カンナ咲く大河内家(北波多)
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#1 御挨拶

#101
平成20年8




慟哭の時代はるかに

大河内武一陸軍少佐のこと



 皆様、こんにちは。
またこのページをご訪問くださり、ありがとうございます。毎年8月には追悼の意味で戦争のことや亡き人のことを書いていますが、今回も戦争にかかわる内容になりました。

御紹介しますのは、三重県四日市市にお住まいの田中増治郎様です。
田中様は遠いところのかたであり、私とは何のゆかりもなかったかたですが、インターネットがご縁を結んでくれました。
いつもネットの力には、特にその「検索」の力には驚かされるのですが、このたびもまた不思議な力に導かれて63年前にビルマ(当時)で亡くなった親戚の一人の軍人を知ることになったのです。この文章は田中様が今月行われる同窓会のためにお書きになったものですが、ここに頂きました。
お若い方にも読んでいただきたいと思います。



     中部第38部隊(歩兵第33聯隊)派遣
      県立富田中学校付配属将校
     
陸軍少佐   官位は退職(戦没)時
   
大河内武一教官のこと

                                    田中増治郎記


三重県立冨田中学校(現・四日市高校)


08,8の三八会に向け、旧師の写真集を作成しようと取材を始めたが、二三の方のデータが欠落し、収録できなかった。その一人に大河内先生があった。  あだ名はあるが、近寄りがたい風格の教官であったので、欠けるのは残念だった。まさかとは思いながら、ネット上で「大河内武一」を検索した。  唐津市市史編纂室収蔵の『北波多村史』資料、「大河内家文書」の目録と、旅館を経営されている大河内はるみ様(女将)のホーム・ページにヒットした。 その経緯の詳述のゆとりはないが、幸い旅館のアドレスがわかったので、半信半疑でメールした。                                

三重県四日市市の田中増治郎と申します。突然のメールお許し下さい。
私こと三重県立富田中学校(現四日市高校)を昭和16年卒業したものです。
今先生方の写真集を編集しています。当時配属将校としてお世話になった大河内武一教官の
データがブランクになっていますので、探しています。たまたまネット上で大河内惣太さん
の事や、北波多村村史資料の大河内家文書中に 1、桑名中学職員録 2、富田中学校演習計画書
3、大河内武一氏の惣太様への書簡 4、中部38部隊関係の書類 5、履歴書 等々の存在を 
知りました。おそらく当時お世話になった先生に間違いないと確信しました。ご尊家とのご
関係はわかりかねますが、もしご存じでしたら
       1、 同先生の肖像写真
       2、 その後(昭和16〜20)のご消息教えて頂きたいと存じ、厚かましくもお願い致します。
よろしくご配慮のほどを                 三八会(同窓会) 田中


  一日もおかず、まさかと思っていた返信が来た。しかも紛れもない昭和16年当時の写真が添付されていた。はっきりと襟に「38」の部隊記号が見えるではないか、驚きというか、まさに感動ものであった。返信は


田中様 

 メール項戴しました。ご高齢かと存じますのに、大変なお仕事御苦労さまでございます。
 さて、お尋ねの件ですが、大河内武一氏の遺児にあたります大河内明達氏より写真をお借りしましたので、スキャンして添付します。昭和16年の撮影です。
 武一氏は昭和20年にビルマで戦病死されました。詳しい履歴書がありますのでファックスしますから、ナンバーをお知らせくださいませ。なお、私どもと大河内武一氏の関係は、武一氏の義父であります大河内惣太氏が私の主人の祖父、大河内正夫の弟でございます。
 ご編集がうまくいきますように、また田中様のご健勝をお祈りします。

                               大河内はるみ

と、思いもかけない見ず知らずのお方の好意、それも迅速な対応には胸を打った。  久方ぶりの興奮した夜を持った。そして、その旨返信をした。

  心を痛めたのは、まさかが本当になり、彼がインパール作戦で昭和20年戦病死していたことであった。35歳という生涯の短さに言葉を失った。ビルマ方面軍司令部がラングーンを居留民や文官を残して忽然と撤退したのは、彼の死から20日後のこと。首都が英軍の手に落ちたのは、5月2日だった。直属司令官に捨てられた隷下郷土部隊の雨と飢えと疫病の、地獄絵の悲劇を思うと身がふるえる。
同部隊の戦没者は2900名をこえる、と慰霊碑文は訴えている。

  彼が生まれたのは明治43年8月、我々の前に現れたのは昭和13年2学期はじめ、推定28歳頃であったと思う。昭和14年12月藤野少尉が着任、大河内中尉はなぜか富中在籍のまま桑中を兼務していた。我々とは1年に満たないおつきあいだったと思う。 

  緊迫した戦局は、特別志願将校といえども、地方の中学の教官に留めおくことを許さなかった。宇垣軍縮でできた、配属将校制度も様変わりしたことであろう。大河内大尉は、昭和18年郷土の若者を率いて故国を後にしていたのである。
 また、昭和20年は、同級生でも一番多い18名の戦没者を出した。こちらも22歳の人たちである。

