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米国大統領への手紙―市丸利之助中将の生涯
                        

                       仁部四郎


                                    
この一文は佐賀県立唐津東高等学校創立100周年記念誌『鶴城』より転載させていただきました。
(平成11年10月16日発行)


  *「利之助」は、「りのすけ」と読みます。 

 平成7年9月号の雑誌・新潮に、平川祐弘氏が寄せた一文の表題を、そのままこの小文にお借りした。
 平川祐弘氏は1991年まで比較文化論専攻の東大教授であった。新潮の一文と他の二編を合わせて、1996年に『米国大統領への手紙』が新潮社から刊行された。
 この本は、県内の日刊紙でも取りあげられ、1996(平成8)年3月13日には、福岡大学教授大嶋仁氏が「『文人』として生きた市丸中将」という一文を佐賀新聞に寄せ、また同月30日の朝日新聞、佐賀版の「肥前色かたち」でも紹介された。私も拙文を同日の唐津新聞に寄せた。
 1996年6月23日には、市民有志が資金を調達して、平川祐弘氏を招いての講演会が唐津市近代図書館で開催された。

 市丸利之助海軍中将は明治24(1891)年久里村柏崎に生まれ、明治43年に旧制唐津中学校第10回生として卒業し海軍兵学校に進んだ。同期に日本医学界の大先達であった篠田糺氏(旧姓岡本・七山村出身)がいて、創立80周年記念誌に回想を寄せてもらっているが、文中に「市丸利之助君」の名がある。

 1970年に出版されたジョン・トーランドの『昇る太陽―日本帝国滅亡史』はベストセラーになったとのことであるが、この本で市丸少将(当時は少将であった。ここから市丸少将と書く)の「手紙(原文の題は、ルーズベルトニ与フル書、ここから手紙と書く)」が紹介され、日本人にも知られていくようになった。

 さて、市丸少将の生涯をたどりながら「手紙」に到着することにしたい。
 兵学校を出てパイロットの道を選んだが、大正15年、霞ヶ浦海軍航空隊で訓練中に墜落事故に遭った。右大腿骨骨折、頭蓋骨折、右股関節脱臼、顔面骨複雑骨折というまさに瀕死の重傷であった。時に34歳、階級は大尉であった。
 約4年間の闘病生活は、軍人としての将来に大きな不安を覚えさせたのか、この間に、漢詩、短歌、書等を学び人格の修養に努めたことが、「市丸利之助という深みのある人格を形成するのに寄与した」(平川著「手紙」の29ページ)と言える。
 辞職を覚悟して海軍省に出頭し、海軍予科練習生設立委員長の辞令を受けたのは昭和4年であり少佐に進んでいた。昭和5年から5年間は初代部長の任にあり、予科練育ての親となるわけである。

 部長としての教育の基本方針は、「航空兵ヲシテ克ク是等ノ性格ヲ涵養セシムルタメニハ常ニ其ノ人格ヲ認メテ責任ヲ負ハシムルニ在リト思考致シ候」(倉町秋次著『豫科練外史T』、平川著「手紙」の30ページ)というものであり、思惟の柔軟さがうかがわれる。
 『豫科練外史』には当時の生徒たちの作文がいくつも収録されて基本方針が貫徹されていたことの傍証となっていることも付記しておく。
 昭和14年には大佐であり、第一線の航空隊の司令として中国に在るが、すでに「柏邨」と号する歌人でもあった。その頃の歌をあげる。最後の一説の眼が大切なものであると思う。

        初秋のパノラマとなる三鎮の田畑蓮池民家のクリイク

 昭和17年には海軍少将であり第21航空戦隊司令官の任にあるが、この頃の作として下に記する歌がその当時広く一般国民の知るところとなっていたとすれば反響はいかなるものがあったろうか。

        化粧して娘盛りのわが妻が人込みをゆく夢を見るかな

 昭和19(1944)年7月東條内閣が総辞職して日本の劣勢はだれの眼にも明らかであったが市丸少将が、硫黄島に海軍側の最高指揮官として着任した(第27航空戦隊司令官)のは8月であった。海軍は約6,000名、実動機数は15機程度であったという。
 当時硫黄島には陸海軍合わせて約21,000名が在り、総司令官は栗林忠道陸軍中将であった。栗林中将もまたきわめて深い人間性のある人であり、2人の将軍の人柄はよく溶け合って軍の士気を支えたと言われている。
 硫黄島での柏邨の歌を紹介する。

        一寸の燐寸尊く食卓の四人の煙草いざともに点く
        洞に臥す兵は地熱に凝(さ)えられてとかく熟睡(うまゐ)のとりえぬ恨み

 市丸少将には一男三女があったが、長男は千葉医大に在学中で、横浜市磯子区磯子町間坂の留守宅にはスエ子夫人と、晴子、美恵子の3人が暮らしていて、次女の俊子(昭和26年唐津高校第2回卒業)は疎開していた。その俊子への手紙もここで紹介することにする。

