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唐津から見た浮岳 |
唐津に住む人間にとって浮岳は馴染み深い山だ。 七山側、或いは二丈町からと、眺める位置によって山の形が変化をみせるのも興味深い。切り株になったり、乳房になったりと様々だが中でも唐津から見た左右対称の三角形はもっとも印象深い。しかし遠くから眺める事はあっても、山頂まで登った人はそう多くはいないと思う。山全体が樹木に覆われていてせっかくの玄界灘も見晴らしが今ひとつ、そう聞けば誰も躇ってしまうに違いない。この800mと少しの山頂には小さな社があって、昔は七山からと、ちょうど山の陰になる福吉からも、山頂まで出向いて相撲を奉納したらしい。もともと修験道の山、聖なる山である。 魑魅魍魎つまり「物の怪」の住む山といってもいい。
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弥生杉?と吉森氏 |
照葉樹は文字通り、分厚い葉が陽に照り輝き、一年を通して緑が絶えることがない。そのために森は、じめじめと暗く、藤などの蔓もからまり、朽ちた木には「きのこ」や粘菌が貼りついている。 つまり「物の怪」の住まうにもってこいと言うわけだ。そのことは登山道から昼なお昏い森に分け入ると、すぐに了解できるだろう。山頂付近には樹齢千年をこえるかとおもわれる杉が5,6本聳えているし、また「椎」や「赤がしわ」の老木、鱗状の木肌を見せる「かごの木」も混在する。今やこういった究極の相を残している森は県内でも多くはあるまい。
この生産性の高い照葉樹林帯はネパールから東アジアを経て日本の「ヘソ」辺りにまで延び
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ネパールのブナ |
ているが、樫や椎などの実が縄文人の食を支えていたのだろう。この樹林帯は山芋や、デンプンが採れる「ゆり」、「葛」なども伴い、更に生産性が高まっている。
私はこの浮岳の麓にミツバチを飼って暮らしているが、樹木蜜の贈り物は最後の仕上げ、古神道ならずとも精霊が常緑の木に降り立った証だとおもわずにはいられない。どうやら私の言いたいのはこうだ、つまり手付かずの森がどれほど大切なものかという事。 戦後の政策により日本中が杉やヒノキに変えられてしまったが、愚かしい事だった。多様性を無視し、地域性を踏みにじった植生の中央集権化だった。
地域の樹木は、気候や地形など様々な要因が、時間をかけて選んできたものだ。結果とし
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浮岳麓の養蜂の森 |
て虫を選び、鳥を選び、そこに適した動物も選んできた、そしてなじんでも来たのだった。無論、もののけ(スピリッツ)もそこでは愉しく暮らしていたに相違ない。私はここで土着の日本蜂と、効率本位の西洋蜂を飼っているが、明治になって輸入された西洋蜂が、未だこの土地になじめないでいるのに気がついて驚くのだ。外敵との戦い方を知らないし、この土地の病気にも抵抗力が弱い。日本蜂はここで何万年と生き延びてきただけあって、自在にこの環境を生き抜いている。
私自身、この究極の樹林(extreme
forest)の概念に気がついたのは愚かにも木を植え始めてからであった。 「ミツバチの森」を目指して、
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森作り20年 |
外来も含め様々な苗木をがむしゃらに試みていたが、10年ほど経って自然に出てきた地場産のナラやブナ、そしてタブの種類が病気にもならず生き生きと育っている事に気がついた。考えてみると直ぐ側に森作りのお手本となる森があったのである。
20年近くになる森作りだが、一歩退いて謙虚に思いを巡らすことでやっと一歩お手本に近づいたのかも知れない。唐津から眺める浮岳も、長い風雪によって究極の形に仕上がっていると思えばなおさらいとおしい気がする。玉島川へその源流が注ぎ、まつら潟を形作ってこれも究極の風景となった。
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