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このページは、色々な方にご協力いただいて、
唐津のおみやげ話をお伝えするページです。
バックナンバーもご覧頂ければ幸いです。
#1 御挨拶
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#104
2008年11月 |
―わが町の曳山自慢3 呉服町 義経の兜―
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皆様、こんにちは。唐津くんちがやってきました。お約束通り今月号は「わが町の曳山自慢3」として呉服町の町内会長であり篠崎紙文具店主、篠崎正之氏に登場していただきます。
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篠崎正之氏と長女の有紀子さん |
呉服町アーケードのなかほどに店がある |
篠崎氏のヤマ自慢の前に、呉服町商店街ホームページより町の説明をご覧ください。
呉服町は、唐津藩による城下町建設と共に始まりました。
城下町唐津
文禄二年(1593)唐津藩初代藩主となった寺沢志摩守広高は、慶長七年(1601)から六年の歳月をかけて唐津城を築いた。
また築城と同時に城下町の町割にも着手した。
「松浦拾風土記」に
一、町数、壱万石壱町宛にして拾弐町と極ル、此町割並惣行事廻
一、刀町・米屋町・呉服町・魚屋町・本町・大石町・紺屋町・中町・木綿町・材木町・京町・八百屋町とある。
藩政中期には町田川を境として、左岸に総町として内町
(本町・呉服町・中町・木綿町・京町・刀町・米屋町・紺屋町・平野町・新町・八百屋町)外町(材木町・大石町・塩屋町・東裏町・魚屋町)をおき、それに組続きの町として江川町を加えて唐津十七町と称した。
広高は農村では宅地にまで税をかけていたが、城下町の発展のため町割内の町人や職人には免除され、経済活動が保護された。
こうして港にも恵まれた唐津の町は、しだいに商業がさかんになり、江戸時代中期には商人や職人の町人文化が栄え、やがて豪勢な[からつくんち]というお祭りを生み出すことになる。
呉服町のはじまり
唐津城大手門と相対し、唐津城築城時の町割でできた。
呉服屋が軒を連ねるようにと名付けたという。
城下町にとって最も重要な位置を占め、藩政期中頃からの筆頭大町年寄の石崎氏も呉服町に居住していた。
文化年中記録に
古来本軒三十四軒、南北一丁二十五間、当時家数人数百五十八人、引合五人組五十三人、内町年寄苗字帯刀御免一人、組頭一人、御肴屋一人、御用船問屋、酒屋四軒、糀屋一軒、薬屋一軒、質屋、寺安楽寺とある。
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呉服町アーケードとペーパークラフトのミニヤマ(池田博矢氏作) |
以来、唐津において商業の中心地として発展してきた。
近代
明治35年には佐賀~唐津間の鉄道が開通し、唐津駅前の商店街としてますますの発展をとげた。
昭和七年、町から市になった唐津市では、その頃から、観光都市をめざして努力をはじめ、たくさんの観光客が唐津を訪れるようになった。
昭和39年にはアーケード工事が行われ、天候に関係なく楽しくお買い物ができる現在の呉服町の姿となった。 |
では篠崎氏のヤマ自慢をお読みください。
精巧な兜ヤマ 源義経の兜
篠崎正之
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我がやま義経の兜は、天保15年(1844)に製作されました。この時代に町民が協力してこの様なすばらしいやまを作られた事に対しほんとうに敬意を表します。兜の裏を見ると当時の名前が書いてあり、商人の町ですから、商売の名がそのまま苗字になつています。私の家はその時代鬢付けを作つていましたので名前が鬢付け屋さくべいと書いてあります。今でも刀町にある本家は屋号を鬢付け屋茶舗として今はお茶屋をされています。
我々が若い頃、どうして義経の兜を作られたか議論したことがありました。それは一軒の店に具足屋が呉服町にあり、甲冑が売られていて、それがモデルとなり作られたのではないかと想像したことがありました。
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しころ
しころ=錣 は 屋根かわらのように一枚一枚を重ね合わせて行きます。 一枚に12個の穴がありこの穴を麻紐で絡めて形を整え、カブトの形にカーブや膨らみを調整しながら組み立てます。これと同時進行でラシャ布地のオドシ=赤、緑、白 で組上げ仕上げてこの内側に綿花を和紙で包み一箇所ごとに収めて膨らみを作ります。 金箔の見えてる部分と黒色漆部分がしころです。(呉服町メガネのハシムラ・橋村信義氏註)
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兜やまは4台でどこのやまより精巧に出来ています。私も二回、塗り替えを体験することができました。漆を塗るところはありますが、しころを組むところはありませんでした。若い者が集まり、試行錯誤しながら1枚、1枚組んで約三ヶ月ぐらいかかりました。ほんとうに貴重な経験でした。やまは大事にしなくてはとおもいます。
現在はたくさんの人がやまひきに参加されます。多いところは400人も曳き子がいます。昔のフイルムを見れば30人ぐらいです。ほんとうに町内だけでやまを曳いていたのでしょう。
30年ぐらい前に旅の編集長をされていた戸塚文子さんが毎年来られ、唐津のおくんちは日本の祭りの原点がありすばらしと、いつもほめてありました。
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戸塚文子先生(洋々閣のくんち座敷にて) |
話は変わりますが、昭和天皇が病気をされた時の事です。その当時の総取締りは平野町の瀬戸理一さんで瀬戸さんは先の戦争の時ガダルカナルで九死に一生を経験された方です。長崎くんち、伊万里トンテントンは中止なり、私は取り締まりをしていました。戦争は経験していない者が大半でした。その我々がくんちを行う事に反対をしました。しかし瀬戸さんは1回もくんちを中止したことはないと皆んなを説得されくんちが行われました。その折にはいろいろな脅迫もあつたそうです。いよいよ宵やまが始まり唐津神社の通りは夜店でいつぱいです。香具師の方々明かりを赤々と付け我々を感謝の眼差しで迎えてくれました。これを見て涙が溢れてきました。私は瀬戸さんを探しくんちをしてよかつたねと何度も手をにぎりました。くんちが近まるといつも思い出されます。
10月になるとやまばやしがどこからとなく聞こえてきます。息子も東京からいつも帰ってきます。今年も天気に恵まれ楽しいおくんちが出来ますように願つています。どうぞ唐津にお出かけください。
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篠崎氏、エリサベス、わたし(30年前) |
篠崎会長さん、ありがとうございました。義経の兜って、日本人は判官贔屓があるので人気が高いのでしょうね。30年ほども前、アメリカ人のエリサベス・ルービンファイン嬢が呉服町のヤマを追っかけて毎年くんち通い、ついに義経さんを曳かせてもらったことがありました。女はダメのはずですが、エリサベスは女の子とおもわれなかったのかな?くんちの3日間、深夜まで呉服町のだれかれのお宅にいりびたって、夜中にこっそり洋々閣に戻り、お風呂そうじをしながら入浴しているわたしの横に滑り込んできました。なつかしい思い出です。何年か前に連絡がありましたが、今はいいママになっているようです。
くんちは人を逢わせ、また別れさせます。今年のくんちにあなたが逢ったかたはどなたですか?
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今月もこのページにお越しくださって
ありがとうございました。
また来月もお待ちしています。 |
洋々閣 女将
大河内はるみ
メール
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