昔の絵葉書
西唐津港と三菱の洋館

このページは、色々な方にご協力いただいて、
唐津のおみやげ話をお伝えするページです。
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#1 御挨拶

#102
平成20年9



♪前は玄海 灘広く♪

─なつかしの西唐津


 皆様、この夏を無事に乗り越えられそうですか?
私は今年は猛暑にヘバリました。おまけに毎日ヘビより嫌いなカミナリがなるし。気象が変わってきましたね。毎日スコールが降るなんて、日本も東南アジアになったのでしょうかしら。
 さて、残暑の9月を投稿のエッセイで涼んでください。
 原稿をくださったのは、岡山の松本フミさんです。旧姓・中山フミさんは私の小学校からの同級生です。毎月このページを読んでくださって、唐津を懐かしみ、私に応援メールをくださるかたです。やさしそうなご主人とともに里帰りなさる時にはチラッと寄ってくださったりします。このたび西唐津のことを書いてくださいました。西唐津出身のかたは喜んでくださるでしょうし、西唐津をご存じないかたも、どうぞ一緒に御覧下さい。ではごゆっくりお過ごしください。




西唐津・・・・少女時代の思い出
松本フミ (岡山市在住)

故・中山田鶴さん

 玄海の海原が目の前に広がる。ローカル線の終着駅で、今も立派にJR唐津線の駅として名を連ねている西唐津駅。そこが私の生まれ故郷である。少し詳しく付け加えると、中学時代まで過ごした土地である。もう生家は存在しない。少女期を過ごしたその家に、母との忘れられない思い出がある。

 小学校の国語の授業で詩を書いてくるという宿題があった。私は文章を書くことが苦手で、何を題材にすればいいのか一日中、心が沈んでいた。夕方仕事から帰った母に、涙ながらに助けを求めた。庭にミカンの木があり、ちょうど白い花が咲いている季節だった。詩の全文は思い出せないが、
  「ちら ちら ちら みかんの花が散る。
   たえまなく散る花びらは
   あたり一面まるで雪が降りつもったようだ・・・」

 母の作った詩を翌日学校で発表した。先生に「雪が降りつもった」という表現がうまいとほめられた。私は恥ずかしくて顔を上げることができなかった。

 気がつけば私は亡くなった母の年齢をとうに越えた。

 当時の我が家は先祖代々の鍛冶業を祖父と父が営んでいた。唐房や佐志方面から漁船の修理
フミさんとお父さんの中山利一さん(92歳)
のための船具の注文が農機具よりも多かった。
 「しばしもやすまず 槌打つ響き 飛び散る火花よ 走る湯玉」

 あの、ふいごの風、玉の汗を額に流しながら仕事に精を出す祖父と父の姿は、りっぱな職人であった。しかし時代の流れは海辺の鍛冶屋を廃業に押しやった。

 今は故郷の風景も、そこに暮らしていた人々の記憶もセピア色になってしまった。

 しかし、なぜだろう。六十路の「鍛冶屋の娘」は、童謡『村の鍛冶屋』のメロディを耳にすると涙もろくなる。



 フミさん、ありがとう。
なつかしいですね、西唐津。
西唐津小学校の校歌をよく覚えています。
   前は玄海 灘広く
   うしろは衣干(きぬほし) 峰高く
   景色うるわし 西唐津
   港を下に 見はるかし
   眺め最もよきところ
   わが学校の校舎あり

 私たちの頃はこの校歌の曲は「ああ玉杯に花受けて」をメジャーコードにしたメロディでしたよ。全国的にそのような校歌はたくさんあったようですね。今はちゃんと作曲されて変わっているようですが、聞いたことがありません。一度聞きたい。下は卒業アルバムについてる昔の西唐津小学校の写真です。たぶん、衣干山の、日光浴場と呼ばれていた高台からの撮影かしら?もっと登れば第二展望台、頂上に第一展望台がありました。毎月1日に山登りをさせられて、低学年は第二展望台まで、高学年は第一展望台まで。体の弱い私はついに一度も第一展望台まで登ったことはなかったのでした。一生に一度くらい登っておくべきでしたね。神功皇后の伝説の残る山ですもの。もっとも、今では松浦佐用姫が衣を干したという話になっていますが、確か私の子供のころは神功皇后だったのです。今、西日本新聞社から発行された河村哲夫著の『西日本古代紀行  神功皇后風土記』(平成13年刊)をひもとけば、128ページに「神宮皇后は見借の地を経由し佐志川沿いに衣干山(標高162メートル)の西側を通って行く」と出ています。神功皇后伝説と松浦佐用姫伝説は「お話の成長」の過程で入り交り、また離れていくような気がしています。私が衣を干したのは神功皇后だと言ったら、主人から「佐用姫だぞ」とバカにされました。どなたか研究して教えてください。