俊子へ
お手紙とお端書有難う。
富士山を見乍ら勉強をしたり、ドングリ拾ひをすることは日本中の疎開児童中でも仕合せの人と思はねばなりません。
お父さんは大元気ですから安心しなさい。
元気で此の冬を越しなさい。
       戦地にて    父  十一月十五日

 大本営が、硫黄島陥落を公表したのは昭和20年3月21日であった。栗林最高司令官が17日の総攻撃を大本営に打電したのは16日であり、陸海軍約400名が最後の突撃をしたのは3月27日であった。
 市丸少将が「手紙」を書き始めたのは2月16日であり、ハワイ出身の三上弘文兵曹に英訳させた。三上兵曹の両親はハワイ移民で、中学校修学のため帰国していて在日2世となった。その当時の日本軍内での位置には微妙なものがあったと推測されるが、司令部付通信下士官であればまた複雑な心理もあったのではあるまいか。市丸司令官はそういう事情をよく理解していたのである。

 次に「手紙」の全文を紹介する。


ルーズベルトニ与フル書

 日本海軍市丸海軍少将書ヲ「フランクリン ルーズベルト」君ニ致ス。我今我ガ戦ヒヲ終ルニ当リ一言貴下ニ告グル所アラントス
 日本ガ「ペルリー」提督ノ下田入港ヲ機トシ広ク世界ト国交ヲ結ブニ至リシヨリ約百年此ノ間日本ハ国歩艱難ヲ極メ自ラ慾セザルニ拘ラズ、日清、日露、第一次欧州大戦、満州事変、支那事変ヲ経テ不幸貴国ト干戈ヲ交フルニ至レリ。之ヲ以テ日本ヲ目スルニ或ハ好戦国民ヲ以テシ或ハ黄禍ヲ以テ讒誣シ或ハ以テ軍閥ノ専断トナス。思ハザルノ甚キモノト言ハザルベカラズ
 貴下ハ真珠湾ノ不意打ヲ以テ対日戦争唯一宣伝資料トナスト雖モ日本ヲシテ其ノ自滅ヨリ免ルヽタメ此ノ挙ニ出ヅル外ナキ窮境ニ迄追ヒ詰メタル諸種ノ情勢ハ貴下ノ最モヨク熟知シアル所ト思考ス
 畏クモ日本天皇ハ皇祖皇宗建国ノ大詔ニ明ナル如ク養正(正義)重暉(明智)積慶(仁慈)ヲ三綱トスル八紘一宇ノ文字ニヨリ表現セラルル皇謨ニ基キ地球上ノアラユル人類ハ其ノ分ニ從ヒ其ノ郷土ニ於テソノ生ヲ享有セシメ以テ恒久的世界平和ノ確立ヲ唯一念願トセラルゝニ外ナラズ、之曾テハ

