このページは、色々な方にご協力いただいて、
唐津のおみやげ話をお伝えするページです。
バックナンバーもご覧頂ければ幸いです。


#1 御挨拶

#100
平成20年7




115年記念、100回記念!
「洋々閣 115年」


115年です。100回です。おめでとう!
何が?
115年は洋々閣創業、100回はこのページですよ。
このむつかしい時代にようも115年続いたこと!
おめでとう、ありがとう!

このページの100回にしても、
毎月毎月、知ったふりやら、大風呂敷やら、日本語版と英語版と二つずつ更新するのって、
タイヘンだったんだから〜。
始めたときから8年も経つと、めっきりおとろえを感じるのです。
目はかすむ、肩は凝る、指は動かない、記憶は溶けていく・・・
おまけに太りすぎで心の臓がオーバーロード、
ドクターにダイエットを厳命されて・・・

ですから、115年おめでとう、なんて言って
虎屋の羊羹だとか、開進堂のケーキだとか、
全国津々浦々の銘菓なんて、
送ってこないでね、みなさん!
送ってくださるなら、
バラを100本や、アジサイの鉢植えなんかがよろしくってよ。
ワタシ、アジサイと椿が一番好きです。

それはともかくとして、
今後を考えて、いいことを思いついたんですけど、
聞いてくださいます?

論文募集!

ってことです。

このページに投稿をお待ちします。
テーマは「唐津」。
唐津の思い出、とか、唐津関係の歴史や文学に関するウンチクだとか、
「唐津」って文字が何回かでてくるものであれば結構です。
唐津の面白い、スゴイ、変った人の紹介もいいかも。
メールにワードの文書を添付してお送りください。
「ご挨拶」ページへの投稿だとはっきりわかるようにしてください。
HTML文書は編集に困りますから、単純なテキストファイルにしてください。
ワードやメールが苦手な人は手書きでFAXでも結構です。

掲載の基準は特になし。私の独断。
年齢制限もなし。5歳から100歳までOKよ。
原稿をいただいた時点でこちらからご連絡しますから、
ご住所、お名前、電話番号をかならずお書き下さい。
匿名はだめです。掲載時にはペンネームなら大丈夫です。

掲載させていただいた場合は原稿料の代わりに、洋々閣のご利用券を贈ります。
宿泊やお食事に使っていただけます。
かわいそうな年寄りを助けると思って応募してくださいね!!!

さてさて、ここまでは長い前置きでした。ここから今月号の「洋々閣115年」です。

しんぼうしておつきあいください。




洋々閣115年
わがこころの満島



 115年前の明治26年、大河内政太郎、タエ夫妻は在所の北波多村下平野の山林を13歳の二男・惣太にまかせて長男正夫とともに佐賀県東松浦郡満島村新築町に創業しました。ここは唐津湾の波と松浦川の流れが両脇から運んだ砂で出来上がった砂洲の上の細長い土地です。
松浦川を石炭を運ぶ船が下ってきて大きい船に積み替える土地でしたから、江戸時代から石炭買付の薩摩藩武士など多く訪れたところです。明治になって日清・日露戦争時代は海軍の需要もあり、石炭景気でにぎわった町でした。大正11年に隣の唐津町と満島村は合併をしましたが、大河内正夫は村会議員として合併書に調印しています。
唐津村(現・西唐津)に港が開かれ鉄道がひかれてからは石炭積み出しのにぎわいは西に移りますが、私鉄・北九州鉄道が博多から開通すると遊覧の時代の幕開けで、東唐津駅は玄関口としてにぎわいました。
このページは洋々閣115年を記念し、細々ながら家業を守った先祖たちへの感謝を表すものです。何回かの戦争と、たくさんの台風と、経済的な浮き沈み、そしていくつかの悲しみを乗り越えてなんとか続いている洋々閣をどうぞ今後ともお見限りなくご贔屓賜りますようお願い申し上げます。

 
     
初代 明治 - 大正
満島村の古い姿。
長い橋は木造の360間の松浦橋。現在地より200メーターほど西にあった。島は高島。左の小高いところは現在唐津城が立つ満島山。
大河内政太郎
1858-1922
松浦党大河内家の流れとして北波多村下平野に元平・マツ夫妻の長男として生まれた。1893年に満島村に移転。洋々閣創業。軌道にのったらしく、両サイドを買い1912年から13年にかけて全面改築し、現在の形に。
大河内タエ
1857-1937
石志村に山崎家の長女として生まれる。
政太郎の妻。正夫の母。
長男の嫁イネ、夫、長男正夫に先立たれて、高齢ながら孫娘ミツヨを育て店を切り盛りした。
100年ほど前の洋々閣の庭。雪の日。
二代 大正
大河内正夫
1878-1925
北波多村に政太郎・タエ夫妻の長男として生まれ、1983年に満島に移る。村会議員や東松浦郡会議員として働いた。47歳で没。
大河内イネ
1886-1908
唐津町の堤家の長女として生まれた。16歳で正夫に嫁し17歳で長女ミツヨを生み、5年後にもう一人娘を産んだがその子供はすぐになくなり、産後の肥立ちがわるかったイネも半年後に没した。
正夫の葬儀には村中の人が出てくださったとか。花嫁のように白無垢を着て綿帽子をかぶって、位牌を持っているのが、娘のミツヨ。当時は遺族の喪服はそんなものだったのですね。
三代 昭和
大河内ミツヨ
1903-1948
大河内正夫・イネ夫妻の一人娘。5歳で母と死別。祖母タエに育てられる。
呼子村の永井等と結婚。5男1女を産む。観世流仕舞をよくしたそうだが、45歳で急病で亡くなった。
大河内等
1901-1975
呼子村の酒屋永井磯五郎・ゲン夫妻の長男として生まれる。大河内ミツヨに婿入り。在郷軍人会長や、戦後は観光協会や旅館組合の世話をした。相撲が好きで、囲碁が好きな、がんこな老人であった。
永井磯五郎とゲン夫妻。
大河内等の両親。呼子の名家対馬屋。
四代 昭和ー平成

大河内明彦
1934-
大河内等とミツヨの三男として現在地に生まれる。早稲田大学を卒業後箱根の富士屋ホテルで修業したのち家業を継ぐ。


大河内はるみ
1944-
釜山生まれで一歳で唐津に引き揚げ。上智大学卒業後会社勤めや英語教師を経験し大河内明彦と結婚。現在にいたる。
現在92歳の実母を介護中。
五代 平成
大河内正康
1972-
銀行勤めを辞めて2005年より洋々閣支配人となる。奮闘中。

大河内奈穂
1974-
現在子育てに奮闘中。若女将修業はもう少しあとから。
六代候補
大河内朝陽(あさひ)
2004.6.23生まれ (4歳)
昭和幼稚園すみれ組
お客様が見えると飛び出して「いらっしゃいませ」という。

大河内暉羅(あきら).
2008.4.7生まれ (3か月)
生まれる時頭が出ただけでオギャーと泣いた豪傑。
唐津城から見た満島地区(現在東唐津)。正面の台形の山が鏡山。左手に波立っているのが唐津湾、右手、遠くに橋が見えるのが松浦川、手前の水域が河口です。満島に115年。美しいところだと誇りに思います。おかげさまでここで家業を続けていけます。今後ともよろしくお願いします。



今月もこのページにお越しくださって
ありがとうございました。
また来月もお待ちしています。


洋々閣 女将
   大河内はるみ


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