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2009年5月

このページは、色々な方にご協力いただいて、
唐津のおみやげ話をお伝えするページです。
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#1 御挨拶


北川様ご一家  洋々閣の前で



五月の薫り高い風が吹いています。
孫の鯉のぼりは、生まれた時はアパート住まいだったので、ベランダにかけられる小さなものにしていたのですが、唐津へ帰って来て庭のあるうちに住むようになると、もっと大きいのにしておくべきだったと、悔やまれます。代わりに呼子の幟を見に連れて行こうとおもいます。
今月号は2005年5月にお泊まり頂いた東京の北川様よりいただいたエッセイを掲載いたします。どうぞお楽しみくださいませ。






 唐津の印象
                           北川光治
  
      唐津城の天守閣

浮岳の間から見た日の出
 唐津は、豊臣秀吉のころ、朝鮮から陶工をを招来して多くの窯が開かれ、唐津もの と呼ばれる焼き物文化が華ひらいた。その焼き物の古里に洋々閣は、深い軒に繊細な 窓格子を張り陰翳を深くして、大正建築の面影を今に伝える閑静なたたずまい。
 宿に着いて、案内された「浮岳」の部屋は、唐津焼の壺に卯木や山帰来など、山野草が生けてあり郷土色豊かであった。老松の群生する庭園は、松韻を聴くに相応しい。
 明け方六時ごろ、ガラス窓をいっぱいに開けて眺める日の出は美しい。浮嶽(805m)は唐津湾から迫り出した背振山地に、傍らの並んでそびえる十坊山をしのいで、円錐形にぬっとそびえている。太陽は闇の夜空を払うかのように曙に染め、十坊 山の頂にかかり、金色に光り輝く。窓辺には数本の槇や楠が茂り、先ほどから部屋の障子には、朝日がさして楠の枝影が揺れている。楠の細い枝先は一文字葺きの屋根にもかかり、淡いクリーム色の残り花が甘い匂いを、かすかに漂わせていた。
 昨日、長男夫婦と唐津城へ行き、天守閣に上り四方の景色を楽しんだ。甘い香り漂う藤棚をくぐり石段を上って行くと、途中、珍しい白い花房の藤がみごとに咲いていた。
 唐津城は慶長七年(一六〇二)、藩主の寺沢広高により築かれた。城は封建社会の象徴的存在である。以下、大久保・松平・土
唐津城の白藤
井・水野・小笠原の歴代藩主は、明治四年(一八七一)廃藩置県により廃城となり解体されるまでの約270年間を支配していた。 再建された五層五階地下一階の唐津城は、慶長期に存在していたと思われる様式を模したと言われている。城内に展示された鎧・刀剣などの武具、書簡や藩札、日用品などに、当時の文化を偲びつつ、天守閣へ狭く急な階段を上った。
 天守閣から東に広がる景色は、虹の松原が唐津湾に鉄紺の弧を描いて広がり、白浜 の汀に白波が、もう一筋の弧を描いて美しい。 鏡山(領布振山)は一幅の絵画を見るごとく、照葉樹林の生い茂る背振山地の麓に鏡神社を祀り、天上の舞台であるかのような台形の姿をしている。 西からは、西の浜松原が白浜に弧を描いて広がる。なだらかな照葉樹林の山並みの 彼方には、鎮西・呼子が霞んで眺められる。 南からは、城下町が松浦川の両岸に栄え賑わう。松浦川は遙か有田の黒髪山に濫觴をみて、唐津路に沿い滔々と唐津湾に注ぐ。 北からは、高島(宝の島)が宝くじの幸運を祈る小さな宝当神社を祀り、鍋を逆さに返した姿を、唐津湾に浮かべる。大陸と交流の玄関口である玄界灘からは、水平線の彼方に唐の国、中国・朝鮮半島が思い偲ばれる。

 天守閣からの眺めは自然や社会環境の移ろいと体内時計のサーカディアンリズムを目覚めさせる。 今朝、背振山地に日の出を仰ぎ、今夕、鎮西・呼子の山並みに日の入りを送る。今宵は十六夜の月を仰ぎ、明日は立夏に至る。 自然の営みは、いち日(昼と夜)という地球の自転周期と、ひと月(朔・望・晦日)という月の公転周期、そして、いち年(春・夏・秋・冬)という月と地球の公転周期による、宇宙からの永遠のリズムを刻んでいる。その昔、我が国では二十四節気のなかに、自然の移ろいを見出し、農業、漁業などの産業と生活とは密接にかかわりを持っていた。
 藩主寺沢広高は慶長年間に一〇〇万本もの黒松を植林して、鏡山の麓に広がる塩屋新田の農地において、潮風や砂の害から守り治めることに成功した。封建社会は時代とともに移り変わり進化していくなかで、藩主水野忠任は財政難を乗り切るために、年貢米を引き上げるなどの財政再建に着手した。このとき農民の反発を招き、明和八年(一七七一)七月二〇日の早朝に松原一揆が勃発した。唐津藩内の農・漁民は、虹の松原に二万三千人ほど結集し、租税の軽減を要求し成功させた。  
  観光に訪れるたくさんの人は、この歴史的舞台を目の当たりにして、どんな感慨を抱くのだろう。結果として虹の松原は庶民の味方であった。黒松の植林と保護がなかったなら、目の前はどんな景観になっていたのだろうか。おそらく開発が進んで、風光明媚な唐津湾の自然美は存在しなかった違いない。

