ったのである。
 
 て、これからが大変であった。 大庄屋冨田才治を中心とし、桜井理平、大谷治吉、古館などの大庄屋達の代表は、連日唐津城下で藩側の郡奉行、代官と新増税政策の全面撤回を求めて交渉したが、農民が解散して安堵した郡奉行達はいつもの高圧的態度に変わり、交渉は難航した。これを知った農民達は再び御料境に集結して一揆をおこす気配を示した。これを背景として冨田才治等は最後の交渉を行い、遂に八月九日、唐津藩は新増税政策の全面撤回を大庄屋達に申し渡したのである。これは藩側の屈伏であり、面目丸つぶれであった。 これを知った農民達は野外で踊り、漁民達は船端をたたいて踊り、郷中一同万歳をとなえて喜んだといわれている。この様に一滴の血も流さず、農民の要求が完全に認められた百姓一揆は殆どないのである。

 の様にして虹の松原一揆は終結したが、藩側にとっては面目丸潰れであり、これには相当な人物が指導計画したものであると考え、その指導者なりとも探索処罰しなければ、今後の藩政に支障をきたすであろうと思い、以後その指導者の強引な探索が行われ、農民たちは落ち着いて農作業も出来ないほどであった。 この様な情勢に冨田才治もこれ以上農民に迷惑をかけられないと思い、ついに他の三人と共に自首し、明和九年(1772)三月十一日西の浜で処刑されたのである。 年四十八才であった。 そして虹の松原満島西口のところで晒し首になったが、そこには満島共同墓地があり、その前を唐津街道が通っていたが、処刑直前の辞世として、「種植えて土にもどるや土くじり」がある。 身は大庄屋でありながら、あくまでも農民としての自覚、農民への愛情をひしひしと感じさせる辞世である。 やがてその晒し首の場所には、藩内の農民、漁民たちがその一身を犠牲にして自分達を救ってくれた冨田才治への感謝と供養のために、石の地蔵を祀り、小さな御堂を建てたが、それを首塚地蔵といった。 そして盆、正月には「シャージ様まいり」といって、多くの農民、漁民達が参詣し、香華が絶えなかったが、大正、昭和にかけ、東唐津駅の建設、その拡張のため、首塚地蔵堂は何度か移転させられ、現在は東唐津二丁目の安養寺境内に祀られている。

 後に、水野家の四代目の唐津藩主となった水野忠邦が、文化十四年(1817)浜松藩に転封し、代わりに小笠原長昌が入部した時、浜崎方面の天領は対馬藩領となった。 そのため今までの天領境には「是より東は対州領」と深々と彫られた大きな石柱が建てられ、それが現在も残っている。 その石柱の横に立つと、今から約二百年前、一万五千の農漁民が一揆のために集結し、藩権力と対決した五日間の決死の鼻息が、松風とともに轟々と聞こえてくるようである。



六月の虹の松原に咲く
つつましい花たち





ニワセキショウ

アザミ

     

冨田才治顕彰碑
(浜玉町平原中川谷)

ヒメジョオン

ヘビイチゴ

どくだみ

松原内部

コバンソウ


安養寺境内の首塚地蔵

チガヤ

「従是東對州領」石柱

ハンゲショウ
    今回ご執筆いただきました善和尚様に厚く御礼もうしあげます。
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