#15  平成13年  6月  


強運の人--------もしかして、弥生人かも?高島忠平氏


 最初に高島忠平先生とお会いしたのは、忠平先生、横尾文子さん(佐賀女子短大教授)、大塚清吾さん(フォトジャーナリスト)のトリオが、佐賀新聞の日曜版に「新・肥前風土記」を掲載中のある日、唐津近辺の肥前風土記に現れる地域の探索にいらっしゃって、洋々閣にお泊まりになったときのことです。
まだ、吉野ヶ里が出る前で、忠平先生は佐賀県の教育委員会の、たしか文化財課長として、唐津の古代遺跡の発掘や、名護屋城址の整備などにお忙しかった頃でした。

 その日、お三方は、いつものように肥前風土記の跡を訪ねて取材をなさっていたのです。鏡山を撮影する大塚先生の、光の具合に対するこだわりがなかなかシャッターを切らせないで、松浦川の岸辺から鏡山を見上げて何時間も不動の姿勢で立つ清吾先生の横で、文子先生はおなかがすいてイライラして忠平先生にあたるものですから、忠平先生は岸辺のアシの中に身をかくしたとか、かくさないとか。
その時の写真は、くれなずむ空の下にあやしい紫色のひれふり山がなんとも表現しがたい逢う魔が時の雰囲気をかもし出した名作となりました。

 遅く旅館へ入られた三人は、取材の細かい打ち合わせをまるでけんか腰でなさいます。いえ、けんか腰は、文子先生と清吾先生で、忠平先生は黙ってお饅頭を食べておられました。松露饅頭を三人分には多いけど、まあお疲れだろうからと思ってお鉢に一杯出していたら、気がついた時には忠平先生が全部一人で食べてしまっておられました。

 それ以来、忠平先生と私はお互い隠れた饅頭評論家として、しのぎをけずっているわけです。忠平先生の「肥前路の饅頭」という論文は、まだ書かれていないのですが、これぞまさしく文化ですから、ぜひ早く書いていただきたいものです。

 さて、その後、吉野ヶ里が出ました。大変な騒動でしたね。ミスター吉野ヶ里となった高島忠平先生は、八面六臂の活躍をされ、新聞社の夜討朝駆けを生き抜かれたスタミナのもとは各地のお饅頭であったことはだあれも知らないのですよ。ちなみに、忠平先生はお酒はゼンゼンです。プレゼントをしたいなあ、と思われる方は、やっぱり地方色豊かな饅頭を探し出してください。発掘中に弥生の遺物を見つけたときのような笑顔が見られますよ。

  忠平先生は佐賀県の教育委員会を定年退職後、佐賀女子短大教授としてユニークな講義をなさっています。

 忠平先生のことをいつも強運の人だなあ、と私は思います。佐賀県に来られる前にも、赴任の先々で、呼び出すように古代の遺跡の大きな発見に行き当たっておられるからです。かなり突飛な発想をなさるのですが、それがなんと後から何らかの発見によって裏打ちされてくるのです。古代の歴史には、資料が不足していてmissing linkが多いのですが、忠平先生はその部分をたぐいまれなる想像力で飛び越していかれるのです。ひょっとしたら弥生人の生き残りじゃないかと思います。一度こっそりDNAを調べて見たらどうでしょうかね。

 吉野ヶ里が残ったのも、奇蹟でした。四角四面に行政をしていたら、残らなかったかも知れません。いつの日にか秘話が語られるかも知れませんが、ともかくも私たちは吉野ヶ里がブルドーザーで壊されずに残ったことを古代の神々に感謝しましょう。

 吉野ヶ里は国営公園として、先々月にはなばなしくオープンしました。ミスター吉野ヶ里は、どんな気持ちでそれを見ているか、笑うばかりで、語ってくれません。お酒で酔わせて語らせる、というわけに行かない饅頭居士さんを、どんな饅頭で酔わせましょうかねえ。

 うちのあたりにはこんな饅頭があるよ、という情報をお寄せ下さい。 ダンゴでもいいです!!
前置きが長くなりました。実は、洋々閣のホームページに(強制的に)寄せていただいた忠平先生の文章があるのです。
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 では、みなさま、ごきげんよう。


肥前名護屋城の築城と東アジアの情勢
―秀吉の朝鮮侵略の背景―

    佐賀女子短大教授  高島忠平 
 


洋々閣 女将
   大河内はるみ

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