 海原の沖ゆく船を帰れとか
 領布振らしけむ松浦佐用姫
と万葉集に歌われた鏡山のあたりは、縄文・弥生時代の遺跡が多く出土し、「魏志倭人伝」にある末廬国があったといわれ、大陸文化の窓口でもあった。その記述には、次のような唐津の風土記が著されている。
洋々閣 佐用姫の間にて
「人家が四千戸余りあり、海山に沿って住んでいる。草木が茂って道を行くとき前の人が見えないくらいだ。人々は魚やアワビを捕るのが上手で、浅いところも深いところもかまわず潜って取っている」
 歴史をさらに遙かなまでも思いめぐらしてみると、太陽系の惑星である地球は約四六億年前に誕生した。日本列島は新生代第四紀(二〇〇万年前~現代)の時期で一〇〇万年前の造山運動などの大変動によって、列島の山々や海岸線も現在の地形へと変化した。唐津の美しい山河もこの時期に誕生した。
 その後の新生代氷河期(七万年前~一万年前)には再び大陸と陸続きが出現したと言われている。 生命系の誕生は、三〇数億年前にさかのぼる。 初めての人類はアフリカに誕生したといわれている。新人と言われる現代人は一〇万年前に出現し、日本には新生代氷河期にあたる数万年前の旧石器時代にやってきたようだ。続いて縄文時代を迎え、一万年二千年前に縄文土器が焼かれたのは、唐津焼など焼き物文化の起源と言うことになる。 ヒトは遙かな生命系の歴史過程で、生命の系統樹の最先端に位置して、朝日のごと 一瞬の時を輝く。そして、有史以来、郷土の歴史舞台で生命の時を燃やす。
 城下町唐津は山河が美しく、封建社会の原風景が保存され、虹の松原は素晴らしい贈り物であった。


   呼子の五月幟

 昨日から洋々閣に宿をとり、今朝は食事を早めにすませて、長男夫婦と車で呼子へ向かった。港に近づくと車は混み合ってきた。港の岸壁には,端午の節句を祝って武者絵を描 いた外飾りの五月幟が、四〇数本も潮風にはためいていた。赤・青・黄の極彩色に染め抜かれた武者絵は、青空に映えて壮観であった。港通りまで来ると長男は、「駐車場に入れてくるから」 といって町営駐車場へ、妻とわたしは先に降りて朝市へ向かった。 港通りから一本路地を入った朝市通りは、白いポリ袋を下げた買い物客で賑わって いた。おばさん達は屋台や路上に箱を並べて、とれたての魚介類や野菜、加部島特産の甘夏ミカンなどを売っている。ま
呼子の五月幟
もなく長男夫婦と出会い、買い物客とすれ違いながら通り抜け港通りに出ると、烏賊の一夜干しを焼く芳しい匂いが流れてきた。青い煙を上げて焼いている傍らに、開いた烏賊を数十枚もぶら下げて、メリーゴー ランドのような一夜干しをつくる回転装置が回っていた。二基ともカタカタと微かに音たてながら、その下で烏賊の影も回っていた。何も飾らない磯の香漂う素朴な朝市は、生活の知恵あふれる原風景をみるように懐かしく、さわやかな潮風の中にあった。
 それから、五月幟のはためく港通りを乗船場まで歩き、遊覧船で七ツ釜へ向かった。日本列島は新生代(第三紀)の約一五〇〇万年前に地殻の割れ目からマグマが吹き出し、激しい海底火山活動が起こり、大陸から引き離されるようにして誕生した。 玄武岩の海蝕洞窟に近づくと、柱状節理の躍動的なマグマのうねりは、呼子誕生の痕跡、遙か昔の巨大な自然エネルギーの化石を目の前にしているようだった。節理は、マグマが冷えて固まるとき縮むため火成岩に刻まれた、規則性のある割れ目で、柱状、板状、直方体を造る。柱状節理の圧倒的な迫力で思い出すのは、数年前に家族旅行で出かけた兵庫県の豊岡にある六角形や八角形をした玄武洞で、円山川のほとりにあった。 その他、伊豆下田の爪木崎海岸など全国で見られる。日本は地殻変動の大きな場所に位置している。海底から突き上げた柱状節理を目の当たりにして、日本列島の骨格の一部を見ているように思えてくる。

