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2009年6月

このページは、色々な方にご協力いただいて、
唐津のおみやげ話をお伝えするページです。
バックナンバーもご覧頂ければ幸いです。


#1 御挨拶


「週刊朝日」2009.4.24


唐津の怪人

―世界に羽ばたく陶芸家・中里隆





みなさま、こんにちは。
今月は、再度中里隆先生のことです。
4月と5月に「中里隆うつわ展」を洋々閣にて開催しました。
3年前の古稀記念展とはうって変わった中里隆の新境地をたくさんのお客様に見て頂けました。
そのご報告を兼ねて、今月号を用意しました。
特に週刊朝日4月24日号に嵐山光三郎先生の連載エッセイ594号として
「唐津の怪人中里隆を見よ」と題して掲載された文章は
大きな反響を呼びました。
ここに転載させていただきます。嵐山先生、週刊朝日様有難うございました。

皆様どうぞお楽しみくださいませ。



コンセント抜いたか
 
嵐山光三郎
週刊朝日 2009年4月24日号 連載エッセイ594

「唐津の怪人中里隆を見よ」

作陶中の中里隆

 中里隆(なかざとたかし)は唐津の山懐で音楽の器を作る。工房隆太窯(りゅうたがま)(小山富士夫の命名)は、九州・唐津市からさらにひと山越えたところにあり、工房から見えるのはビワ畑とミカン畑だけで、夜ともなればあたりはまっ暗である。登窯、母屋、工房が山中に点在し、その間を小川が流れ、沢蟹がとれる。
 山の斜面にはドラ猫と中里が昼寝している。夜は川のせせらぎが聞こえる夢のような秘境である。
 と、これは私が二十七年前(昭和五十七年)に「週刊朝日」に書いた記事である。当時、中里隆は四十五歳であった。

 唐津焼といえば、人間国宝の中里無庵が、天衣無縫のトレードマーク顔で登場してくるのが常であった。本家中里太郎右衛門は長兄がついでいたから、五男としては、のびのびと作陶できる。

 中里隆は頭髪モジャモジャ、口ヒゲモジャモジャの仙人の風貌で、紺のモンペにすりきれた下駄ばき姿、ブルーのTシャツを着て、前のめりにヒョコヒョコ歩いてきた。

 二十三歳から、父無庵の許で、一日七百個の同じ型の雑器を作りつづけた。 三十四歳のとき、小山冨士夫の推薦で種子島へ渡り、種子島焼を始めた。種子島に三年滞在。唐津に隆太窯を開いてからはモクモクと作陶をつづけ、窯主を長男の中里太亀に渡して世界放浪の旅に出た。

 ここんところがぶっとんでいる。俗に「窯場あらし」という。ムカシの剣術家が有名道場を訪ねて試合を申し込み、道場主に勝って看板を持っていってしまうのを道場あらしという。しかしそれは血の気の多い若
雪のアンダーソンランチ
いころにやることで、評価が定まった中年以降はおとなしくなる。

 54歳の時、アメリカ・ヴァーモント州、56歳でハワイ、57歳でコロラド州で窯場あらしをつづけたが、看板を持ってくるようなことはしなかった。そのかわり「先生、私を弟子にして下さい」とついてくる者が続出し、59歳のときデンマークのロイヤルコペンハーゲンに頼まれて五年間教えにいった。

 いまや世界のナカザトになった。七十歳を記念した古稀記念展が唐津の洋々閣で開かれたのが三年前であった。

 洋々閣は九州一の旅館である。どこが九州一かというと、どこもかしこも九州一なのである。料理がめちゃくちゃうまくて、値段がリーズナブルである。九州に百十六年間つづいた悠々たる老舗で、主人の大河内明彦さんは中里隆の親友である。旅館のすぐ前が海だから、縁側からサンダルをはいて泳ぎに行くことができる。隆太窯御用達旅館ですね。

 その洋々閣展示室で、中里隆のうつわ展があるときいて、血が騒ぎ出してウズウズした。他の仕事をうっちゃって、一泊二日で唐津へ行ってきた。
 三年前の古稀記念展は、ロイヤルコペンハーゲンで作陶した白磁鉢や、コロラド州のアンダーソンランチで焼いた焼き締め俵壺、鉄釉大瓶など、それは見事な作品が百五十点並び、三日で完売してしまっ
醤油差し いろいろ
た。