  先生のあだ名は「バセ」、当時の教科書のバセドウ氏病者の写真から付けられた。名付け親は故・篠原尚敏君で、彼は大の映画ファン、はじめは「大河内」からの連想で「傳次郎」とつけた。 改名のいきさつはわからないが、同意を求められたのは覚えている。いわば共犯である。いいわけになるが、あだ名は親しみの裏返しである。

  ともに敬愛した一人の青年将校が異境に散っていたこと、彼の鮮明な写真がアルバムに収められたことを報告し編集余話とする。
 
八月は、有縁の亡くなった人を追慕する季節。今更めくが、初めて知るもう一つの史実に、遠くなった慟哭の時代を重ねたのである。 

 ここに大河内はるみ様より送られた履歴を略記し、謝して偲び草とする。                 


           
   大河内武一  略 歴(履歴書抜粋)
        退職時本籍地 佐賀県東松浦郡北波多村大字下平野
              (現 唐津市北波多下平野4297)
        同  官職名 陸軍少佐 大河内武一
                       明治43年8月13日生

                    記事 
昭和5      幹部候補生として歩兵第46連隊に入営
昭和6       予備役編入
昭和9       歩兵少尉
昭和13      第9次特別志願将校として採用 補歩兵第33連隊附 学校服務を命ず
昭和14      三重県立富田中学校服務如故、12月歩兵中尉
昭和16      歩兵第151連隊附に充用学校服務如故
昭和17.6    免三重県立富田中学校服務、命三重県立宇治山田商業学校服務、
           明野農蚕学校服務
昭和18      免学校服務、歩兵第151連隊第9中隊長を命ず
           軍令陸第110号に依り臨時動員下令
昭和19.3    宇品港出帆 大尉 昭南港上陸
同     5    モール到着後反転しイエウに集結、カレウ、モーデムを経て
           チュラチヤンドプールに前進
同     6    ウ号作戦並びに次期態勢移行のための作戦に参加
同    10    盤作戦に参加
昭和20.4.4  ラングーン第106兵站病院に於て左胸部湿性胸膜炎に依り戦病死
          少佐


<参考>  歩兵第151連隊戦没者慰霊碑文 (三重県津市 三重県護国神社)

 歩兵第151聯隊(安第10022部隊)は 昭和16年9月三重県久居町に新設され昭和18年11月動員下令 昭和19年3月ビルマ国へ出動した
 聯隊主力はインド国インパール攻略戦に 第1大隊は北ビルマ戦線に5月より参加した
  時あたかもビルマは雨期に入り 山中にて食糧その他の補給も無く栄養失調と過労により身体は衰弱しマラリヤ下痢等に悩みながらも勇戦奮闘した
  11月よりオークトウ マンダレー タウンタ付近の戦闘に参加し優秀な装備の敵と交戦戦場は惨烈苛酷をきわめた
  その後各地を転戦し昭和20年6月より雨期の泥沼の如きシツタン河口に於て必死の攻防戦を展開中8月終戦の大詔を拝するに至った
  風土の異なる遠き辺境に於いて戦陣にあること1年5か月この間連合軍悪疫との戦に斃れたる戦友は2千9百余柱を数える
  誠に痛恨の極みである
  ここに慰霊碑を建立し祖国に殉じたる戦友の遺烈を偲びその功績を顕彰する
  在天の英霊願わくは永久に安らかならんことを
     昭和55年10月
                          歩兵第151聯隊戦友会建之

<文献>
唐津市史編纂室蔵『北波多村史』 資料「大河内家文書」
参八会物故者名簿
『四日市高校七十年史』
洋々閣ホームページ
写真集『白亜の壁は寂びたれど』
『歩兵第151連隊史』



 田中様からは引き続き、大河内武一教官の思い出が送られてきました。

  
大河内様                    田中増治郎
 先頃は、お恥ずかしいものをお目にかけました。 年をとると頭が固くなって、どうしても大時代的な青眼に構えた文章や、ねじれた構成になりがちです。お見苦しいところお許し下さい。
 さて、貴メール中「供養」とありましたので、私も薄れかけている記憶を懸命に呼び戻し自分だけの思い出にもしようとしました.。

大河内先生について思い出したこと

○ 先生とは短いおつきあいでした。1年ぐらいでしたでしょうか。私たちは昭和16年3月卒業しました。

○ 着任早々の授業、校庭で整列、先生(当時中学校では教官と呼ばなかった)の臨席を待っていました。敬礼の授受があって間もなく、「むえないね」と言われました。何のことかわかりません。間をおいてそれが「燃えないね」と気づいたのです。なにを燃やしていたのか今では何も覚えていませんが、強い印象を受けた、というより吹き出すのをこらえるのに困ったことが忘れられません。今考えると「も」を「む」と発音するのは唐津地方のなまりだったのでしょうか。近寄りがたい風格と前言しましたが、このできごとで私たち生徒の間で悪く言えば「くみしやすし」、よく言えば「身近な人」という感情が湧いたのでした。