 昼近くになって嫁の運転により、佐用姫伝説ゆかりの加部島へ向かい呼子大橋を渡り、活魚料理店でお昼をいただいた。真昼の太陽を反射して、キラキラと光り輝く玄界灘を見下ろせる店は、お客で混雑していた。幸いにも眺めのよい窓側のテーブルに、四人は腰をおろして休むことができた。黒い大皿に盛られた烏賊の活造りは、身体が短冊に刻まれいるのに、表面には虹色の斑模様を点滅させ輝いている。この生命現象を竹枝、クマ笹の上に、じっと見つめていたわたしは思わず、「虹色に輝いているよ」と生命の美しさにため息をついた。 「はやく食べて、楽にしてあげれば」と長男は烏賊の気持ちを察して言った。
 しかし、烏賊は与えられた生命の時をまっとうするために、玄界灘の紺碧の海の中で、漁師の仕掛けた罠から懸命に逃れようとしたに違いない。命を灯された全ての生命系は、一個の細胞、あるいはその集合体としてシステムを構成し、命の維持、持続に向け産み落とされた生命環境で懸命の時を、愛の邂逅を生きている。黒い大皿に美しく盛られた烏賊は、生命の遺伝子DNAという愛のエネルギーを未
田島神社の佐用姫神社
来に託すことができたのか。自然を理解し生命環境を賢くも愚かにも操ることができる人は、食物連鎖の頂点に立ち、自然と生命の永遠を祈る存在なのだ。黒い大きな眼を見ていると、箸をつけ難いほどだった。
 この、生命危機の迫った身体から発信していた美しさは、人と同じ祈りだったのではという気がしてならない。檜のまな板に盛られた玄海の幸盛りも、小片に刻まれた鯛や鮃、栄螺や雲丹などの魚介類の切り身が、神聖な感じがして美しかった。それぞれの生命の器に、それぞれの愛のエネルギーを宿し受け継いでいる。言うまでもなくテーブルの上に並んだ海の幸は、食物連鎖という自然の摂理の出合 いなのだ。けれども、人も海の幸も生物の系統樹の最先端に輝き、たった今、出合っている生命体であることに違いはない。
 それから、活魚料理店を後にして、田島神社へ向かった。境内には末社の佐用姫神社が祀られている。神社の言い伝えは、奈良時代初期に著された肥前風土記の佐用姫伝説に見られる。その言い伝えは、時代を経ることによって、歴史化・合理化され、まとまりのあるかたちをなしてきた。すなわち、唐津の人のこころを温め続けている永遠の宝になったのだ。それは、要約すると次のようである。
 「大伴狭手彦は、大和朝廷から総大将を任じられ、任那・百済を援軍するため新羅征伐を命じられ、軍を率いて松浦にやってきた。物資の補給や兵士の休養のため準備の整うまでの間、篠原長者の屋敷に滞在する。そこで長者の美しい娘佐用姫と恋仲になる。軍船は準備も整い、唐津港を出航していった。佐用姫は狭手彦の軍船を追いかけて、鏡山(領巾振山)の頂上に立って、軍船が見えなくなるまで身に纏っていた領巾を振った。そして、ついには玄界灘に浮かぶ加部島の天竜岳の頂上に登りつめ、海のかなたに影が消えるまでじっと目で追い続ける。 ついに、その場でうずくまり、七日七晩泣き続けて、一塊の石と化した」
 その石は今、望夫石と呼ばれ末社のご神体として祀られている。
 お昼にいただいた料理が美しくこの上なく美味しかったのは、自然が豊かで美しい玄界灘から水揚げされた海の幸であるからだ。そして、幸せな愛の絆で結ばれた呼子の人々の食文化を頂いたからなのだろう。都会に溢れている輸入品という不純な偽物ではないのだ。まさに、呼子の漁師は狭手彦であり、その帰りを待つ陸に残された朝市のおばさんは、幸せな佐用姫だったのでは……。 呼子港の岸壁にはためいていた五月幟は、観光に訪れた人々に、そう語りかけているようであった。
                                                                ( 了 )





北川様有難うございました。
一昨年出版なさいました『文明の片隅で』(新風舎文庫)を、小さな命を大切に感じておられる姿勢に共感しながら読ませていただきました。どうぞお宅のお庭で、小さな生き物たちがのびのびと暮らして、そのことが人間に幸せをもたらしますように。



お読みいただいた皆様、ありがとうございました。また来月お目にかかりましょう。




今月もこのページにお越しくださって
ありがとうございました。
また来月もお待ちしています。


洋々閣 女将
   大河内はるみ


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