青い山脈 「第一回唐津焼の里映画祭」
―脚本家 井手俊郎―
(1910.4.11-1983.7.3)
西条八十作詞
若く明るい 歌声に
雪崩(なだれ)は消える 花も咲く
青い山脈 雪割桜
空のはて
今日もわれらの 夢を呼ぶ
古い上衣(うわぎ)よ さようなら
さみしい夢よ さようなら
青い山脈 バラ色雲へ
あこがれの
旅の乙女に 鳥も啼(な)く
雨にぬれてる 焼けあとの
名も無い花も ふり仰ぐ
青い山脈 かがやく嶺(みね)の
なつかしさ
見れば涙が またにじむ
父も夢見た 母も見た
旅路のはての そのはての
青い山脈 みどりの谷へ
旅をゆく
若いわれらに 鐘が鳴る |
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みなさん、こんにちは。9月になりました。少しは涼しくなりましたか?
今月は先月号で予告しましたように、唐津市北波多の映画祭のことです。実行委員会の渡邉義男さんにご協力をお願いしました。渡邉さんは高齢者大学で学ぶうちに趣味の映画を生かして故郷の町に活気を呼び起こしたいと、「やってみよう」の実践課題として仲間と一緒に映画祭を計画することにしました。「第一回唐津焼の里映画祭」です。
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アドバイザー大歯雄司と「やってみよう」の仲間たち
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映画祭は、来る11月6日(土)、7日(日)に唐津市北波多の社会体育館で行われます。
北波多は中世に唐津焼きが発祥した土地で、明治・大正・昭和は活気のある石炭の町、今は緑したたる静かな町です。
さて、上に載せました映画『青い山脈)』の主題歌は御存じですか? 映画は知らないけどこの歌なら知っていると云う方は多いのではないでしょうか? 私も「チャンチャンチャン、チャンチャンチャン、チャララララッチャンチャン~」と、かの名高いイントロを鼻歌まじりで歌いながらこれを書いております。
この映画は5回作られていまして、三回までのヒロイン島崎雪子役は、原節子、雪村いづみ、吉永小百合とかわっていますが、脚本は最初から井手俊郎が参加、4回執筆しています。
この井手俊郎さんが、唐津市北波多の出身なのです。今年は生誕100年にあたり、この映画祭でいくつかの井手作品が上映されます。
(実は私が出ているジャックマイヨールのドキュメンタリー映画『ブルーシンフォニー』も上映予定だったのですが、映写機械の関係でできないようになりました。残念半分、安心半分。)
では、井手俊郎氏の資料と映画のポスターをご覧ください。
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井手俊郎データ (甥の井手一平氏のメモと当時の新聞記事から)
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井手俊郎 |
井手家は北波多村徳須江の旧家で「門屋」と呼ばれ質屋を営んでいた。
祖父井手豊助は明治23年の公選で初代北波多村長となり、父金次郎は政友会を北波多村に建て、村議となった。
俊郎は明治43年4月11日に生まれる。
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生家 |
生家(山口酒屋の裏で原和志氏所有)は現存している。(一時期、現佐賀銀行徳須恵店に在った家に住んでいたこともある。)
学歴: 北波多小学校卒業
旧制唐津中学卒業(昭和3年)、現在の県立唐津東高校
旧官立東京高等工芸学校工芸図科卒業(昭和8年?)、現在の国立千葉大学工学部意匠科。同校は当時東京都港区芝浦に在り、現在跡地は東京工業大学付属高校となっている.。
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長谷川一夫と一緒に |
卒業後、フリーで雑誌の表紙画などを画いていたが、若手の映画プロデューサーとして令名のあった藤本真澄氏(後、東宝専務)の知遇を得て東宝に入社。各地に東宝の初期の直営館の設立に当たった。 博多の東宝直営館の支配人など歴任。
昭和19年8月に久留米四十八連隊に入隊し、司令部情報班に所属。昭和20年9月復員。
戦後、東京に戻り東宝に復帰。昭和23年頃、ピンチヒッターとして書いた「青い山脈」が意外に評判になり、以後シナリオライターとして身を立てた。
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戦争中のことは、昭和63年7月に井手俊郎の追悼記事として佐賀新聞に掲載された筒井茂雄氏の文章を転載します。(筒井氏は佐賀大学名誉教授で、号を塔子という俳人でした。)