 前に広がる海に浮かぶのは左の大きい島が今では宝くじの神社として全国に有名な宝当神社のある高島。右側の小さな島が無人島の鳥島。昔は料亭があって、夏場はにぎわったそうです。そのころ飼っていた猿が野生化して40年前には無人島の主としていばっていましたが、まだいますかしら。

 校舎が何棟か並ぶ中ほどに、「日本池」と呼ばれる池がありました。四角い、プール程の大きさで、でも深くなく子供の膝くらいの水深だったかと思います。池全体を太平洋に見立てて、隅っこのほうに日本列島がコンクリートで作ってありました。富士山もちゃんと盛り上がっていました。プールの端からピョンと跳んで九州に上陸し、そこから本州、北海道と進んで、帰りに四国にもちょっと寄って・・・。佐渡島もあったような記憶が。今は校舎も建て替わっていますから、きっと日本池もないのでしょうね。残念です。どなたか日本池の写真をお持ちじゃないでしょうか?

 クラブ活動は体育系が無理な私は「読書班」というのに入っていました。6年生の時はたった二人で、そのもう一人が今日原稿をくださったフミさんでした。本人は覚えてないそうだけど、証拠写真が卒業アルバムについています。

 向って左のおかっぱがフミさんで、右の天然パーマが私です。指導の先生は伊藤先生。何を読んでいたか、さっぱり記憶がありませんが、一度先生に「君の好きな作家は誰か」と聞かれて「ドストエフスキーです」と答えて顔をしかめられた覚えがあります。なんて生意気でイヤな子!フミさんはやさしくてかわいらしい生徒だったから、皆に好かれていました。私は今はドストエフスキーには触りもしません。いま好きなのは「星の王子さま」とか、「熊のプーさん」ですよ。やっとまともになってきたのかも。

 学芸会ではいつも主役をもらいました。たぶん、母が付け届けをしたんでしょう。5年生の時にはオペレッタ風の「白鳥の岩」というアイヌの伝説の劇で私が美少女ロセトの役、ロセトをめぐって争う二人の青年、ノッカとシマカ(結局3人とも荒れる海に入って死んでしまって魂が白鳥になる)のうち、ノッカを演じた山口君が、先ごろ50年ぶりくらいにお会いして、仕事を辞めて闘病しているということでしたが、そののちしばらくして訃報を聞いたのがとても悲しいです。シマカの佐々木君は元気よね。その時のロセトのソロを今でも歌えます。もっとも今はソプラノでなく、バスで歌いますが。

 先月お盆過ぎにひさしぶりに西唐津をウロウロしてみました。すっかり変わっています。昔の写真はないので、今の西唐津を少々ご紹介して今月はお別れします。ありがとうございました。

現在の西唐津小学校を正門から見たところ。
私たちの時は山の北側の斜面を登っていたが、正門の位置が変わって山の西側から登るようになっている。夏休み中で施錠されていて、学校のなかには入れなかった。

小学校の西には木が欝蒼と茂って怖い沼のある中山峠があって、行ったらいけないところだった。まむしに注意と書いてあった。
今では開発されて明るいきれいな公園になっている。まわりの桜の木が春にはさぞ美しいだろう。
終着駅西唐津で待機中のJR唐津線の列車。佐賀行き。東に向かって次は唐津駅でここで筑肥線と分かれる。
昭和天皇も降り立たれた駅であるが、乗降客はすくない。私の実家はこの駅の線路の北側にあった。道路はかなり迂回するので、鉄条網をくぐって停車中の石炭運搬用の無蓋車の下をもぐって駅の横まで近道し、そこから小学校に走った。それでも遅刻した。

西唐津小学校より東側の西唐津中学校から見た衣干山の姿。
西唐津中学校は私が通った唐津市立第二中学校が大型化したので、佐志中学校と西唐津中学校とに分離され、小学校より少し東側の衣干山の山裾を開発して作られた。佐志中学校も別のところに新築されたので、もとの場所には学校はない。
旧・三菱合資会社唐津支店本館(明治41年建築)はうつくしい洋館で、佐賀県重要文化財であり、現在唐津市歴史民俗資料館になっているが、訪れる人も少なく、展示品もめぼしいものがないのが残念。私の好きだった風見鶏が今は無くなっている。裏側がすぐ海で景色がよかったはずだが、今は大島通と妙見水産団地を結ぶ海上道路が開通して景色を切っている。これもおおいに残念。 西唐津駅前から西へ行くバス道路添いは各店舗がレトロ風に建て直されて、昔の面影はない。この通りと、その先を右に曲がった大島通りには、すし屋、クリーニング屋、饅頭屋、歯医者さん、ガラス屋、肉屋、・・・みんな友達だったけど、どこにいるのやら。下駄屋も呉服屋もあった。本屋もあった。薬屋も。醤油屋も。
今月もこのページにお越しくださって
ありがとうございました。
また来月もお待ちしています。


洋々閣 女将
   大河内はるみ


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