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肥前名護屋城の築城と東アジアの情勢

             ―秀吉の朝鮮侵略の背景― 

              佐賀女子短大学長  高島忠平


 修復以前の名護屋城址石垣  
撮影:神奈川県 濱 興治 様



  肥前名護屋城と諸将の陣は、豊臣秀吉が、「唐・南蛮まで」の征服をめざして、まず、朝鮮に侵攻するため、大陸に最も近い九州西北端の地にきづいた戦略基地である。朝鮮への出兵は、1592年、文禄元年と1597年、慶長二年の二度にわたって行われた。この戦いは、日本にとっては、手痛い敗北を喫し、侵略は失敗に終わったが、一方、朝鮮は、国土の悲惨な荒廃を被り、日本と朝鮮との間にぬきがたい歴史的禍根を残すことになった。

 この時をはさんで、当時の東アジアは、政治・経済の激動期の世紀にあたり、この戦いは、そうした情勢の中、ひとつの大きな出来事でもあった。
その歴史情勢を箇条書き的に見て行くと

* 1543年、天文十二年鉄砲が、ポルトガル人によって種子島に伝来、
倭寇の活動、五島(長崎県)に根拠地をもつ倭寇の大頭目、王直が関与。
中国人海商の活動(浙江・福建・広東)。
 明帝国を中心とした公的通交秩序のゆるみ。

* 室町幕府の勢威の弱体化
細川、大内氏による日明勘合貿易の掌握、堺・博多商人の力の増大、交易の多極化、分散化。

* 1557年、明はポルトガルの協力で倭寇王直を逮捕・処刑。
ポルトガル人のマカオの確保。
マカオ―長崎間貿易、中国の絹、日本の銀。

* 1571年、スペイン、マニラを占領。
メキシコの銀、太平洋を越え、中国の陶器・絹と交換。
ポルトガル・スペイン、カソリック国における地球周回航路の成立。

* 中国市場への大量の日本銀の流入、経済の活発化、大陸の南北をつなぐ中継貿易の発達。
福建・安徽の二大商人集団体制の確立。

* 1602年、オランダ連合東インド会社を設立、オランダ・イギリス、プロテスタント国の東アジア進出。
「最大限の利益追求」・「会社への奉仕」を行動規範とした。
西洋国家権力によるアジアでの通航権・領有権の確保を目指した。

* 1567年、明帝国は東南アジアへの渡航・貿易を緩和。大陸南部の海商の南海進出。
琉球王国の仲介貿易に打撃。(大陸・東南アジア・朝鮮・日本を結ぶ東シナ海仲介貿易)

* 1568年、織田信長京都に入る、1568年撰銭令・追加令。輸入品の金銀での売買を規定。金・銀・銭の交換比価を公定。

* 1587年、豊臣秀吉九州平定後、キリシタンを禁じ、長崎の直轄化。1588年、海賊禁止令。海民の掌握。

* 1604年、徳川家康、糸割符法を制定、長崎貿易を統制。

* 織田・豊臣・徳川の政権は、こうした東アジアの新しい情勢に対応して、日本列島をひとつの社会経済単位としてとらえ、その通交貿易を政権の公的管理下に置こうとした。

* 「夷狄(中国周辺の民族)」の民族意識の台頭。

* 1583年、女真のヌルハチ、部族統一の戦いにふみだす。
1614年、ヌルハチ後金を建国

* 1583年、秀吉、賎ヶ岳の戦いに勝利、信長の後継者としての地位を確立。
1614年、家康、豊臣を滅ぼし、天下泰平の基礎をきづく。

* 東アジア史の視点から見ると、周辺民族の中華に対する反抗と自己主張の表面化した時代。

* 明・女真・朝鮮・日本の関係
朝鮮は、明を父母の国とし事大の礼をとる。儒教の国。
明は、女真・日本を警戒。朝鮮を利用
朝鮮は、女真に融和政策。
女真と朝鮮の交易、テン皮が中心、みかえりは耕牛と農具。
日本は、対馬を通じて交易、唐辛子・朝鮮人参。
日本は、この時代二毛作と役畜・刈り敷き肥料の普及など、家族労働による集約農業が発達など生産力が向上。

* 秀吉に限らず、日本の権力は、日本の統合が、「中華帝国」への対抗と不可分な意識構造のもとにおこなわれた。そこには、中国への憧憬や呪縛からの開放があった。
「大明国長袖国」を「弓矢きびしき日本国」が打ち破る秀吉の構図が見える。
中華の文に対する日本の武。朝鮮は小中華の国。

* 朝鮮侵略に敗退後、「好武」の民の展開と転回。
東南アジアへ、西洋植民地での傭兵。
徳川武家政権の文治政策で傭兵の禁止。儒教秩序による君主と家臣の関係の確立。


 肥前名護屋城の築城と秀吉の朝鮮侵略は、こうした歴史的情勢のなかで、実行されたものであるが、侵略というものが、侵略された国や民族と侵略した国や民族との間に容易に消しがたい禍根を残す。この場合、侵略を行った国や民族がいち早く、侵略の過ちを認め、歴史の清算をおこなうべきであろうが、どこかで、「新しい歴史教科書」を作ると称して、時代錯誤の歴史観が頭をもたげてきている。決して許してはならない「自虐史観」ならぬ「時逆史観」・「加虐史観」である。



洋々閣のホームページに原稿をお寄せ下さいました高島平先生に厚く御礼申し上げます。