○通常、陸軍では屋外軍装(野戦をのぞく)では着帽、曹長以上は軍刀を着帯しています。刀帯に刀を吊る革のベルトのようなもの(名称は忘れました)、尉官は裏が水色のものが使用されていました。刀緒も同じです。 先生のはそれが鎖でした。勿論金属でメッキしてあり、歩くと刀身にあたり、チャラチャラ音がしました。それが何とも目立ち、今で言うなら「カッコイイ」姿で、これも生徒には新鮮でした:

○もう一つ、服装のことですが、これはほんとうに曖昧な記憶で全く違う人物かもしれません。祝日のことだったと思いますが、陸軍の正式礼装で参列されたのです。帽子には鳥の羽のついた前立、黒い服に飾り肩章、初めて見る華やかな姿でした。あの時代としても珍しかったのではないでしょうか。軍隊生活を経験しましたが、こんな服装を見たのはこの時だけでした。ご遺品の中に残されていたら、またご遺族のご記憶と合えばと思うと、期待がふくらみますが、これ以上イメージ遊びもできません。しまい込んで置きます。以上とりとめのない夢みたいな話ですが、お聞き下さって有り難うございました。


田中増治郎様はこういうお方です。
 
 大正12年(1923)11月生
 軍歴  昭和18年学徒出陣期中部128部隊入営 航空兵
      終戦は岐阜各務ヶ原で迎える 陸軍少尉
 学歴  昭和16年三重県立富田中学校卒
      同 18年広島高等工業学校醸造学科卒
 職歴  戦後家業に従事 
 職業  酢製造業自営
 ネット  四日市市四郷地区方言録 たなかますじろう 
          営業のHPなし 

 
 お顔の写真をとお願いしましたが、自分の顔は嫌いだと断られてしまいました。そのかみの眼光炯炯たる若き陸軍少尉を勝手に想像しています。現在のお顔は想像しようもございませんもの。


  田中様よりのメール文中に「大河内家文書」ということばがあり、その中に「武一氏より惣太氏への書簡」という文字があります。今回気になって調べましたところ、武一氏から父の惣太氏へのものはなく、他人から惣太氏あての書簡が2通と、武一氏へ鶴田家の兄と弟からの14通の軍事郵便でした。内容は南支に従軍している鶴田家兄と弟からそれぞれ情細やかに武一氏家族の安否を問うたり、武一氏が用

大河内明達氏   
立てた物に対するお礼などでした。武一氏の書かれたものは目にできませんが、返信から武一氏がお金や甘いもの、慰問袋、写真、また伊勢神宮のお守りまで送られたことがわかり、氏の人柄が偲ばれるものでした。宛先の住所は富田町と桑名が半々くらいで、1通だけが富田町の個人の名前気付になっていてあとは全部学校宛になっていました。手紙の内容から、武一氏は一時桑名中と富田中を兼任しておられたことがわかります。田中様はすぐにその個人名を突き止めてくださって、武一氏が富田町時代に寄宿?間借り?していたお家の写真を送って下さいました。今はお孫さんの代になっていましたが、家は変わらないそうです。


陸軍少佐 大河内武一之墓

 私どもの大河内家は明治26年に16歳の大河内正夫と両親が北波多村を出てここ満島村に創業したものですが、その時弱冠13歳の二男・惣太氏は一人残って父祖の山林を守り、杉やヒノキの美林を育てたのです。日露戦争にも従軍なさったのですが、その時には留守の家を釘で打ち付けて出られたとか。
妻タキさんとの間に5女を設け、三女マサエさんに婿を迎えられました。この婿が、現・伊万里市の波多津の鶴田家から来られた武一氏です。武一氏の長男・明達氏は昭和17年に三重県桑名で出生しています。現在65歳で、唐津市(合併後)北波多下平野の広大な山林をまもっています。
 梅雨明け宣言があって突然猛暑が襲ってきた日に私は久しぶりに下平野の緑したたる山河を再訪しました。明達氏の案内で武一氏のお墓に詣でました。いくつか並ぶ大河内家の墓石の中でひときわ大きく、その墓は立っていました。その墓だけが両脇に自生したなんの木かに覆われ、抱かれて、まるで守られているように見えました。ビルマの雨期に行軍し、斃れ、さぞおつらかっただろうと思うと、自然のこの傘が武一氏の墓にだけさしかけられているのさえ天の恵みに思えました。武一氏の妻・マサエさんは92歳で、やさしい息子夫婦、孫夫婦、元気なひ孫たちに囲まれ穏やかな日々を過ごされています。



お読みいただきありがとうございました。どうぞ皆様のお宅での亡き人々への思いが静かな祈りで満たされますように。
また来月おあいしましょう。

今月もこのページにお越しくださって
ありがとうございました。
また来月もお待ちしています。


洋々閣 女将
   大河内はるみ


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