#113 2009年8月 |
このページは、色々な方にご協力いただいて、 唐津のおみやげ話をお伝えするページです。 バックナンバーもご覧頂ければ幸いです。 #1 御挨拶 |
鷹島にはモンゴル村がある。(レジャー施設) |
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今月号は、新しく橋の架かった鷹島へご一緒に参りませんか。 鷹島は長崎県ですが、唐津市肥前町の星賀港の目の前なのです。洋々閣から星賀までは車で30分で行きます。この4月に美しい鷹島肥前大橋がかかり、観光客がどっと押し寄せたようです。 私も、私の中の松浦党の血脈がそうさせるのか、遠い呼び声にこたえるように、「イザ、カマクラ」とばかりに元寇の島に推参つかまつりました。はるか昔にこの地で死力を尽くして戦った松浦党の武士と蒙古の戦士たち、どちらの霊魂にも今は平安が訪れていることでしょう。7月の玄界灘は波穏やかに日は灼きつくように照っていました。 史実につきましては、故・山崎猛夫先生が書かれたものを下に転載致しました。お楽しみください。 肥前町星賀港と鷹島の地図と航空写真へ |
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蒙古襲来(元寇)の文永の役における東松浦半島の惨状については、さきに掲載されたこともあり、すでに周知のことであろう。『有浦文書』の「松浦有浦系図」の中に佐志四郎左衛門尉房父子四人共々戦死のことが見えるが、場所や月日の明記がない。大方は博多の浜周辺と思われていたが、そうではなさそうである。さきに『肥前町史』を執筆した際、その戦死の地らしいと考えられる所を肥前町高串の浜井三郎氏に案内していただき、周辺調査の結果、不完全ながらもほぼ確認することができた。 この稿は佐志房(さしふさし)父子四人の国土防衛のための奮戦を明らかにし、戦死の地を広く知ってもらいたいために起こしたものである。 蛇足ではあるが蒙古襲来(元寇)の簡単な経緯から述べて参考に供したい。 蒙古の対日威嚇 文永四年(1267)9月、蒙古王忽必烈(フビライ)の国書を持参した高麗の使者潘阜(ハンフ)が来日して以来、文永十年(1273)3月、張良弼(チョウリョウヒツ)が最後の使者として派遣されるまで、前後五回にわたって執拗にわが国に国書を送り、蒙古は暗にわが国の服属を迫った。しかし朝廷、幕府は国書が不礼であるとして、これに一度も返書を与えることなく、すべて使者を追い返してしまった。 この間文永八年(1271)、蒙古は国号を「元」と改めた。 元の日本遠征 元においては元の第一回派遣の使者潘阜らが未だ帰国しない至元五年(文永五年=1268)五月、早くも高麗に対して日本遠征のための一千艘の建艦を命じ、その建造を急がしめた。また一方使者が帰国すると、日本への航路、その他地理的な調査を命じている。このように着々と日本遠征の準備を進めていた元も、いよいよ日本の服属する意思のないことを確認した忽必烈は、至元十一年(文永十一年=1272)三月には忻都(キント)、洪茶丘(コウチャキュウ)将軍に日本遠征の勅命を下し、五月には一万五千の兵を高麗へ送った。 やがて同年十月三日、戦闘準備を完了した遠征軍は、都元帥忻都を総指揮官に、蒙漢軍ニ万五千、高麗軍八千、その他水主(かこ)、梢子(かじ)など総勢三万九千七百からなる大軍を、戦艦三百艘、その他の舟艇六百艘合計九百艘からなる大艦隊をもって、高麗の南岸合浦(慶尚南道鎮海湾の一部馬山付近)を出航し、日本遠征の途につかせたのである。
文永十一年十月五日未明、元軍は対馬の西海岸佐須浦(小茂田浜)の沖に姿を現わした。佐須浦からの急を聞き、対馬守護代宗右馬允助国は手勢八十騎を率いて現場に急行した。やがて上陸をした約千人余りの敵に対して戦闘は開始されたが、多勢に無勢、衆寡敵せず力戦奮闘も空しく、助国以下全員壮烈な戦死を遂げた。対馬に上陸した敵は略奪暴行の限りを尽くし、多くの島民は男女の区別なく虐殺され、全島廃墟と化した。 その間、命を受けた助国の郎党小太郎、兵衛次郎の二人は辛うじて島を脱出し、小舟を繰り波濤を乗り切って元軍の対馬襲来を博多へ注進した。 対馬を蹂躙した敵は、十日余りも対馬に滞在したが、更に南下して十月十四日夕刻には壱岐に現れた。