みなさん、こんにちわ。
6月のある日、久しぶりに山本駅から旧岸岳線の廃線跡を走ってみました。ずいぶん昔に石志出身の叔父・叔母と通ったことがありました。でも不案内で、結局途中からどこだかわからなくなりました。
今月号は北波多の楢崎幸晴さんに炭坑のことを書いていただきました。何ページにもわたる力作です。地元の人ならではの緻密な調査に心を打たれています。楢崎さんには前にもこのページに書いていただいたことがあります。
楢崎さんの原稿はエクセルのデータで頂いたものを私がホームページビルダーに張り付けるときに結構むつかしくて、線が消えたり色が飛んだりして、オリジナルのようにピシッと決まっていませんが、精一杯ですので、お許しください。
下の写真は、楢崎さんのグループ「北波多郷土史研究会」の方々がこの春研究発表をなさったときのものです。その研究が今回の「北波多の石炭・炭坑史」です。これだけの研究をなさったのに、あとで見られないのはもったいない、もう少し広く発信してもらうことは出来ないかと、私のページでご紹介することにしました。私のページは大したことはありませんが、インターネットの検索力はすごいですから、いつかどなたかの目に触れて役に立つことがあるかもしれません。
唐津市北波多は5年前まで佐賀県東松浦郡北波多村でしたが、今は合併で唐津市に入っています。けれどももともと江戸時代には唐津藩でした。18世紀より唐津藩は石炭を産物として売ってきました。下の絵は唐津藩、水野氏の家臣
木崎攸々軒盛標が1773年から10年かけて完成させた「肥前国唐津領産物図考」という絵巻の中に描かれている石炭採掘の図の一部です。
この絵で見ると、露天掘りに近いような表層の石炭を掘っていますね。この絵の続きには、掘った石炭を選んで、船に積み込んで川を下る様子が見えます。(このページの左上の図)。
洋々閣のある旧・満島村は松浦川の河口にあたり、ここで川を下ってきた石炭船から積み替えて出荷していたようです。満島村には石炭を求めて各藩からお客が絶えなかったようで、特に薩摩藩は上得意だったそうです。明治になってからは日本海軍がこの石炭を独占して購入します。洋々閣の歴史的背景は石炭なのです。北波多下平野は大河内家の故郷ですし、満島村は4代前からの根拠地です。ですから、一度石炭のことを詳しく勉強したいと思っていました。今日、このページで皆様とご一緒に炭坑の時代に入っていきましょう。しばらく炭坑をめぐっていただいた後またこのページにお戻りください。
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いかがでしたでしょうか。名画「我が谷は緑なりき」(How green was my valley)や、「にあんちゃん」を思い出しながら、炭坑の変遷を読みました。
今、手元に「北波多村史」の資料編がありますが、その中の明治6年の「岸山炭坑日誌」をひもとくと、淡々とした記述の中にも日ごとの炭坑の動きが手に取るように読み取れて、竪坑に水がたまったり機械が故障したりでははらはらし、出炭量が多かったり、酒をもらったりするとうれしくなりました。
唐津の一時期が「唐津炭田」の石炭で大いに栄えたことを何時までも忘れないようにしたいと思います。
ではまた来月。
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