総塗り替えなった珠取獅子 |
このページは、色々な方にご協力いただいて、 唐津のおみやげ話をお伝えするページです。 バックナンバーもご覧頂ければ幸いです。 #1 御挨拶 |
#103 2008年10月 |
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甦る明治の曳山 ―わが町の曳山自慢2 総塗り替え記念― |
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皆様、こんにちは。 毎年11月には唐津くんち特集をこのページに書いていまして、今年も来月11月号は呉服町の曳山自慢で準備ができています。 ところが、京町さんから、「珠取獅子を塗り替えたから、そのページに入れろ」と連絡がありました。タイミング的に今年がいいのだそうで。それで、急遽10月号に予定していたものをキャンセルして「甦る明治の曳山」を先に入れます。おなじみの山内薬局 吉冨寛氏とペペタマヤ 江頭義輝氏の競作です。重複する部分もありますが、それもまた楽し。ではまず、吉冨氏からどうぞ。 |
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甦る明治の曳山
京町曳山取締 吉冨 寛
昭和37年には深い緑に戻りましたが、39年「美わしの日本博」で宝塚に出動して以来見る見る褪色してしまいました。昭和56年の塗替では褪色しないようにと黒い緑になりました。何年かすると良い色になると信じながら25年。とうとう緑にはならず仕舞い。そして今回の塗替です。 実行委員会では朱にしたいという意見もありました。しかし、製作当初の緑に近づけようと言うことに決定。約133年ぶりに鮮やかな緑の珠取獅子が甦りました。
問題はこの色がどのように変化していくかでした。審議会では文化財の専門家、漆の大家など心強い方々がいらっしゃいます。
「昭和20~30年辺りまでは漆の質が悪かった、顔料が不安定だった、何よりも決定的なのは文化財に対する意識が薄かった。」と先生方は仰います。 以前までは石黄に黒漆を混ぜて緑を出していたそうですが、ヒ素が含まれているため現在では使うことが出来ません。それに変わって安定した顔料ができ、色の変化も余りなく、30年は大丈夫とのお墨付きを頂きました。色に関しては後は職人さんに任せるしかない。しかし、職人さん曰く「正直なところ塗ってみないと分からない。」安請け合いするいい加減さがないのは結構な話ですが、出来上がりまで不安は続きます。何度も色見本を作っていただき、実行委員会で検討を重ね、どうにか納得する色に仕上がりました。
さてここで京町曳山珠取獅子の由来をご紹介しましょう。
唐津神社の戸川さんのご親戚戸川真菅氏が赴任先の済州島からの送った書簡「唐津神事思出草」には京町に関してこのように綴られております。
この獅子は 玉取おふせ今はしも それのり据えてたはれおれるかも
京町は元一の屋台を出し町家の踊り子をのせて引廻し、辻々にて踊を演じて婦女子を悦ばせ居たりしが、若者等その甚だ活気なきに鑑み、新に製作を試み、年月の順により米屋町の次に列することゝなれり。
文政2年(1819)に刀町が囃子ヤマと呼ばれる赤獅子を製作して以来、次々と現在の曳山が作られていく中、京町は踊り屋台を守り続けておりました。しかし、明治の世になり、京町でも新しい機運が盛り上がったことが、この思出草から察することができます。 原形となった唐津焼の珠取獅子が我が家にあったそうですが、戦前人手に渡ってしまいました。それを見た人の話では、一抱えもある大きなもので、形は曳山そのものだったということでした。うちにあった唐津焼がモデルになったのか、それとも富野淇園が唐津焼で作ってみてそれをモデルにして曳山を作り、当時の若者取締である吉冨善兵衞(私の高祖父)が引き取ったのか。今になっては知るよしもありません。
曳山の内側には町内の先覚者と並び、細工人の筆頭にこの富野淇園の名前があります。この淇園先生は、ご存じ「唐津神祭行列図」を描いた人であります。つまり、あの襖絵に描いてある珠取獅子こそ、制作当初の姿を今に残す唯一の証拠なのです。 嘗て大手門時代、各町の曳山は宵山は各町の曳山小屋から思い思いに提灯をつけて大手口に集まり、明け六の太鼓と共に大手門が開きます。と同時に曳山は大手門をくぐって大手小路を北へ進み、突き当たりを明神横小路を通り神社前に集まります。ここで気になるのが大手門の規模。橋を渡って大手門をくぐるわけですが、曳山の高さで大手門の高さがほぼ推定できます。明治8年に出来上がった京町は尻尾の後ろが蝶番で開くことが出来ます。つまりそれを開いた状態で大手門をくぐるわけですが、明治9年に完成した水主町の鯱がとてつもなく大きかったということから、既にその時には大手門は撤去されていたものと考えられます。明治6年に明治新政府発布の「廃城令」、そして明治7年2月の「佐賀の乱」。このような歴史的事実があります。