そして翌十五日板木浦(勝本)から湯の元方面にかけて一斉に上陸を開始した。壱岐守護代平景隆は手兵僅か百騎をもってこれに向い、死力を尽くして防戦に努めたが、雲霞の如き敵兵には抗する術もなく、力戦奮闘の末、ほとんどが討たれ、景隆も城(桶詰城)に退き一族ことごとく自刃した。 敵の上陸と同時に郎党宗三郎は命を受けて島を脱出し、ただ一人三日三晩不眠不休で玄海を乗り切って、元軍の壱岐進攻を博多へ急報した。(宗三郎の博多到着は、元軍の博多上陸の一日前十月十八日であった。) 元軍による島の荒廃は実に凄惨であり、島民の生きたものは捕えられて虐殺され、民家は焼かれて全島全く焦土と化した。 蒙古軍東松浦半島に来襲
浜井三郎氏の説によれば、「当時北風が強く、元軍の折畳式網代帆、固定帆の艦船によって逆風に対して開き帆航走のまま博多へ直行することは到底無理、不可能なことであり、当然至近距離の東松浦半島へ着航するのは自然の理である」という。 敵の襲来した的確な場所、月日等については現存する資料には明記がなく明らかではないが、地理的にみて東松浦半島から鷹島(長崎県)と近隣の地域にかけてであろうと推察され、月日も次の博多湾襲撃から考えて、ほぼ十月十七日前後のことと考えられている。(博多湾には十月十九日、今津、祖原、百道原海岸に上陸を開始している)。 諸書に伝えるところによれば、在地松浦党武士団は、突然予期せぬ異敵の襲撃を受けて不意をうたれたものの、敢然起って応戦し猛反撃を加え、必死の反撃戦を敢行したもののようである。そのため多くの死者を出し、民衆も大損害を被ったようである。おそらく敵軍の用兵の術も全く異なり、知らぬ戦法に悩まされ、苦戦したものと思われる。怒濤の如き元大軍の前には浦々の松浦党小武士団の到底かなうはずはなく、敗れて戦死を遂げ、沿岸住民も共に巻き込まれて壱岐・対馬同様の無残な仕打ちを受けた。これらのことについては『日蓮註画賛』には、 「肥前国松浦党数百人或ハ伐ラレ或は虜ハレ、此国ノ百姓男女壱岐対馬ノ如シ」 とあり、『高祖遺文録』にも、 「松浦党数百人打タレ、或ハ生取リニセラレシカバ、寄リタリケル浦々ノ百姓ドモ壱岐・対馬ノ如シ」 とみえ、また『伏敵編』にも、 「肥前沿岸都邑に寇す。松浦党の武士之を防ぎ或は陣亡し、或は俘はる」 とあり、どの書にも敵が松浦沿岸に襲来して、松浦党はこれを要撃して数百人が戦死し、百姓どもまでが多大の惨害を受けたことが手短な文ではあるがその惨状を如実に物語っている。そしてその様は「壱岐・対馬ノ如シ」というからに、その凄惨の限りを尽くしたものと思われる。しかし松浦党武士団の在地武将において、これら奮戦または戦死した武将の名も記録にはなく、伝えられてもいない。 佐志父子四人共戦死 いまここに「松浦有浦系図」(『有浦文書』)を見るとき、次の項に注目される。 房 松浦佐志四郎左衛門尉―――――――――――――――――――――* に続く 文永十一年蒙古賊船令襲来日本之刻房父子四人共為之闘死 __ 直 佐志二郎 | 房一所仁為蒙古戦死 *―|__ 留 佐志源三郎 童名乙鶴 | 房相倶為戦死 |__ 勇 松浦佐志源二郎 童名生子 父子相胥ニ為蒙古闘死 これによれば、文永十一年蒙古襲来において佐志房父子四人共々一所して戦死をしたことがわかる。しかし戦死の月日、場所の記述がない。これは何を物語るものであろうか。「有浦松浦系図」において過去の合戦において戦死をした者については戦死の年月日の記入はなくても、戦死の場所はすべて明記されているにもかかわらず、この四人に限っては戦死の場所の記入がない。これは幕府その他に対しての配慮からではあるまいか。 当時を推察するところによれば、蒙古軍襲来の急報を受けた上松浦入野地方を預かる地頭佐志四郎左衛門房は、取るものも取りあえず、直ちにその子・直、留、勇ら三人と集まった郎党を率い、馬を駆って現地に急行し、星賀浦に到り、浦の背後の丘陵地松山に本営を設けたもののようである。そして上陸してすがり寄せる敵の集団に対して反撃を加え、孤軍奮闘、援軍はなく、矢尽き刀折れ、四人共々壮烈な戦死を遂げたものと考えられる。 肥前町の郷土史研究家浜井三郎氏に案内を請い、当地の地形や氏の所見を拝聴する。