牧師として説教中のファジュンさん

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#1 御挨拶
118
20010年1月




「玄海人」として生きる



あけましておめでとうございます。
2010年はどのようにお迎えになりましたか?
新型インフルエンザで苦しまれた方も多かったことでしょう。
どうぞ一日も早く収束して、安心して暮らせる日がきますように。
授賞式で韓国総領事と

この年になりますと、新年の抱負なんて大それたことは考えられず、
ひたすら周りの人々が無事に今年を生き抜いてほしいと願うばかりです。
あなたさまもどうぞご安全に。

今年最初のこのページは、友人の兪華濬(ユ・ファジュン)さんのことです。
ファジュンさんは昨年9月に韓国の国民勲章・石榴賞を受章され、福岡の韓国領事館で10月末に祝賀会がありました。私も招待されて参席しました。

おめでたい話題なので、この新年号で紹介したいと思います。
ちょうど2009年7月に西日本シティ銀行発行の広報誌「九州流02」にファジュンさんが取り上げられていて、よくまとまっていますので、記事を転載させていただきます。写真提供は玄海人クラブです。ゆっくりお楽しみください。







「玄海人」として生きる
日韓の理解と交流に、体当たりで臨んだ15年

兪華濬(ユ・ファジュン)さん



玄海人とは、日本と韓国の国境を越えた、魂の交流を行う人たちです。

「玄界灘でつながっている日韓両国の人々は、国境や国籍を超え、共に生きる『玄海人』である。であるならば君は、玄界灘の上で股を広げて立っておれ!」
天国への旅立ち間際に、病床より発せられた父の思いを受け止めた娘は、持ち前のバイタリティーで日韓友好関係の再構築のための道を歩みだした。


兪華濬(ユ・ファジュン) 玄海人クラブ代表
1953年、韓国晋州生まれ。54年から60年まで、父の駐日韓国外交官としての仕事の関係で福岡に在任。72年に再来日し、東京の駐日韓国大使館勤務。79年、青山大学英米文学部を卒業後、総合企画会社「㈱ジャイブ」を設立。ジャーナリストとして、日韓の新聞、テレビや通信社に関わる。88年ソウル五輪公式スポンサー「松下パナソニック」リエージョン。90年、日本衛星放送ハイビジョン番組「有田3部作」の制作を機に有田町に移住。94年に韓国文化交流センター、96年に玄海人クラブを設立。99年、サントリー「地域文化賞」、2000年、国際ソロプチミスト「女性栄誉賞」、01年、国際交流基金「地域交流振興賞」、04年、西日本国際財団「アジア貢献賞」など受賞多数。現在は住居を武雄市に移し、玄海人クラブ代表と日本基督教団武雄教会牧師としての二つの顔をもって精力的な活動を行っている。


【玄海人の誕生】
兪華濬さんはプロフィールにもあるように、日本と韓国の両国の文化や考え方を背負って生きている人である。
玄界灘(韓国では玄海灘と表記する)を隔てて、両国は千年以上にわたる友好関係にあったにもかかわらず、一時期の「不幸な歴史的関係」によって今や「近くて遠い国」となっている。
彼女は福岡で楽しい幼年時代を送ったが、帰国後、身に付いた「日本人らしさ」によるイジメなどの精神的なギャップを体験し、加えて青春期に受けた反日教育によって「日本嫌い」が彼女の心の中に増幅していった。音楽家になろうと、米国への留学を目指していた時、父から「日韓の不幸な歴史は事実だが、それを乗り越えるためには日本に行って学びなさい。それが国際人への道の第一歩である」と言われ、日本行きをしぶしぶ了承した。 

久しぶりの日本での生活は、戸惑いながらも、韓国大使館勤務や青山学院大学への通学と忙しい日々を送っていたが、日本に対するわだかまりはなかなか消えなかった。

 大学卒業後、彼女は日本で国際ジャーナリストとなった。ソウルオリンピック公式スポンサー企業や放送局等と契約し、両国をつなぐ仕事に奔走したり、新聞紙上に韓国情報を提供したりした。しかしこの仕事が終れば日本を出ることを決めていた。

李参平の碑
 英国の大学での研究職が決まった。日本との決別の意味も含め、有田町へ旅することになった。だが、陶山神社の李参平碑を見た時、彼女は自らの運命を知ることになる。