珠取獅子の製作に取りかかった時点ではまだ大手門は存在していたと思われます。
糸屋の音治郎さんは明治25年、東の木屋に養子に入り久助を襲名しました。その音治郎さんが愛用していた由緒正しい白い蚊帳を東の木屋から頂戴し、今回の塗替で曳山の内側にがっちりと漆で布張りさせていただきました。ここでも京町の魂が吹き込まれた。 唐津神社社報7号(昭和38年10月)には淇園に関して次の記述がございます。 「唐津神祭行列図は明治16年富野淇園の筆になるもので、魚屋町の旧家西木屋山内家にあったもので長く同家の所蔵であったものを、去る昭和30年唐津神社御鎮座千二百年祭記念として、同家から奉納されたものである。 この絵は唐津神祭に於ける神幸山曳き行列を七幅続きの大幅に画いたもので、西の浜御旅所から西の門附近を中心に十五台の山と、曳子のほか、大名行列、奉納相撲、武士、町人、力士物売りなど、一千人に上る人物を配して、江戸時代末期の風俗さながらに、何れも極彩色で画いた貴重な絵巻物である。 富野淇園は、本町の御使屋(旧藩時代の使者宿)で私塾を開き良家の子女に学問を教えるかたわら絵を画いていたといわれ、54才の作品とされている。その後佐賀師範開校当時の絵の先生となり、明治24年4月7日58才で死去、その墓は西十人町法蓮寺にある。 本町、平野町、京町、水主町の山は淇園の製作になるものである。」 京町では塗替の年や年祭にはこの法蓮寺まで曳山を持って行き、富野淇園の墓前にて報告をする習わしで、10月5日のアルピノ会館での披露が終わって法蓮寺まで曳いて行きます。修復なった顕彰碑の前に淇園が見たであろう甦った明治の曳山を披露できることは何よりの喜びです。 斯くして京町は明治八年十月十六吉日、珠取獅子を唐津神社に奉納いたしました。
獅子本体の青は、万物の生まれる色であり、朱珠は黄金を胸中に抱え込む福寿の姿、邪気を祓う威厳ある獅子は百獣の王として君臨する雄々しい姿を表現し、当時から京町が一流商人の町であった事から、このようなめでたくも、たくましい珠取獅子を製作したと伝えられています。
11月3日の御神幸には御旅所の曳き込みが終わってから記念の餅まきを致します。
今年のくんち、どうぞお楽しみに。 |
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塗替実行委員長 江頭義輝
前段は京町の語り部吉冨氏がアカデミックに説明いたしましたがいかがでしたでしょうか、後段はまことしやかな話しに眉につば付けながらお読み下さい。
洋々閣は115歳、珠取獅子は134歳。 洋々闇は明治26年、珠取獅子は明治8年に誕生、共に歴史を刻み続けています。 タマトリジシとは唐津クンチに引き回す12番目の山のことで明治8年に作られ、今年10月に25年ぶりの4度目の塗替えが出来上がりきれいな濃い緑の曳山に生まれ変わりました。今年のオクンチは12番山京町の珠取獅子が見ものです。 珠取獅子が出来たのは、維新のすぐ後、 戊申戦争が慶応4年が始まり、すぐに元号は明治に変り、明治2年が大政奉還、明治4年が廃藩置県と時代は急激に変化して行きました。その時唐津では15台中の後ろ4台の曳山は競争するように製作の準備に入っていました。明治2年に米屋町、当町が明治8年、明治9年には江川町、水主町と一斉に出来上がっています。身分制度が無くなり町民にとって頭の上の押さえが取れたかのようです。誰が言ったか封建制度は親の仇というぐらいあったのでしょう。
曳山が出来るまでには、町内の協議、構想から入って費用の算段、粘土型枠、紙張り、乾燥の繰り返し、内部の骨組、漆塗り、台作りなど最低でも5年は要したろうと思います。ただ残念なことにそれに関する記録がどの町にもいっさい残っていないのは不思議なことです。 ついでに明治の初めの唐津藩の状況を説明いたしますと藩のお侍方は大変な状況だったのです。
