妹・直子、伸子、母・英子

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唐津のおみやげ話をお伝えするページです。
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#1 御挨拶
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20010年2月





松本伸子―車イスのかぐや姫


洋々閣のすぐ近くに住んでいる松本伸子さんは、女将の友人の一人です。
うつくしい、清らかな笑顔を見て、誰かが、「かぐや姫みたいだ」と言いました。
それからは私の中で伸子さんは「かぐや姫」になりました。
今月はそんな心の清らかなかぐや姫さんをご紹介します。
ご本人に生い立ちを書いていただきました。

どうぞ、お会いください。
町で、電動車イスでお出かけしている伸子さんを見掛けたら、
ぜひ声をかけてくださいね。




私の生い立ち・・・

松本伸子


 洋々閣さんのホームページ もうじき開設10年、おめでとうございます!

 まさか私のつたない文章を載せて頂くことになろうとは、穴があったら入りたい心境です。
何故なら、洋々閣さんのHPと言えば、唐津の有名な方や著名人ばかりを載せてらっしゃるのに、私にはとても荷が重いお話なのです。ですが日頃お世話になっている女将さんからのせっかくのご依頼なのでお受けさせて頂くことにしました。

伸子
 私は昭和41年、三人姉妹弟の長女としてこの唐津に生まれました。私は生まれながらにして障害を持っていて病名は先天性骨形成不全症といって当時は原因不明の難病とされていました。現在、原因等は少しずつ解って来ているようですが、私は熟知していません。生まれたときから身体も小さかったので、私を取り上げて下さった産婦人科の先生から、この子はあまり長生きしないでしょうと言われたそうです。骨形成不全症というのは、骨が発育しにくくちょっとした事でも骨折しやすい病気で、一度も歩いたことがありません。なので、とにかく幼少の頃は骨折の繰り返し、ひどい時は月に1回位やっていて、1回の骨折に1ヶ月程ギプスを付けているので、多いときは一年中ギプスにはまっていました。それでも、たまたま海の近くに住んでいる私は、骨折をしていない時など夏になると妹弟や従姉妹たちと一緒によく母や叔母たちが海水浴に
母に抱かれる伸子
連れて行ってくれました。野山を駆け回ることの出来ない私にとって唯一、自然と触れ合う最高の遊びでした。もちろん、泳ぐことはできませんが、浮き輪をつけると水中では体が軽くなるので、バシャバシャと泳ぐ真似が出来るのがとても嬉しかったのです。


 昭和46年、私が5歳の頃、役所からの勧めで佐賀の整肢学園に単独で入りました。幼かった私にとって親もとを離れて生活するというのは、本当に不安で寂しかったものです。ですが、やはりそこでも骨折してしまい・・・元々家族もしぶしぶ私を手放しているので、ギプスが外れるや否やわずか40日程で自宅に連れ戻したそうです(全く冷やかしのような話です)。それからは、ずっと自宅での生活となるのですが、昭和47年、満6歳になっても地元の小学校には入学出来ず、ひらがなや数字は家族から教わり、本を読んだり童謡を聴いたりして過ごしていました。そして、昭和49年8歳になった頃、定年退職された先生が市の委託を受けて子供の家に勉強を教えに来てくださるという訪問指導という制度を受けられるようになり、そこで初めて教育というものを受けられるようになったものの週1回2時間程度、主に国語と算数を中心に習っていました。訪問指導を5年ほど受けて昭和54年、伊万里養護学校の開校と同時に訪問教育部の小学6年から編入させてもらい入学式、社会見学、運動会など様々な学校行事を体験することが出来ました(訪問教育というのは、重い障害または重い病気のため学校に通うこともまた寄宿舎に入る事も困難な子供のために生徒の自宅にて勉学を指導してくださる制度です)。授業内容の方は週2回で、やはり1回に2時間程度でしたが他の生徒さんが休まれたときなどは私の方に回して下さり週3回位来て頂く事もありました。訪問教育を一応、義務教育の中学3年まで受けましたが・・・なんせ少ない授業時間ですので、国語、社会が中学1年程度、数学なんかは小学6年の教科書までしか進むことが出来ませんでした。そんな状態にも関わらず養護学校を卒業する年、「高校くらいは出ておかないといけない!」と言われ、叔母の熱心かつ強烈な勧めにより佐賀北高通信制に入ることになりました。