 外国の土を使い、その工房の流儀に従いつつ、陶工ナカザトの技術が一段と磨かれていた。古唐津の名工がコロラド州の工房で窯変したのであった。

 中里隆の陶器は繊細で優美な音楽性が特徴だが、そこにゴツンとした鉄の意思が加わった。七十歳にして気力満々、ゆるぎなき意思があった。

 今回はうつわ展である。中里隆は日用雑器の達人でもあって、小鉢、皿、徳利、マグカップ、湯呑みなども作る。ロクロを廻すのが早い。どの陶工もロクロ廻しは早いが、中里隆は神技である。陶工歴五十年の指さきから、花が咲くようにうつわがふんわりと咲く。工房では、瞑目してロクロを蹴っていた。

 うつわは日用雑器だから壺や瓶に比して、値が安いのがありがたい。うつわ展の初日に(4月3日)に行くと出光美術館館長の出光昭介氏や、荒川正明学習院大学教授(元出光美術館主任学芸員)といった目ききの大物がいて、150点出品のうち70点が、すでに売り切れていた。中里隆の作品の多くは出光美術館が所蔵している。

 私がねらっていたのは醤油差であった。アンダーソンランチで体得したテラシッジと呼ぶスタイルで、ローマ帝国時代、二、三世紀のやきものである。

 テラシッジ三島鉢、テラシッジ角切皿、テラシッジ湯呑みなど、いままで見たこともないやきものが並ぶなかに、醤油差が五客入っていた。黒釉がひとつ、三島がひとつ、焼き締めなどがあったが、すべて売れていて、残念。
種子島蛤向附
 ヨーシ、かくなるうえはと目玉をギラつかせて、すみからすみを捜すと、ありましたよ、いいのが。焼き締めの種子島蛤向附三客がはしっこにあった。値が一番安い皿である。種子島の土をロクロで廻し、蛤の形にしている。
 皿が波うっている。官能的なゆらぎ。ロクロを廻す速度がピタリと止まって、そのまま皿になった。
 土がアレレレレと思っているうちに、気がつくと魔法の手によって蛤になっていた。蛤のふちがセクシーにカーブして揺れ、焼き締めた肌が夕焼けみたいに赤い。国宝の皿である、ときめてしまった。

 洋々閣のうつわ展は、これが一人の陶工の作とは思われないほど多種多様である。種子島焼の片口鉢、テラシッジ三島文水差、白磁四方皿。どれをとっても、ぶっちぎりの傑作揃いで、ここ五年間の自信作ばかりが並んでいる。

 洋々閣のうつわ展は、七十歳で窯変した中里隆の記念碑的展示といってよい。五月三十一日まで開かれているから、唐津の観光がてら行ってみて下さい。私が買った種子島蛤向附も展示してあります。

 で、中里隆は夏にはコロラド州のアンダーソンランチへ行って作陶し、洋々閣主人は、スペインへ放浪のひとり旅に出るんだって。
 唐津のみなさんは、アラセブ(七十歳前後)がやたらと迫力ありますな。



 嵐山先生、ありがとうございました。おかげさまでたくさんの方がこのうつわ展に来て下さいました。
うちのアラセブも大喜びで、放浪の旅の準備に取り掛かりましたが、そのあとに降ってわいた新型インフルエンザ事件。これは一大事。とめても聞かないガンコ世代。まずは、新型インフルエンザの記事を見えるところにあちこち置いて、心理戦を展開。アラセブは、「60歳以上はかからないからどうしても行く」とヘンな信念でがんばったのですが、私は「あなたは75歳でも59歳にしか見えないからウイルスが間違えて取りつくかもしれないのでダメ」とほめ殺し戦略。あの人この人にも口添えを頼んでの人海戦術。ついに作戦勝ちで旅行キャンセルに持ち込みました。ヤレヤレ。嵐山先生には、ごめんなさい。

では、皆様もお元気で。お出かけにはマスクを、お帰りにはウガイを、お忘れなく。


  中里隆うつわ展「特別図録」を販売しています。2500円 前回の古稀記念展図録とセットでは4000円です。メールでお申し込みください。

今月もこのページにお越しくださって
ありがとうございました。
また来月もお待ちしています。


洋々閣 女将
   大河内はるみ


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