|
|||||||||||||
あらたまの新世紀の初めに___松浦佐用姫 |
|||||||||||||
明けましておめでとうございます。よいお正月をお迎えになりましたでしょうか。今年は巳の年。写真は、佐賀県鹿島の郷土玩具のごみ人形の干支の土鈴です。素朴で、すてきでしょう? 今月は、松浦佐用姫と蛇の話を書きますので、蛇がお嫌いなかたはどうぞパスしてください。 唐津で現在伝わっている松浦佐用姫(まつらさよひめ)の伝説は、万葉集に載っている系統の話、すなわち、佐用姫が夫の大伴狭手彦(おおとものさでひこ)の朝鮮出兵の船を見送って鏡山の上から領巾(ひれ)を振った、という話に、中国の望夫石伝説が混じって佐用姫石化伝説となっているのですが、実は、万葉集より前に成立した『肥前風土記』にあらわれる同じ話は、名前も佐用姫でなく、弟日姫子(おとひひめこ)となっているし、領巾を振って別れを惜しんだあとは、いわゆる「蛇婚神話」の形をとるのです。 私は、蛇は苦手で震えるほど恐いけど、この原始的な神話には魅力を感じています。人と神と自然とがみんな一緒に暮らしていた上代の名残がまだこの土地に残っている事を誇りにさえ思います。願わくは、妙な開発が行われて折角この地に生き延びている、いとしい霊や物の怪や魑魅魍魎たちが追い払われることがありませんように。 別ページに、末廬館の前館長さんで「唐津万葉の会」の事務局長でいらっしゃる岸川 龍先生にお願いして、松浦佐用姫のことを載せさせていただいております。このページの一番下からリンクしていますので、お読みいただければ幸いです。 その論文の中で岸川先生は佐用姫が振ったひれの意味について邪を払う意味がある、とお書きになっておりますが、それについて、私も言いたい!のです。 私は子どものころは、佐用姫は泣きながらハンカチを振ってさよなら、さよなら、と言ったのだろう、と解釈していました。少し大きくなったら、万葉集などを習って「海原の沖行く船を帰れとか領巾振らしけむ松浦佐用姫」を知り、ああ、佐用姫さんは、「その船、返せ〜、戻せ〜」と振ったのだろうな、と思っていました。も少し大人になったとき、少し不思議に思いました。戦争に行く夫です、ただ女を捨てて出て行く男ではないのです、「戻ってきて〜、私を捨てないで〜」なんて、未練たらしく叫ぶでしょうか? いつの時代でも、夫であれ息子であれ、戦に赴く最愛の人を見送るとき女の心を占めるのは、「どうぞご無事で」という祈りが一番大きいのではないでしょうか。 そんなある日、見たのです。名護屋城博物館での日韓交流のプログラムで、韓国の伝統舞踊があり、その中に「ムーダンの踊り」というのがあって、それは白ずくめのチマチョゴリの巫女さんがひれを振って魔物を鎮め行路の安全を祈る踊りだったのです。ご存じのように、ムーダン(巫堂)は韓国の数千年といわれるシャーマニズム的な風習です。私はとても感動していました。佐用姫のひれの意味はこれだと思いました。狭手彦の行くてに波の静かなことを祈り、海神を鎮め、戦場での加護を祈る踊りとして、ひれは振られたのです。多分、佐用姫は、神がかりになっていつまでも山の上でひれを振って荒ぶる神々を鎮めようとしたと思います。佐用姫の祈りは通じて、『日本書紀』によれば、狭手彦は戦果を揚げて生還します。けれども佐用姫との再会はないのです。 佐用姫が巫女の踊りを舞ってひれを振ったのであれば、結末は石になるより、蛇、すなわち神の妻になって池に沈んだほうがわたしには納得できます。 これが私がいくら巳年だとはいえ、新年早々蛇の話を書きたかった理由です。 お能の松浦佐用姫は、「恋は山、涙は海となるものを、またいつの世を松(待つ)浦潟....」と、ひれを振ります。私もまた、佐用姫になったつもりで、今世紀が蛇神さまのご加護により、波静かでありますようにと年頭の祈りをささげつつ、お別れします。 ひれふりの峰跨ぎたる冬虹を佐用姫の幻わたりゆくなり 新納玲子第一歌集『まつかぜ』より 博多人形 松浦佐用姫 井上あき子作 |
|||||||||||||
|
|||||||||||||
|