 中学の勉強もほとんどやってないのにどうして高校の勉強についていけるのでしょうか?
私は不安でたまらないまま入学したのですが、そんな私を支えて下さった方がいました。
井上先生と
養護学校の中学3年の時の担任の先生で井上先生という方が本当にご好意で私の勉強をみて下さったのです。本来ならば養護学校は卒業しているので先生とお会いするのは同窓会くらいなのでしょうが・・さぞかし私が心配だったのでしょうね・・・先生はお忙しい中、ご自分の仕事が終わってから時々、私の家に勉強を教えに来てくださいました。

 通信制というのは、働きながら学ぶ生徒さんが多くほとんどが社会人で中学を卒業してからのブランクが長い人もいて、先生が来られるときはその方も誘って、一緒に勉強していました。唐津西高が協力校なので、月2回のスクーリング(授業)とレポート提出がありました。養護学校のときは自宅での授業でしたので、学校に行って授業が受けられるというのが、どんなに嬉しいことだったでしょう。月2回のスクーリングへは両親に送り迎えをしてもらい、また両親が不在の時は妹にタクシーで一緒について来てもらっていました。学校というのはとにかく階段や段差の多い建物ですので、教室の移動の時はお友達に車椅子を手伝ってもらっていました。そして、年に何回かは北高の方にも行か
 
友人たち
なくてはいけなかったので、その帰り道お友達同士で食事に行ったり遊びに行ったりなど、楽しい思い出もありました。そして、何より入学から卒業するまでの間、私の勉強をみて頂いた井上先生のお陰で無事北高を卒業させてもらいました。北高を勧めてくれた叔母にもとても感謝しています。

 高校を卒業した昭和62年の3月 井上先生の勧めで手話サークルに入りました。そして、同じ年の9月から電動車椅子に乗るようになり・・・ それまで、外に出る時は必ず家族か学校の先生か友人らと一緒だったのにようやく自分一人で行動が出来るようになったのです。何もかも遅いスタートです。

 手話サークルに入った翌年には、思いがけず役員にも選んでもらい、地元の講習会だけでなく、サークルで知り合った仲間たちと、多久や佐賀の、少しレベルアップした手話講習会にも一緒に連れて行ってもらっ
手話サークル
たり、一泊で宮崎の研修会にも参加させてもらった事もありました。サークルに入ったお陰で沢山の方々と出会い、洋々閣の女将さんの紹介で、未熟ながらも小学校で障害者体験の講演をする機会も与えて頂きました。

 平成18年の4月より唐津市から手話の会が委託を受け、市役所内にコミュニケーション支援センターの窓口が設置され、同年の7月より代理勤務として時々入らせて頂いています。

 子供の頃は骨折ばかりで、学校もまともに行っていない私ですが、素晴らしい方々との出会いのお陰で、今の私があるのだと思っています。私の家族を始め養護学校時代の先生や、手話の会の皆様の応援やサポートのお陰でこれまで、いろんな経験や勉強をさせて頂きました事を心から感謝しております。これからも無理をせず、自分のできる範囲で活動できればと思っています。

 今日は私のつたない文章に最後までお付き合い下さいましてありがとうございました。
 2010年が皆様にとって、幸せで健康な年でありますことを心よりお祈り申しあげます


 いかがでしたか。
 昨年秋には、唐津聴覚障害者協会と唐津手話の会の共催により聴覚障害者を描いた映画『ゆずり葉』が文化体育館で上映されましたが、伸子さんが事務局になって頑張りました。私は見に行って、おお泣きして厚化粧が崩れ、お化けになって帰ってきました。サングラスでも持っていけばよかったけど、思慮が足りなかったなあ。この次から変装して行きましょう。性格が前向きで、できることをせいいっぱいやる伸子さんは、亡きおばあさん・マサさんの宝物でした。おばあさんは月の世界に行ってしまわれたけど、見守ってくださっていますよ。叔母さまの安子さんは、竹本鳴子大夫として義太夫を教えておられます。私の仲良しです。
 伸子さんの病気の特徴は思春期以降は骨折の頻度は低くなるそうですが、それでも伸子さんが車いすで事故など起こしませんように、皆様も一緒に祈ってください。
 また来月お目にかかります。ごきげんよう。




                  
今月もこのページにお越しくださって
ありがとうございました。
また来月もお待ちしています。


洋々閣 女将
   大河内はるみ


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