さて戊申の役で唐津藩主長泰の四男、小笠原胖之助は23名の藩士と共に上野の山に彰義隊と一緒に立て寵もりました、ご存じのように佐賀鍋島藩のアームストロング砲にやられて退却、品川から長鯨丸に乗り平潟(茨城県)まで脱出しました、ここから別動隊8名は会津若松へ分かれて援軍に行き官軍と戦っています、4名が戦死されたとのことです。本隊15名は若殿様を守り函館へ出発、その後は新選組残党と共に函館で戦いここでも6名の戦死者を出しています、若殿様もこの時戦死なされたとのことです、若干16歳でした。残った藩士が唐津に帰ってきたのは明治8年頃だったそうです。 4台の曳山が製作されたのはそのような時代だったのです。(ここは郷土誌『末盧国』の受け売りです私の記憶違いがあればご容赦下さい) さて獅子本来の色とは
獅子は中国伝来の動物でありヒスイや青磁で作られています、よって「珠取獅子」も唐津神社襖絵のごとくに当初は緑に塗られていました、というのは絵の作者と山の作者が同一人物なので色の塗り間違いはないと思われるからです。その人は富野淇園。藩のお抱え絵師が細工人として曳山の内側に名前が書かれています。 その仕組みは、本体は台車に立てられた一本の柱の上に乗っています。 台車には櫓が組まれ鞘柱を組み込んでいます、櫓と鞘柱にはろくろと滑車が仕組まれ、ろくろを巻けば心柱が上下して動きます、なぜそのように上下させる装置が必要であったかと申せば氏神である唐津神社はお城の中にありました。年に一度だけ町民が無礼講と申して大手を振って城内には入れるのがオクンチだったわけです。そのためには山に大手門をくぐらさなければなりません。そのために曳山は角やら耳やら取り外せるように作り、また本体も低くさげて門をくぐれるようにしたわけです。 製作手順は粘土の型に和紙を8ミリほどの厚さまで張り重ね、乾いたら型をはずし内部に骨組みを作り、今度 「一閑張りの表示は訂正されたほうが・・・」 今回曳山会館で太宰府国立博物館の部長で漆の専門家の小松大秀先生に漆の色の変化について曳山を見ながら話を聞く機会がありましたがその時に、説明書きを読んだ先生から 「これは一閑張りとは違いますよ」と案内板を見るなり指摘があった。 「これは一閑張りとは言えませんね、紙塑漆体と言ったほうが良いでしょう」 「出来たら訂正されたが良いですよ」とのことでした。 私が知ってる「一閑張り」は竹を荒く組んだ上に和紙を張り漆を塗った寵でした。それはざっくりとした野趣を感じさせる民具で、曳山みたいに重量感のある物とは違っていました。私も以前から一閑張りという表示には違和感を覚えていたのでやはり違っていたのだと確信した次第でした。 製作以来50年が経過し、大正15年に赤に塗り変えています。 これに関し今まで自慢にもなりませんのであまり公にはしてこなっかったのですが、町内のざる豆腐で有名な川島家に次のような話が伝わっていました。 「大正時代、ある宮様がからつん山ば見に来らした事のあったちゅう」 「京町ン珠取獅子ば見らした時にさい」 「宮様が、これは雨蛙の山車かて尋ねらしたちゅう」という話です。 それが大正のいつの事か、何と言う宮様か、名前も判からないと言う事だったので、 「そりゃほんな事だろか」と半信半疑でいましたが、そうしたら去年高取邸で「朝香宮御来唐の折に使用せし有田焼展」が開催されました、
朝香宮家
この時、宮様が雨蛙と思われたからといって決して変った宮様ではなく、たぶんジョークとしておしゃったと思われます。昭和6年に朝香宮様から鍋島家へ紀久子姫が降嫁されていますが、たぶんその関係もあり佐賀、唐津へとおいでになられたのだろうと想像します、朝霞の宮様はセンスが良い宮様で目黒白金台に今も洋館のお屋敷が残っています、建築資材はフランスから取り寄せて建築され今は美術館になっています。 でもこの「雨蛙騒動」が天皇だったら大変なことです、「綸言汗の如し」天皇の言葉は取り返しが利かないのだそうです。今頃は「珠取獅子」ならぬ「雨蛙山」で引き回す羽目になっていたかも知れません。危うしあやうし。 2度目、3度目の塗り替えは・・・
そしてまた40年、昭和38年に赤から濃緑色に塗り変えたところ黄土色に変化、3度目は昭和58年に再度緑に挑戦して塗り替えたところ今度は真黒に変ってしまいました。そして今度の4度目の塗り替えです。 このあたりは吉冨君が詳しく書いていますので省きます。 後はおよろしいように。 |
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お二人の京町のダンナさん、ありがとうございました。そして塗り替えおめでとうございました。京町衆の心意気が伝わります。みなさま、来月11月2、3、4日と曳きまわされる新しい緑の獅子にどうぞ声援を送ってください。私も声をからして叫びますよ。 では皆様、来月号もくんち特集・呉服町義経の兜です。お楽しみに。 |
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