『李参平公は有田窯業界のみならず、日本窯業界の大恩人なり』
 祖国で受けた歴史教育で、壬申倭乱(十六世紀末・豊臣秀吉による朝鮮出兵)で連れ去られた朝鮮陶工たちは虐げられて悲惨な生活を送ったと思っていたが、ここでは彼らが「神」として崇められている。この事実は何だろう?日本での最後の仕事は、ハイビジョン番組でこれらの歴史のメッセージを残すことにしようと思った。それにもう一つ。朝鮮陶工ゆかりの窯跡から出た揚羽蝶が描かれている古陶片に出会ったことも進むべき道を示すきっかけとなった。

 「これを作った人は、しなやかな指を持ち、小柄で繊細な性格をしている。血液型はA型。でも、日本で精神的にも、余裕がなければできない作品である・・・・」
 こうした空想を膨らませるうちに、父の遺言である「玄海人となれ」が、彼女の脳裏をよぎった。朝鮮陶工たちも二つの国を結ぶ玄海人であったことに気づいたからである。

【二億人の玄海人】
 『知らせる努力・知る勇気』。
これは玄海人クラブが合言葉としているものである。「押しかけ故郷」と自ら公言する有田町に居を移した彼女は、まず韓国の大学の日本語学科に不足している、日本の書籍を送る運動を始めた。加えて地域の人々を招いての韓国料理講習
餅踏み
や大学などでの韓国語講義。韓国文化を多くの人々に知らせるため地元新聞社への寄稿など、精力的に働いた。こうした活動の中、彼女はあらためてこの地と祖国との共通項を知る。
 「むかわりの餅踏み」。佐賀県の各地で行われている子どもの誕生祝いの儀式である。一歳になった子どもに草履を履かせ、小豆餅を踏ませる真似をするものである。その後、筆や算盤などを並べ、何を握るかでその子の将来を占うもの。韓国でも全く同じ行事があり、これを「ドルチャビ」という。このような日常生活におけるよく似た習慣が有田と韓国には見られる。ちなみに彼女は筆を選んだそうである。
 日本人の人口は約一億三千万人。それに朝鮮半島の七千万人を加えれば二億人となる。これらの人々が同じ思いになれば、誤解や争いはなくなる。
 「私が生きている間は、たぶん完全には実現不可能でしょう。でも、子どもたちや孫の時代に、そうなっていればいいですね」。兪さんはこう語る。

【真の国際交流とは】
ファジュンさん主催の日中韓交流音楽祭
 現在は全国各地で日韓交流が盛んである。特に最近では映画やTVドラマ、健康志向の料理などで「韓流ブーム」だといわれている。
 「韓国語が人気を呼び、食卓にキムチが並べられる昨今、相手を知るきっかけとしては『韓流』は見えない大きな力です。ただ、本当に『玄海人』になろうとするなら、観光に行くとしても相手国の歴史や文化を知っておくのが礼儀でしょうね。そのためには、自分の国のこともしっかり認識しておくべきでは」と兪さんは言う。こうした意気込みが、民族を超えた愛をもって人と人との交流を続けて来た兪さんの生き様にもつながっている。
「私は『玄海人』のきっかけを作っているにすぎません。本当の玄海人は、わが娘かもしれませんね」と兪さんは笑う。
 韓国人と日本人を両親に持つお嬢さんは「ママは玄海人であろうと努力してきた人。私は生まれながらの玄海人」と言うそうだ。彼女が将来、祖父から母へと続く意思を受け継いで、「二億人の玄海人」の道を切り開いていくことを心から期待したい。





いかがでしたか。私は兪華濬さんより5、6歳上の友人ですが、いつも彼女の献身的な活動には頭が下がる思いがしています。もう10年以上も前に名護屋城博物館で彼女と一緒に韓国の子供ミュージカルを招んで日韓交流音楽祭をしたことを楽しい思い出として鮮明に記憶しています。彼女が国民勲章の石榴賞を受けたとき、私も心から喜び、記念に七宝焼作家に頼んで彼女のブローチと私の帯留めを石榴のデザインでおそろいに作ってもらって贈りました。
韓国や中国では、そして日本でも、石榴は大変おめでたい吉祥文様です。今年の新年のご挨拶に皆様へも石榴のお話をさせていただきました。
また来月、今度は何をおはなししましょうか。


今月もこのページにお越しくださって
ありがとうございました。
また来月もお待ちしています。


洋々閣 女将
   大河内はるみ


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