井手俊郎の死
穏やかで愛情に満ちた人柄
井手俊郎氏と私の出会いは兵隊であった。私たちは戦争も末期の昭和十九年八月一日、第三次航空要員暗号兵として久留米四十八連隊に入隊したのであった。私たちは暗号兵の性格上、旧制中学以上の学歴というだけで、年齢、職業などまちまち、弁護士、教員、郵便局長、小説家(彼は後年、直木賞をとった)など雑多で、嬉野町長大渡鉄郎氏も早大を出たばかりの一人であった。
最初の一カ月は教錬で、徒歩から匍匐前進までひどく鍛われ落後者も出た。次の一カ月は任務の暗号通修で師団司令部に通った。内容は一けた数字の加算と減算の繰り返しで、いかに迅速正確になすかにあった。
暗号通修が終わるとただちに航空隊暗号兵として中国、東南アジアなどに転属したが、井手君と私は司令部要員として残った。彼は情報班で、私は報道部であった。任務内容が緊密なので主任将校も兼任の岸田少尉(後年、佐大教授をつとめた故岸田勉氏)で、私たちも一緒に仕事をすることがあった。
墜落したB29を復元
印象深いのは、墜落したB29の機体を五十二部隊の営庭に復元して、それに解説パネルやポスターなどを書いたことだ。そのため二人は、当時の旭屋デパート(現井筒屋)の地下の図案室に数日通った。ポスターカラーの甘い香りをなつかしく仕事した。搭乗員の持ち物に『食べられる草、毒になる草』の小冊子があったのには驚いた。また「米機の伊勢神宮爆撃に対する反対宣伝の壁新聞を作れ」という命令で壁新聞も作った。壁新聞は日本ゴム印刷所をいつも利用した。
終戦の八月十五日には、師団長以下われら兵まで、全員講堂に集まり詔勅を聞いた。その時、高い方から突然、小林栄三郎一等兵(報道部員、のち九大教授、西洋史)が呼び出され、「米英はこれまでどのように侵略してきたか述べよ」との命がでて、彼がアフリカ、インド、シンガポール、香港など細かに述べると、若手将校が「おれは戦う」と飛び出した一幕もあった。かくて師団司令部は崩壊したが、私たちは残務があってようやく復員したのは九月九日。
映画次々にヒット
その後、彼はシナリオライターとして『面影』『青い山脈』『山のかなた』『丘は花ざかり』『秘密』などが次々にヒットしていた。二十八年七月六日に東宝撮影所に彼を訪ねた記録が手元にある。彼の案内で第三スタジオに黒沢明監督の『七人の侍』の撮影で百姓、藤原釜足が水車小屋で何かしゃべる十秒ばかりのシーンを何遍もやり直していた。その後、彼に会ったのはNHKの朝のドラマ『信子とおばあちゃん』で佐賀に来たときで、二の丸亭の別館でしばらく話をした。彼は、彼のシナリオの映画のように穏やかで、愛情に満ち、ちょっぴりユーモアをもつ人柄であった。惜しい人を失った。ごめい福をいのります。合掌。 |
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井手俊郎脚本の代表的作品
『青い山脈』
『めし』
『三等重役』
『警察日記』
『洲崎パラダイス赤信号』
『流れる』
『江分利満氏の優雅な生活』
『君も出世が出来る』
『青春とは何だ』
『信子とおばあちゃん』
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映画祭特別ゲスト
宍戸錠、二木てるみ
上映予定映画
11月6日(土) 『チーちゃんごめんね』、『青い山脈(前)』、『青い山脈(後)』
11月7日(日) 『警察日記』
『男はつらいよ・寅次郎子守唄』(唐津、呼子ロケ)(井手作品ではない)
『コルトは俺のパスポ-ト』
氷雪の門(終戦時の樺太で起きた9人の乙女の悲劇実話)
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原節子主演
11月6日に上映 |
秋吉久美子主演
11月6日に上映
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渥美清主演
11月7日に上映 |
森重久弥主演
11月7日に上映 |
それではみなさん、どうぞ11月6、7日、唐津くんちも済んでホット一息と云う時に、北波多でなつかしい映画などご覧になってはいかがでしょうか。なによりも、高齢者大学の方たちがどんなことをやりとげたかをぜひ見て頂きたいと思うのです。
私も応援しています。映画祭には駆けつけるつもりです。
ではまた来月。
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今月もこのページにお越しくださって
ありがとうございました。
また来月もお待ちしています。 |
洋々閣 女将
大河内はるみ
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