藤の季節となりました。唐津城の紫藤も満開です。
この藤は樹齢100年以上といわれています。 私が子供の頃は花房が2メートルほどにも下がり、それはみごとな樹勢でした。藤はお酒が好きだとかで、根本あたりはプンプンと酒の匂いが漂っていたのを覚えています。最近はお酒を呑ませてあげる人がいないのでしょうね。房も短くなりました。代わりに中段の奥のほうの白藤の棚がうんと成長しています。一度お越しください。
今月号は唐津城の殿さまたちのはなしです。知人の河内野信恒さんから原稿を頂戴しました。河内野さんが書いておられる「唐津んもん便り」の記事にこのたび加筆していただいたものです。
へ~、そうなのか~、とお楽しみくださいませ。
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【超ミーハーな歴代からつ藩主見聞録】
河内野 信恒
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家康の曾孫もいた、“時代劇の有名人”と唐津の殿様の意外な関係。
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朝霧の唐津城
(鏡山からの遠望:松尾邦久氏写真:部分)
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同じ佐賀県にありながら非常に対照的な城下町、佐賀と唐津。波穏やかな内海の有明海側に位置する佐賀藩は、江戸時代を通して外様大名の鍋島氏が藩主でした。「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」で有名な「葉隠」を生み、明治維新の中心「薩長土肥」のひとつでもあり、派手さはないものの
「質素で無駄のない、質実剛健」のイメージがあります。
一方荒波が打ち寄せる外海の玄界灘に面した唐津藩は、唐へ渡る港(津)というのが地名の由来であるように、古くから大陸との交流もあり、非常に 開放的な土地柄です。このことは、佐賀県の代表的なお祭り唐津くんちで、「三月倒れ(3ヶ月の収入を祭りの3日間で使い果たす)」と呼ばれる程のお酒や料理で、初対面の人たちさえも温かくもてなす「無礼講」という風習からも見てとれます。また、藩主も寺沢氏から小笠原氏まで六代、21人(小笠原長行を含めた場合)にのぼり、寺沢氏を除く5氏が譜代大名。興味深いのは歴代藩主中4人も、江戸幕府で最高の地位「老中」に就いたことは勿論ですが、「エッ!あの人とこの人が?」と思わず驚いてしまうような藩主の人間関係です。
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大久保忠職の墓碑
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慶安2年(1649)に唐津藩主となった「大久保忠職(ただもと)」は、徳川家康の曾孫にあたり、講談で有名な旗本「大久保彦左衛門」とも血縁になります。また、忠職の姉は曲亭馬琴作「南総里見八犬伝」のモデルになったといわれる里見家の10代目、忠義(ただよし)の正室「東の丸」といわれています。
大久保氏の後をうけて唐津を治めた松平氏は、14年間3人の短命でしたが、その中でも特異なのが3人目の藩主、松平乗邑(のりさと)です。弱冠5歳で跡を継いだ乗邑は、江戸にいたために一度も唐津の土を踏むことはありませんでしたが、45代続いた大給(おぎゅう)松平家の中でも特に秀でていたという誉れ高い人物
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松平乗邑の父、乗春が建立した
釈迦如来石像
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です。“忠臣蔵”で有名な「松の廊下刃傷事件」の際に、慌てふためく諸大名を禁めたのは、その場に居合わせた若干16歳の乗邑だったといわれています。
その後、享保8年(1723年)老中に就任し、“暴れん坊将軍”で知られる徳川吉宗の「享保の改革」を“大岡越前”こと大岡忠相らと補佐し、延享3年(1746年)、61歳でその生涯を終えました。
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水野忠邦が建立した3代目唐津藩主、忠光の墓碑 |
後に「天保の改革」を推進した水野忠邦もまた、唐津藩主でした。忠邦は、年始や五節句等に将軍に謁見(えっけん)する大名の取り次ぎ役「奏者番(そうしゃばん)」を幕府より任ぜられました。
さらなる昇進を望んだ忠邦でしたが、唐津藩は長崎見廻役を担当していたため、それが困難だと判ると各方面へ賄賂を贈るなど、自らが画策し遠江の浜松藩への国替えを実現します。実際の石高が、唐津藩の3分の2にも満たない浜松藩への国替えに、かかる画策費用も含め、藩の財政負担は大きく、家臣には反対する意見も多かったといいます。その後、幕閣に入り頭角を現し、昇進を重ね天保10年(1839)に最上位の老中となり、幕府の財政再興を目指して“天保の改革”に着手しますが改革は失敗に終わり、後に改革中の責任を問われ、失意のうちに嘉永4年(1851)に死去しました。
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小笠原家4代目藩主、長和の墓碑
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また、明治維新を迎えたため藩主にはなりませんでしたが、後継者とされていた小笠原長生(ながなり)は、学識豊かで皇太子(後の昭和天皇)の教育係を務めた人物でした。
唐津の殿様が江戸の3大改革の内2つに関わっていた事実や、その人間関係を知るとテレビや映画の“時代劇に出てくる有名人たち”がなんだか身近に感じてくるから不思議なものです。
※唐津んもんだより「歴代城主見聞録」より加筆転載
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大久保家家紋 |
松平家家紋 |
水野家家紋 |
小笠原家家紋 |
いかがでしたか。面白かったですね。河内野さん、有難うございました。またいろいろ教えてください。
こういうことを知って城の石段を登ると、またいっそう楽しいものですね。
それでは皆様、また来月。
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今月もこのページにお越しくださって
ありがとうございました。
また来月もお待ちしています。 |
洋々閣 女将
大河内はるみ
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