氏の見解によれば、蒙古軍の上陸地点は星賀八幡宮と立神断崖の間ではなく、星賀浦右岸の大ケ崎の沖バエ附近であろうという。さきの地は波浪特に激しく上陸用舟艇では上陸不可能の場所という。 上陸に成功した蒙古軍は番所、大ケ先、牧の地、松山と執拗に抵抗する松浦党小軍団の佐志勢を追い詰めて上がり、松山一帯で最後の決戦を挑む佐志房の勢と雌雄を決したもののようである。そして衆寡敵せず佐志房一族父子四人、あるいは個々に敵中に割って入り、全員一所して奮死したものと考えられる。 佐志房父子戦死の傍証 従来我々は佐志氏一族も命により博多へ参戦したものと信じていたが、博多の合戦において親子共々四人一所して戦死することはほとんどありえず、余程不運の一家と考えていた。しかしやはり佐志一族は博多津には馳参せず、在地のまま敵襲を受け、防戦して四人一所して星賀浦松山において戦死を遂げたと見るのが至当である。 建治元年(1274)九月、元使杜世忠(とせいちゅう)ら五人を鎌倉竜の口において斬った後、幕府は愈々北九州一帯、特に博多津の沿岸警護の厳重を命じ、御家人、非御家人を問わず、非常事態即応体勢を整えることを命じた。 建治元年七月十七日、鎮西東方奉行大友頼泰に対して、幕府は北条時宗、北条義政連署の次の文書を発している。 「異賊去年襲来之時、或臨戦場不進闘、或 建治元年七月十七日 武蔵守 在判 相模守 在版」 この文書を見る限り、文永の役においては自分の所領を守るといって博多津へ馳参しなかった者も多くいたことがわかる。 このようなことを考えるとき、佐志房父子も博多津へは馳参しておらず、不意の敵襲にあい、星賀浦に急行し、松山において父子共々戦死を遂げたものと考えられる。このため「有浦松浦系図」にも幕府その他に配慮して、戦死の場所の記入もなかったのではないかと思考される。
後年幕府はこれら在地で戦死をした者に対しては、何らの恩賞も与えなかったという。 館神社と木太刀奉納 佐志一族が戦死を遂げたと考えられる星賀浦背後の松山の丘の上には、古くから館神社(通称オタッチョ様)とう小さな神社がある。土地の人々の信仰、崇敬も篤く、祈願の成就には木太刀を作って奉納する習慣がある。この祭神こそ佐志房父子四人の霊を祀るものと考えられている。 特に木太刀を奉納する所以は、元軍の襲来に際して要撃はしたものの、太刀不足、即ち見方は過小、更に援軍は来たらず、之を求めつつ、遂に矢尽き刀折れ、無念の戦死を遂げた佐志房一族の心境を哀れみ、かつ慰霊のためのものと思われる。 また社殿の周囲の雑木林の中には苔むした石積みの墳墓らしいものや、輪塔の塔片が多く散在している。おそらく当時の佐志一族郎党のものであろうと考えられる。 雲合霧集の元の大軍の突如の来寇には、津々浦々の松浦党小武士団の到底かなうところではなく、惨敗して全員が玉砕し、沿岸住民も殺戮されて悲惨の極みであった。咄嗟の危急の時とはいいながら、歴史の陰に埋もれた悲惨な歴史は郷土の史書には全く書かれていないため、明らかにもされず、また知る人も少ない。また更に遺憾ながら、これら危急存亡の時、粉骨砕身して国難に殉じた多くの武士たちの氏名、戦死の場所など、ほとんど明らかでない。 『末盧国』平成6年 第119号、120号より転載 |
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2009年7月12日、鷹島を訪れてゆっくり遊んで、帰りは夕暮れになりました。帰り路に不思議な鳥を見ました。私たちの車の前を低く飛んだのですが、トビだとは思うものの、まさかとは思うものの、「アッ、鷹だ」と一瞬思ったほどに、大きく、たけだけしく見えました。トビもタカの種類だそうですが、ここには多いのかもしれませんね。 そのあと、鷹島大橋を渡って帰る時に右に虹を、左に日没を見ました。(上の二枚はいずれも鷹島大橋の上からの写真です。)虹は聖書で言えば、神が人間に約束の印につかわされたもの。平和の約束ならいいですね。地球上から戦死という名の人の一生の畢り方がなくなればいいですね。8月に毎年思うことです。 ではまた来月、お目にかかります。 松浦党については前にもいくつか記事があります。松浦党目次へ。 |
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