 四方の海皆はらからと思ふ世に
          など波風の立ちさわぐらむ

ナル明治天皇ノ御製(日露戦争中御製)ハ貴下ノ叔父「テオドル・ルーズベルト」閣下ノ感嘆ヲ惹キタル所ニシテ貴下モ亦熟知ノ事実ナルベシ。
 我等日本人ハ各階級アリ各種ノ職業ニ従事スト雖モ畢竟其ノ職業ヲ通ジコノ皇謨即チ天業ヲ翼賛セントスルニ外ナラズ 我等軍人亦干戈ヲ以テ天業恢弘ヲ奉承スルニ外ナラズ
 我等今物量ヲ恃メル貴下空軍ノ爆撃及艦砲射撃ノ下外形的ニハ退嬰ノ已ムナキニ至レルモ精神的ニハ弥豊富ニシテ心地益明朗ヲ覚エ歓喜ヲ禁ズル能ハザルモノアリ。之天業翼賛ノ信念ニ燃ユル日本臣民ノ共通ノ心理ナルモ貴下及「チャーチル」君等ノ理解ニ苦ム所ナラン。今茲ニ卿等ノ精神的貧弱ヲ憐ミ以下一言以テ少ク誨ユル所アラントス。
 卿等ノナス所ヲ以テ見レバ白人殊ニ「アングロ・サクソン」ヲ以テ世界ノ利益ヲ壟断セントシ有色人種ヲ以テ其ノ野望ノ前ニ奴隷化セントスルニ外ナラズ。之ガ為奸策ヲ以テ有色人種ヲ瞞着シ、所謂悪意ノ善政ヲ以テ彼等ヲ喪心無力化シメントス。近世ニ至リ日本ガ卿等ノ野望ニ抗シ有色人種殊ニ東洋民族ヲシテ卿等ノ束縛ヨリ解放セント試ミルヤ卿等ハ毫モ日本ノ真意ヲ理解セント努ムルコトナク只管卿等ノ為有害ナル存在トナシ曾テノ友邦ヲ目スルニ仇敵野蛮人ヲ以テシ公々然トシテ日本人種ノ絶滅ヲ呼号スルニ至ル。之豈神意ニ叶フモノナランヤ
 大東亜戦争ニ依リ所謂大東亜共栄圏ノ成ルヤ所在各民族ハ我ガ善政ヲ謳歌シ卿等ガ今之ヲ破壊スルコトナクンバ全世界ニ亘ル恒久的平和ノ招来決シテ遠キニ非ズ
 卿等ハ既ニ充分ナル繁栄ニモ満足スルコトナク数百年来ノ卿等ノ搾取ヨリ免レントスル是等憐ムベキ人類ノ希望ノ芽ヲ何ガ故ニ嫩葉ニ於テ摘ミ取ラントスルヤ。只東洋ノ物ヲ東洋ニ帰スニ過ギザルニ非ズヤ。卿等何スレゾ斯クノ如ク貪欲ニシテ且ツ狭量ナル。
 大東亜共栄圏ノ存在ハ毫モ卿等ノ存在ヲ脅威セズ却ッテ世界平和ノ一翼トシテ世界人類ノ安寧幸福ヲ保障スルモノニシテ日本天皇ノ真意全ク此ノ外ニ出ヅルナキヲ理解スルノ雅量アランコトヲ希望シテ止マザルモノナリ。
 翻ッテ欧州ノ事情ヲ観察スルモ又相互無理解ニ基ク人類闘争ノ如何ニ悲惨ナルカヲ痛嘆セザルヲ得ズ。今「ヒットラー」総統ノ行動ノ是非ヲ云為スルヲ慎ムモ彼ノ第ニ次欧州大戦開戦ノ原因ガ第一次大戦終結ニ際シソノ開戦ノ責任ノ一切ヲ敗戦国独逸ニ帰シソノ正当ナル存在ヲ極度ニ圧迫セントシタル卿等先輩ノ処置ニ対スル反撥ニ外ナラザリシヲ観過セザルヲ要ス。
 卿等ノ善戦ニヨリ克ク「ヒットラー」総統ヲ仆スヲ得ルトスルモ如何ニシテ「スターリン」ヲ首領トスル「ソビエットロシヤ」ト協調セントスルヤ。凡ソ世界ヲ以テ強者ノ独専トナサントセバ永久ニ闘争ヲ繰リ返シ遂ニ世界人類ニ安寧幸福ノ日ナカラン。
 卿等今世界制覇ノ野望一応将ニ成ラントス。卿等ノ得意思フベシ。然レドモ君ガ先輩「ウイルソン」大統領ハ其ノ得意ノ絶頂ニ於テ失脚セリ。願クバ本職言外ノ意ヲ汲ンデ其ノ轍ヲ踏ム勿レ。
 市丸海軍少将


 この「手紙」は、3月17日に海軍将兵への訓辞に際して読まれ、26日に村上治重大尉が、日文英文各一通を腹に巻いて出撃した。戦後、1975(昭和50)年1月に、在米日本大使館に通産省から出向していた村上大尉の長男村上健一氏は、アナポリスのアメリカ海軍兵学校記念館で日英両文の「手紙・与フル書」を親しく見ることができたのである。
 戦後半世紀余を経て、大半の国民が中学校、高校の社会科教育を受けている。さきの大戦を、太平洋戦争とよぶことの意味も大方は理解しているのだから、この「手紙」についての評価には或る枠組みが必要だと言う人も多いであろう。「大東亜戦争」を聖戦としてとらえる考え方には否定的であることがいわゆる常識となっているのだが、そうしてそのことは国際的な考え方とされていることも否定はしないが、市丸少将の「手紙」には、深く清い志があることを認めない人はあるまい。
 市丸少将はあの時代の帝国軍人であった。その人が世界史的視野を有していたことを「手紙」の随所に読み取ることができる。例えば、「彼ノ第二次欧州大戦開戦ノ原因ガ....」と述べ、更には、「.....ヲ首領トスルソビエットロシヤト協調セントスルヤ」と述べて眼の精確さを示している。
 三上兵曹と市丸少将は当然ながら、日本人としての軍人としての経歴や教養が大きく異なるのだから、英訳文を日本語に直せばそれが「手紙」になるものではない。しかし、市丸少将の存念はあやまりなく英文化されていることを銘記しておかねばならない。三上兵曹はよく信頼に応えたのである。
 雑誌「冬柏」に発表された柏邨・市丸利之助の歌は、作歌の技巧を専問的に問えば論も多いものであろうが、私には万葉の調べがあるようにも思われた。
 武士道を識る軍人として「手紙」を書いた誇るべき一人の日本人の歌碑が、平成9年3月唐津市柏崎に建立された。

           夢遠し身は故郷の村人に酒勧められ囲まれてあり

     
  



 この御文章の掲載を快くご承諾くださいました仁部四郎先生に厚く御礼申し上げます。 
          
                                            洋々閣 女将





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