08,8の三八会に向け、旧師の写真集を作成しようと取材を始めたが、二三の方のデータが欠落し、収録できなかった。その一人に大河内先生があった。 あだ名はあるが、近寄りがたい風格の教官であったので、欠けるのは残念だった。まさかとは思いながら、ネット上で「大河内武一」を検索した。 唐津市市史編纂室収蔵の『北波多村史』資料、「大河内家文書」の目録と、旅館を経営されている大河内はるみ様(女将)のホーム・ページにヒットした。 その経緯の詳述のゆとりはないが、幸い旅館のアドレスがわかったので、半信半疑でメールした。
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三重県四日市市の田中増治郎と申します。突然のメールお許し下さい。
私こと三重県立富田中学校(現四日市高校)を昭和16年卒業したものです。
今先生方の写真集を編集しています。当時配属将校としてお世話になった大河内武一教官の
データがブランクになっていますので、探しています。たまたまネット上で大河内惣太さん
の事や、北波多村村史資料の大河内家文書中に 1、桑名中学職員録 2、富田中学校演習計画書
3、大河内武一氏の惣太様への書簡 4、中部38部隊関係の書類 5、履歴書 等々の存在を
知りました。おそらく当時お世話になった先生に間違いないと確信しました。ご尊家とのご
関係はわかりかねますが、もしご存じでしたら
1、 同先生の肖像写真
2、 その後(昭和16〜20)のご消息教えて頂きたいと存じ、厚かましくもお願い致します。
よろしくご配慮のほどを 三八会(同窓会) 田中
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一日もおかず、まさかと思っていた返信が来た。しかも紛れもない昭和16年当時の写真が添付されていた。はっきりと襟に「38」の部隊記号が見えるではないか、驚きというか、まさに感動ものであった。返信は
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田中様
メール項戴しました。ご高齢かと存じますのに、大変なお仕事御苦労さまでございます。
さて、お尋ねの件ですが、大河内武一氏の遺児にあたります大河内明達氏より写真をお借りしましたので、スキャンして添付します。昭和16年の撮影です。
武一氏は昭和20年にビルマで戦病死されました。詳しい履歴書がありますのでファックスしますから、ナンバーをお知らせくださいませ。なお、私どもと大河内武一氏の関係は、武一氏の義父であります大河内惣太氏が私の主人の祖父、大河内正夫の弟でございます。
ご編集がうまくいきますように、また田中様のご健勝をお祈りします。
大河内はるみ |
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と、思いもかけない見ず知らずのお方の好意、それも迅速な対応には胸を打った。 久方ぶりの興奮した夜を持った。そして、その旨返信をした。
心を痛めたのは、まさかが本当になり、彼がインパール作戦で昭和20年戦病死していたことであった。35歳という生涯の短さに言葉を失った。ビルマ方面軍司令部がラングーンを居留民や文官を残して忽然と撤退したのは、彼の死から20日後のこと。首都が英軍の手に落ちたのは、5月2日だった。直属司令官に捨てられた隷下郷土部隊の雨と飢えと疫病の、地獄絵の悲劇を思うと身がふるえる。同部隊の戦没者は2900名をこえる、と慰霊碑文は訴えている。
彼が生まれたのは明治43年8月、我々の前に現れたのは昭和13年2学期はじめ、推定28歳頃であったと思う。昭和14年12月藤野少尉が着任、大河内中尉はなぜか富中在籍のまま桑中を兼務していた。我々とは1年に満たないおつきあいだったと思う。
緊迫した戦局は、特別志願将校といえども、地方の中学の教官に留めおくことを許さなかった。宇垣軍縮でできた、配属将校制度も様変わりしたことであろう。大河内大尉は、昭和18年郷土の若者を率いて故国を後にしていたのである。
また、昭和20年は、同級生でも一番多い18名の戦没者を出した。こちらも22歳の人たちである。
先生のあだ名は「バセ」、当時の教科書のバセドウ氏病者の写真から付けられた。名付け親は故・篠原尚敏君で、彼は大の映画ファン、はじめは「大河内」からの連想で「傳次郎」とつけた。 改名のいきさつはわからないが、同意を求められたのは覚えている。いわば共犯である。いいわけになるが、あだ名は親しみの裏返しである。
ともに敬愛した一人の青年将校が異境に散っていたこと、彼の鮮明な写真がアルバムに収められたことを報告し編集余話とする。
八月は、有縁の亡くなった人を追慕する季節。今更めくが、初めて知るもう一つの史実に、遠くなった慟哭の時代を重ねたのである。
ここに大河内はるみ様より送られた履歴を略記し、謝して偲び草とする。
大河内武一 略 歴(履歴書抜粋)
退職時本籍地 佐賀県東松浦郡北波多村大字下平野
(現 唐津市北波多下平野4297)
同 官職名 陸軍少佐 大河内武一
明治43年8月13日生
記事
昭和5 幹部候補生として歩兵第46連隊に入営
昭和6 予備役編入
昭和9 歩兵少尉
昭和13 第9次特別志願将校として採用 補歩兵第33連隊附 学校服務を命ず
昭和14 三重県立富田中学校服務如故、12月歩兵中尉
昭和16 歩兵第151連隊附に充用学校服務如故
昭和17.6 免三重県立富田中学校服務、命三重県立宇治山田商業学校服務、
明野農蚕学校服務
昭和18 免学校服務、歩兵第151連隊第9中隊長を命ず
軍令陸第110号に依り臨時動員下令
昭和19.3 宇品港出帆 大尉 昭南港上陸
同 5 モール到着後反転しイエウに集結、カレウ、モーデムを経て
チュラチヤンドプールに前進
同 6 ウ号作戦並びに次期態勢移行のための作戦に参加
同 10 盤作戦に参加
昭和20.4.4 ラングーン第106兵站病院に於て左胸部湿性胸膜炎に依り戦病死
少佐
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<参考> 歩兵第151連隊戦没者慰霊碑文 (三重県津市 三重県護国神社)
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歩兵第151聯隊(安第10022部隊)は 昭和16年9月三重県久居町に新設され昭和18年11月動員下令 昭和19年3月ビルマ国へ出動した
聯隊主力はインド国インパール攻略戦に 第1大隊は北ビルマ戦線に5月より参加した
時あたかもビルマは雨期に入り 山中にて食糧その他の補給も無く栄養失調と過労により身体は衰弱しマラリヤ下痢等に悩みながらも勇戦奮闘した
11月よりオークトウ マンダレー タウンタ付近の戦闘に参加し優秀な装備の敵と交戦戦場は惨烈苛酷をきわめた
その後各地を転戦し昭和20年6月より雨期の泥沼の如きシツタン河口に於て必死の攻防戦を展開中8月終戦の大詔を拝するに至った
風土の異なる遠き辺境に於いて戦陣にあること1年5か月この間連合軍悪疫との戦に斃れたる戦友は2千9百余柱を数える
誠に痛恨の極みである
ここに慰霊碑を建立し祖国に殉じたる戦友の遺烈を偲びその功績を顕彰する
在天の英霊願わくは永久に安らかならんことを
昭和55年10月
歩兵第151聯隊戦友会建之 |
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<文献>
唐津市史編纂室蔵『北波多村史』 資料「大河内家文書」
参八会物故者名簿
『四日市高校七十年史』
洋々閣ホームページ
写真集『白亜の壁は寂びたれど』
『歩兵第151連隊史』
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